第17話 カフェ
不思議な感覚だった。
店内には時計の類が一切見当たらない。大きな掃き出し窓が一つ設えられていたが、そこから覗く外の風景は、まるで万華鏡のように目まぐるしく変化していた。満開の桜が舞い散る春の公園が見えたかと思えば、眩しい日差しが照りつける青い海と白い波打ち際に変わり、深紅に染まる紅葉の山々を見渡せたかと思えば、次の瞬間には一面の銀世界へと様変わりする。
ポケットの中の端末を取り出してみたが、画面は無機質なエラー表示を繰り返すばかりで役に立たない。通りがかった店員に「今何時ですか」と尋ねてみても、「お客様が入ってきた時間ですよ」と微笑みながら返されるだけだった。
つまりは、この奇妙な店の中にいる限り、時間は完全に停止しているらしい。
取り敢えず俺はアイスコーヒーを注文し、使い込まれた木の温もりが残るカウンター席に腰を下ろした。
カランと涼やかな音を立てるグラス、磨き上げられたウッド調の調度品、柔らかな暖色の照明。少し前までの死線と隣り合わせだった荒々しい戦闘が嘘のように、そこにはどこまでも穏やかで浮世離れした時間が流れていた。
「はい、アイスコーヒーです。お待たせしました。」
店員の女性が目の前に置いたグラスからは、どこかオリエンタルで不思議な香りが立ち上っていた。一息ついて口を含んでみる。コクと酸味のバランス……などという言葉では説明がつかない、これまで味わったどの珈琲豆とも異なる未知の風味が舌の上に広がった。不快ではなく、どこか懐かしさすら覚える不思議な味だった。
ふと横を見ると、店内の一角で小さな象が器用に動き回っていた。店員が「洗浄スタッフ」と呼んでいたその小象は、パタパタと耳を揺らしながら俺たちの側まで歩み寄ってくると、長い鼻をふんと持ち上げて大きく空気を吸い込んだ。すると、つい先ほどまで俺たちの服や肌にまとわりついていた泥と硝煙、不快な死線の匂いが、まるで霧が晴れるようにきれいに消え去っていく。ひと通り吸い尽くした後、小象はなんとも言えない不快そうな顔で鼻をシワ寄せてみせた。それがあまりに人間くさく、申し訳ない気持ちと可笑しさが同時に湧き上がった。
一息ついたところで、ダメ元で店員にサユの行方について尋ねてみたが、彼女は首をかしげるばかりで何も知らないようだった。
ふと見れば、俺たちが潜り込んできたドアから、ぽつりぽつりと新しい客が入ってくる。しかし、洗練された洋服を着た老紳士や、珍しい衣装を纏った若者たちの姿を見れば、彼らが俺たちのように汚い下水道から這い上がってきたわけではないことは明白だった。どうやらこの店の扉は、あらゆる場所、あるいはあらゆる世界と繋がっているらしい。
静寂と居心地の良さに浸り、もう少しここで身を休めていたかったが、いくら時間が止まっている空間とはいえ無為に長居するのは気が引けた。
グラスに残った氷を揺らし、コーヒーを飲み干して立ち上がろうとすると、カウンターの向こうから店員が少し困惑したような声をかけてきた。
「あの、すみません……お帰りになる前に一つお伝えしなければならなくて。お二人が入ってこられた下水道の出口なんですけど、先ほど塞がせていただきました。あそこ、この間ちょっと用事があってこちらと繋げたんですけど、元の状態に戻すのをすっかり忘れていたみたいで……。ですので、お客様には大変お手数ですが、別の場所からお帰りいただくことになるのですが……」
申し訳なさそうに眉をひそめて頭を下げる店員だったが、追われる身の俺たちにとっては、むしろ願ってもない渡りに船だった。追手の手が及ぶ下水道に戻る必要がないのだから好都合だ。
「じゃあ……取り敢えず、無難な地上に出してもらえるなら――」
俺がそう言葉を続けようとした瞬間、横から拓郎さんが静かに、しかし強い語調でそれを遮った。
「この女性がいる場所へ行きたいんですが……できますか?」
拓郎さんは胸ポケットから使い古された写真を取り出し、サユの姿が写った面を店員に見せた。
そんな無茶な指定ができるはずがない。時間の止まる店とはいえ、ただの居場所探しまで代行できるわけが――そう言いかけた俺の思考は、店員の軽い返答によって呆気なく打ち砕かれた。
「ああ、なるほど。ちょっと確認してきますね。少々お待ちください。」
店員は写真を覗き込むと、何事もない様子で奥のバックヤードへ引っ込んでいった。取り残された俺と拓郎さんは、互いに顔を見合わせる。呆れと困惑、そして微かな期待が入り交じった沈黙が流れた。
しばらくすると、奥の扉から店員が戻ってきた。
「あ、大丈夫だそうです。お探しの女性のすぐ近くに繋げられますよ。」
彼女はそう言うと、カウンターの下から古びた真鍮の鍵を一本取り出し、店の一角にある重厚な木製の扉へと近づいた。鍵穴に鍵を差し込み、カチリと乾いた音を響かせる。
「あ、でも一つだけご注意を。あちらへ行かれたら、もうこの店経由で元の場所へ戻ることはできませんので、その点だけご了承下さいね。それでは、またのご来店をお待ちしています。」
ドアノブが回され、扉が勢いよく開け放たれた。
次の瞬間、強烈な吸引力と浮遊感が俺たちの体を包み込み、抗う間もなく未知の外の世界へと力強く投げ出された。




