15.幸せに
フレデリクが手にしてた訓練用の剣が大きく宙を舞った。圧倒的な強さを誇っていた彼が剣を弾き飛ばされるなど、平民の訓練場にやってきて初めてのことだ。
「どうした? 最近おかしいぞ」
対戦していた騎士が気遣わしそうに訊いた。最初はフレデリクに反発していた騎士の一人だが、彼の強さは血の滲むような努力なしでは得られるものではないと実感した今、大切な仲間の一人だと思っている。
「何でもない」
フレデリクは小さく否定の言葉を口にして、剣を拾うために後ろを向いた。否定はしたものの、フレデリクには原因はわかっていた。そして、女性を想い浮かべて対戦中にぼんやりするなどあり得ない。仕事に色恋を持ち込むなど許されないと、自らを責めている。
「少し休めばどうだ?」
王都を守る騎士としての仕事をこなしながら、フレデリクはこうして毎日訓練に励んでいた。それは向上心というより、まるで自分自身を痛めつけているようだと、仲間の騎士は感じている。
「そうする」
剣を拾ったフレデリクは、剣立てに剣を戻し、休憩室へと向かった。
フレデリクが休憩室で水を浴びるほど飲んでいると、弟のペータルがやって来た。井戸から汲みたての水が気にいたのか、自分でコップに注いで勝手に飲んでいる。
「姉さんが無事領地へ戻って行ったよ。イェルドさんと本当に仲が良くて、姉さんは本当に幸せそうだから、母上は涙を流して喜んでいるんだ」
嬉しくても辛くても結局母は泣くのだとフレデリクは思った。
「父上は泣いてばかりいる母上のことが心配ではないのか? ブリットを泣かせたくないから騎士と結婚させないと言っておきながら、自分はあんな弱々しい母上と結婚しているからな」
体格もかなり違い、獅子と猫のような夫婦だと世間では言われている。フレデリクもそう感じていた。
「父上は兄さんに厳しくて、まだ小さい時に従騎士として家を出たから、兄さんは母上のことをよく知らないんだな。母上はあれで結構したたかなんだよ。二人の結婚の逸話は知っている?」
「母上は公爵家の姫だったが、父親が亡くなって叔父が家を継ぐようになり、かなり年の離れた男の後添いにされそうになった時、戦争を終わらせ英雄となった父上が攫っていったのだろう?」
今でも演劇として上演されるくらいに二人の逸話は知れ渡っていた。フレデリクもそう聞いている。
「それは表向きだよ。英雄の逸話としてはそっちの方が受けが良かったんだろうね。本当は母上が押しかけたんだって。叔父も結婚相手も英雄相手なら引き下がるだろうって計算してのことだ。母上から直接聞いたから間違いない。女はそれほど弱くないって、母上はいつも言っているよ」
母の知られざる実態を聞いてしまい、フレデリクは少なからず衝撃を受けてしまう。それでも、たおやかなセシーリアは母ほど強くないと思う。
それから数日後、カルネウス公爵家の執事が再び現われる。前と同じように公爵家の紋章を掲げた馬車を用意していた。
「礼はいらないと閣下には伝えたはずだが」
同行を求める執事に、フレデリクはなんとか抵抗した。公爵邸へ行ってしまえば、セシーリアの姿を求めてしまうのがわかっていたからだ。そして、一目でも彼女に会ってしまえば、想いを抑えきれなくなることも知っていた。
「今回はお礼ではございません。急用がありますので、フレデリク様にご足労をいただきたいのです」
公爵の急用とは何か、フレデリクには全く想像できないが、これ以上無下に断ることもできない。
訝しく思いながら、フレデリクは馬車に乗り込んだ。
玄関ホールで待っていた公爵は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。これは絶対に礼ではないとフレデリクでもわかる。セシーリアから何か聞いたのかもしれない。彼女がフレデリクに腹を立てているのならば、公爵の怒りを買っても仕方がないと思う。
平民の騎士が公爵に呼び出されたのだ。どのような仕打ちが待っているかわからないが、碌なことにならないだろうとフレデリクは覚悟するほかなかった。
「君には私の決めた相手と結婚してもらう」
とても結婚を勧めるような態度ではなく、公爵は思いきりフレデリクを睨んでいる。
「閣下、お願いです。私への罰であることは理解しておりますが、無関係な女性を巻き込むことだけはおやめください」
フレデリクがそう頼むと、公爵は益々不機嫌になる。
「侮らないでくれ。私は二度も望まぬ結婚を強要するような卑怯な男ではない。相手の女性が結婚を望んでいるのだ。どうだ、この結婚を受けるか?」
公爵の問いに、フレデリクはすぐに答えを返すことができなかった。
しばらく悩んだ後、フレデリクは答えを出す。
「私のような者を夫にしたいと求めてくださるのなら、結婚をお受けいたします」
公爵と縁がある女性が、ただの騎士であるフレデリクとの結婚を望むのは変だと思ったが、何か事情があるのだろうと彼は受け入れることにした。結婚を望んでいる女性となら、互いに辛い思いはしないはずだ。
こうして強制的に結婚してしまった方が、セシーリアを諦められるだろうとフレデリクは考えていた。
公爵からの要請であるのに、フレデリクが了承したことにより公爵の顔つきは更に厳しくなる。
「想う相手がいるからと、断らないのか?」
「いくら望んでも得られぬものがあることくらい、私にもわかります」
怒りの表情を浮かべている目の前の公爵は、絶対にセシーリアをフレデリクに嫁がせたりしないだろう。いくら望んでも無駄なのだとフレデリクは思う。
「結婚すれば、彼女だけを愛すると誓うか? 他に愛人など作らないだろうな?」
「私は騎士ですので、そのような不実な行いは致しません。一生、妻となる女性を守る所存です」
フレデリクの言葉に嘘はない。妻を得たのならば、心を殺してでも彼女のために生きると誓う。
「わかった。その女性に会わせてやる。ついて来い」
そう言って公爵が向かったのは、広大な庭の一画に設えた四阿だった。
「セシーリア様?」
フレデリクは目を見開いたまま、それ以上言葉を続けることができなかった。
四阿にはセシーリアとその母親である公爵夫人が座っている。他に誰もいない。
「仕方がないだろう。愛人を作るような不実な男と結婚するくらいなら、再び修道院へ入ると娘が言い張るのだから。そして、君なら愛人など作らず一生大切にしてくれると言っている」
納得はしていないというような苦々しい顔をしながら、言い訳がましく公爵はそんなことを言い出した。
「しかし、私は平民の騎士で……」
「私を誰だと思っている! 君の爵位を戻すくらい容易いことだ。ところで、さっきの言葉は嘘か? 我が娘では不満なのか? それならさっさと帰ってもらってもいい」
公爵はフレデリクの言葉に被せてきた。公爵の胸中も複雑だ。可愛い娘の希望を叶えてやりたい思いと、もっと相応しい男がいるのではないかとの葛藤で、かなり余裕を失くしている。
「まあ、結論をそんなに急がなくてもよろしいではないの。セシーリア、フレデリク様を庭にご案内すれば。あちらの薔薇が見頃だわ」
優雅に立ち上がって、フレデリクから騎士の挨拶を受けた公爵夫人は、微笑みながらセシーリアを見ていた。
「そうですね。フレデリク様、あちらへ参りましょう。お父様、ついてこないでくださいね」
目で公爵を牽制したセシーリアは、微笑みながらフレデリクに手を差し出す。フレデリクは思わずその手をとってしまい、震えるような無様な真似だけはできないと、手に意識を集中した。
「ご迷惑でしたか?」
ぎこちなく歩くフレデリクの様子に、セシーリアは少し不安になる。
父から結婚相手を探すと言われた時、彼女はフレデリクの泣き顔を想い浮かべた。号泣していた彼を幸せにしたい。そして、彼ならば必ず幸せにしてくれると、根拠もなくセシーリアは思ってしまったのだ。
それを公爵に伝えたところ、早速フレデリクを呼び出し、こうして会うことになった。そこにはフレデリクの意思は入っていない。
「いいえ、大変光栄なことです。セシーリア様にお会いできるのは、舞い上がってしまうほど嬉しいのですが、俺は騎士なので、貴女を一生お守りできないかもしれません」
幼い頃より国に剣を捧げてきたフレデリクだ。最近は他国との争いもなく平和であるが、いつ戦争が始まるかもわからない。父のように英雄になりたいわけではないが、国のために戦う覚悟はしている。
フレデリクの言葉を聞いたセシーリアは、小さなバッグからハンカチを取り出した。そして、広げてみせる。そこには真っ赤な鬣の大きな獅子が刺繍されていた。
ブリットから騎士の妻はハンカチに刺繍して夫に贈ると聞いて、セシーリアが手ずから刺繍したものだ。
「このようなハンカチは騎士様を守ってくれるのでしょう?」
「これを俺に?」
ブリットにハンカチを贈られたイェルドが、感動のために言葉さえ失った気持ちが今のフレデリクには理解できた。嬉しいなどという言葉では絶対に言い表せない。セシーリアの優しさが全身を包み込んでいくような高揚感に彼は身を任すほかなかった。
「騎士が危険だということは理解しております。でも、フレデリク様はお強い方ですもの。たとえどのようなお姿になっても、わたくしのところへお戻りになると信じております。腕を失っても、脚を失っても大丈夫です。わたくしがお世話をいたしますので、安心してください」
「俺は……」
幸せだと続けようとしたフレデリクだが、口を開けば泣いてしまいそうなので、歯を食いしばって耐えていた。
「わたくしとの結婚を考えていただけますか?」
「も、もちろんです」
ここまで言われて、頷かないなどあり得ないとフレデリクは思う。セシーリアはとてもたおやかな女性だと思っていたが、案外強いのかもしれない。母の『女はそれほど弱くない』との言葉は真実だとフレデリクはしみじみと感じていた。
「幸せになりましょうね」
セシーリアはフレデリクの大きな手を掴んだ。あの湖の畔で交わした約束をこれで守ることができると思うと、彼女は思わず微笑んでしまう。そんなセシーリアがあまりに可愛く、フレデリクは声も出せず、ただ頷いていた。
「普通、そこはキスをするところでしょう。彼はちょっと奥手みたいだから、セシーリアが押し倒すしかないのかしら」
「そんなことは絶対に許さん!」
公爵夫妻が木の陰から見守っていたが、見つめ合うフレデリクとセシーリアは全く気がつかなかった。