7-2 好き
ほー、っと溜息を吐けたのは、ようやく病院に着いたから。
母に付き添ってパトカーに同乗してきた朱里は、夜中にわざわざ開けてくれた個人病院の待合室で、その真っ白な蛍光灯を見上げていた。
ほどなくして、中から老年の医師が出てくる。
「いやあ、銃創なんて初めて見たよ」
そののんきな口調を聞けば、わざわざ「お母さんは大丈夫なんですか」なんて焦って食って掛かる意味もないらしい、とあらかじめ知ることができて、だからそのまま続けて、医師の説明を聞くことができた。
「当たり所がよかったね。大きな血管は傷つけてないし、内臓にも損傷はなし。銃弾も綺麗に貫通したみたいだから、体力が戻ってくればすぐ目を覚ますと思いますよ」
「そうですか。ありがとうございます。すみませんこんな夜中に……」
朱里が深々と頭を下げると、いやいや、と医師は手を振って、
「こんなときですからね。総合病院の方も、どうもごたごたしてるみたいだし。……ここにもお巡りさんがいっぱい来てるけど、やっぱり、そっちの関係?」
「はい。ちょっと、巻き込まれちゃって」
「ううん。そうかあ。お巡りさんからの誤射ってわけでもないんでしょ? 雰囲気からして。あ、これ、あんまり訊かない方がいいのかな」
「いえ。でも私は、そのときそこにいなかったので……」
現場を見たのと言えば、と朱里が隣を見れば。
実の娘よりもあからさまに弥生の無事に放心している友人が、そこにいた。
「……英梨花、意識ある?」
「……よか、ったあ……」
「おーい」
呼び掛けながら朱里が苦笑すると、医師も笑って、
「妹さん?」
朱里はきょとん、として、
「友達です。……結構、顔違いませんか?」
「おや、そうか。いやあ、年を取ると若い子の顔がみんな同じに見えちゃってねえ」
まあとにかく、と医師は、
「お母さんのことは心配しないで。しばらくはここにいる形になるのかな?」
「あー、それは……」
すみません、と立ち上がって、朱里は入口の外に立っている警官に声をかけた。医師からこのあとのことを訊かれている、と伝えれば、彼女が中に入ってきて、朱里の代わりに医師と話してくれる。
「どうなるのかな」
と、英梨花が呟いた。
「……移動するんじゃない?」
「だよね」
「まあ、普通の病院に迷惑、かけられないでしょ」
そして思った通り、警官と医師はここから母を運び出す前提で話を進めている。
おそらく、英梨花もそこに行くことになるだろうと朱里は思っている。ふたりとも、白い傷の男に狙われているのだ。今はその生存を知られていないだろうが、しかし何かの拍子に再び男がふたりを狙いに来ないとも限らない。
守る範囲は、できるだけ限定するはずだから。
きっとふたりは、同じ建物の中に行く。
警察署か、それとも他にどこか適した場所があるのか――ぼんやり、その会話に耳を澄ませていると、
「朱里のお母さんね」
と、英梨花が話し出した。
「私には部屋の中にいて、って言って、自分はバリケード作りとか、すごく率先して動いてくれて……」
それは、ついさっき朱里が水を向けた、母が撃たれたときの話。
「だから窓の近くを通ることがあって……そこで、撃たれたみたいだった。ガラス、破れてたから」
そう、と朱里は頷いた。
同時に、恐怖と怒りが内心に生まれている。
もしも、もう一発とどめのために弾が撃ち込まれていたら――母は死んでいたはずだ。
きっとそのとき、銃声を聞きつけた警官が駆けつけてくるよりも先に男は逃げる必要があったから……『しなかった』のではなく『できなかった』なのだろうが、それでも。
もしも、に思いを馳せれば、怖くもなるし、怒りも湧く。
滅びた世界を、いくつも見てきたことも重なって。
英梨花だって。
六十六本の、あの手首のことを考えれば。
その陰にあるはずの、数十の殺人と、死のことを考えれば。
この世界だけは、と朱里は思う。
この偶然の、自分が住んでいる世界だけは、あんなわけのわからない男に好き放題させてなるものかと――強く、強く思うのだ。
話はまとまったらしかった。
それじゃあ、と言って警官がふたりに近寄る。これから移動するから、と言い聞かせる。そして形式上の質問を投げかける。
「それでいいかな」
「あの、ちょっといいですか」
そのタイミングで、朱里は言った。
警官が驚いてる間に、朱里は英梨花に問いかけた。
「あのさ、」
「ん、」
「お母さんのこと、英梨花に任せても大丈夫?」
何を言い出したのか、という顔を、朱里以外のふたりが、どちらもしていた。
「あの、古河さん。できればあなたも同じ場所に――」
「一緒に連れていってもらえませんか? お母さんを撃ったやつ、捕まえにいくのに」
警官の、さらなる絶句。
そのくらいの反応は予想していたから、朱里は怯まない。
「いや、一般市民がね……」
「これ」
近くにあった、小さな鏡に朱里は手を差し入れる。
「お母さんがいないなら、あいつが鏡の中に逃げたとき、私がいないと追えません」
馬鹿なことを言うな、と断じることも、警官にはできたはずである。
未成年が凶悪犯の逮捕に同行する。当然、許されるはずもない願い出だ。
が、しかし。
ついさっき、その未成年がいなければみな死んでいたかもしれない特殊な状況――それを経験してきた警官は、それを即座に断ることができなかった。
いける、と朱里は思った。
僅かでも迷うなら、こっちだって押し通せる。
だから、問題はたったのひとつ。
「英梨花、」
母を、任せても大丈夫か。
怪我をして動けなくなっている母を、託していっても大丈夫か。
誤魔化しは要らなかった。
もしもダメだと英梨花が言うのなら、自分が残ってもいい……本当はそうすべきだと、わかってもいたから。
だから、じっと。
真っ直ぐに、彼女の目を見つめて。
「――――うん。絶対、何があっても。今度は、私の方が」
心から英梨花が頷くのを、見届けた。
英梨花と少ない別れの会話を交わして、無理矢理に朱里はパトカーに乗り込む。文句を言われても、ここにいるのは自分が避難誘導をした警官ばかりだから、強引には排除してこない。
パトカーが走り出す。
男のいる方へ。
朱里の手は強く握られて、こんなことを思っている。
叩きのめしてやる。
゜。゜。゜。゜。
ずっと、と。
立葵は思っていた。
『自殺する』と言っているに等しい相手を前にして今更――これまでのことを、考えていた。
ずっと、上手く立ち回ってきたつもりだった。
何をやっても人よりは多少上手くできる。家族関係にも恵まれている。クラスの中心というわけではないけれど、まず舐めてかかられることはない。そんな人間として、自分は暮らしてきたはずだった。
けれど、それがただの偶然で――本当は、自分を試されるような場面に出くわしたことがなかっただけなのだと、このたった数日の間に、思い知らされていた。
ずっと、話がしたいと思っていた。
六花真代。褒められもしなければ、認められることもない。そんな行為を延々と、細々と続けている彼女。ずっと、ずっと……立葵は、彼女と話がしたいと思っていた。
話しかける話題も、機会もなかったから、ずっと遠目に見ていただけだったけれど――こんなことになるずっと前から、彼女のことを、気にかけていたつもりだった。
それなのにこの数日は、一体何だったのか。
自分は彼女のことを何も知らなかった。彼女の家のことはもちろん、教室での扱いのことだって、これまで全然、気が付いていなかった。
馬鹿馬鹿しい、と自分に思う。
とんだ自惚れ屋。視野の狭い、どうしようもないやつ。
そして挙句の果てには、この体たらくだ。
肝心なときにずっと傍にいなかっただけじゃない。傍にいられてなお、彼女を泣かせている。自分なんて何の頼りにもならない、情けないやつなんだと、思い知らされている。
この数日、自分を嫌いになるようなことばかりだった。
でも。
「――そういうのは、もう、いい」
そう言って立葵は、真代の手を掴んだ。
戸惑ったように、彼女が自分を見上げてくるのがわかる。
無理やりにそれを引き上げて、立たせた。
「古河、くん」
「いいから、歩いて」
強引なやり方だ、と思う。
ついさっきまで気を失っていた真代にこんな足元の悪い道を歩かせるなんて、ひどいことだと思う。どうして背負ってやれないんだろうと自分を責めたくなる。何の心配も要らない、ただそのまま眠っているだけでいいって、どうして言ってやれないんだろうと、悔しくなる。
でも、もういい。
足りないものを数えていても、前には進めないから。
「六花だけじゃない」
「え――」
「知ってた。知ってて、六花の休んだ日、俺が代わりにやったんだ」
雲が、月を隠した。
辺りは闇一面に静まり返る。手を繋いだ相手の顔すらも見えないような本当の暗がり――確かなのは、その手の温度。息遣い。
蜘蛛の足音が、遠くから聞こえてくる。
それは冬枯葉を踏み貫いて、どんどんとふたりに迫っている。
「俺もたぶん、六花が言ってることが正しいんだと思う」
真代が息を呑むような、冷たい言葉。
けれど。
「俺も同じ立場なら、同じようにすると思う。自分が死んで何もかも解決するなら、それが一番確実なら、そうするって気持ち、俺にもわかる」
「だから……!」
「でも、嫌だ」
もう、立葵の声に、震えはなかった。
「同じ立場じゃないから……俺は、嫌なんだ」
恐怖が消えたわけじゃない。
ただ、それよりも――
「六花のことが好きだから、死んでほしくない」
大切なことが、あったから。
もういい、と立葵は思っていた。
もう自分に言い訳をするのは、たくさんだった。
何もしないための理由はたくさんあった。
自分が傷つくから。自分が傷ついたら悲しむ人がいるから。どこかの誰かの迷惑になるから。子どもは、自分の人生に責任を持てないから。
でも、もういい。
やらない理由に縛られるのは、もういい。
「うそ……」
「嘘じゃない」
「うそだよ、そんなの……」
今は、ただ。
この子にもっと、優しくしたい。
真代と話がしたい。内容なんかなんだってよくて、ただ、仲良くなりたい。こんな寂しいところで、わけのわからないやつらに縛られていてほしくない。自由にしてやりたい。幸せになってほしい。
死ぬことなんか、考えないで。
ただ、彼女に笑ってほしい。
今だけがチャンスなんだ、と立葵は思っていた。
夜空の光は、すべて隠れた。暗い場所――今なら、音しか聞こえない。
包囲網は崩れていない。
けれど、今なら。
気付かれずに、ここから出て行くことも――、
「走れる?」
小さく、真代に訊いた。訊いている自分だって、もう足に力が入らない。だからもし走ったとしても、大して歩くのと変わらない速度だろうに。
だから本当は、その質問は、こういう意味だった。
一緒に、来てくれる?
「うん……!」
その問いかけの意味を、真代が本当に理解していたかはわからない。
けれど彼女は。
ひょっとすると生まれて初めてかもしれないくらいの強い意志で、その言葉に、頷いた。
走り出す。
冬の夜、暗闇――氷よりも冷たい世界の中を、ふたりきりの子どもたちが、手を繋いで走っていく。濡れた土は重たく、彼らの足から力を奪っていく。足音に気が付いた大人たちが口々に何かを叫び始める。その言葉は、もうふたりの耳には入らない。
蜘蛛の足音が聞こえてくる。
凶暴な、ふたりを引き裂く獣として、それは駆け寄ってくる。
風が吹いていた。
枯れた森の隙間をすり抜けるように、この場所に姿も色もなく、彼らの髪を靡かせる。
そして空では、再び月が顔を覗かせて。
森から飛び出すのと、ふたりの姿が露わになるのは、ほぼ同時。
「いたぞ!」
「捕まえろ!!」
包囲網を形成していた信者たちが、すぐさまにそれを見つけて、叫んで。
それでも、と。
それでも、とふたりは、歩くのと大して変わりのないような速度で走り続けて。
背後には蜘蛛。
八つの足で、森から抜け出でて、ふたりを捕らえようとする怪物。
たった一秒でもいい。
一秒でも長く、ふたりでいようと、走り続けて。
だからきっと、間に合った。
「え――」
パン、と乾いた音がして。
立葵は目を疑った。同じように、真代も。
先に立葵が足を止めれば、真代は勢い余ってぶつかって、ふたり寄り添うような形で、それを見ることになる。
あの強靭な蜘蛛が、びくびくと震えて、道に横たわっている。
ついさっきまで自分を捕らえようと躍起になっていた信者たちが、ある一点を見つめて固まっている。
その視線の先にいたのは――
「全員動くな!」
拳銃を構えた、父の姿だった。




