7-1 ここで
「う……」
薄く目を開くと、夜空が見えた。
冷たい空気。冴えた星々。深い冬の、藍色にも似た闇がいっぱいに広がっている。
それと、ついさっきそこから足を踏み外して落ちてきたはずの、崖も。
「い、って……」
なんとか階は、身体を起こした。
まとまっていない記憶を整理しながら、あたりを見回す。明らかに森の中。崖の上から落ちてひしゃげた蜘蛛たち。
そうか、と頷いた。
「助かった、のか……」
蜘蛛はその重さのために潰れた。
が、自分はこの高さから落ちても、なんとか意識を失うくらいで済んだらしい。下が土だったからか、と地面を撫でながら、階は立ち上がった。
「、っと」
それだけで、身体がふらつく。
さすがに何のダメージもない、というわけにはいかない。左の腕――ここに落ちる直前に蜘蛛に刺されたそこには穴が開いて血が流れ出ているし、激しい頭痛を堪えるように頭に手をやれば、ぬるり、とあまりその手を確かめたくない感触がした。
近くに、立葵の上着が落ちている。
ぞっとした。
慌てて近付いた。
てっきり立葵も、後からここに落ちてきたのかと思って。
けれど、違う。
「賢いな、あいつ……」
それは、綺麗に畳まれた上着だった。
明らかに、偶然にここに落ちてきたものではない。何重にもぐるぐるに巻かれて、広げると傷のない状態で、階の携帯電話が入っている。クッション代わりに上着に包んで、崖の下へと落としたのだ。
画面を点けると、それなりの時間が経過していて、さらにそこにはこんな文字が打たれている。
『道覚えた 先に行ってる』
正解だ、と階は思う。
崖の高さはかなりある。立葵が真代を抱えたまま降りてくることはまずできないだろうし、この暗い森の中だ。大回りして合流を試みたとしても、どのくらいの時間がかかるのか想像もつかない。
それなら、携帯だけ落としておけばいい。
仮に自分が身動きできない状態にあったとしても……意識さえ取り戻せば、それで助けを呼べる。
考えうる限り一番良い方法だ。
強いて言うなら問題は――、
「明かりがなくて大丈夫か……?」
そのくらいのこと。
携帯を懐中電灯の代わりにしてここまで来ていたから、この先、立葵は一人で大丈夫だったろうか、ということ。
幸いにして昼間に降っていた雨は止み、この森の中にも、冬枯れの枝の隙間から星明かりが差し込んでいる。
それで大通りまで辿り着けていたらいいのだけど……そう思いながら階は、上着を脱いで左腕の止血を行った。幸い、崖上のあの瞬間に覚悟したほど傷は深くないらしい。縛るだけでも随分違うだろうと思えた。
地図アプリを起動して、現在位置を確認する。
「向こう、かな」
歩き出して、しかし数分もすればまた足を止めることになった。
またその先には、崖があったのだ。もちろん、今度は下る方ではなく、上る方。
ここだけが極端な盆地にでもなっているのだろうか。階は自分の腕をちらりと見やる。流石に、これでは崖を上ることもできない。
迂回するしかない。
地図を見る限り随分遠回りになってしまうし、気絶していた時間を考えれば立葵たちに追いつくのもだいぶ先の話になってしまうかもしれないけれど……それでも、道がないものは仕方がない。そう思いながら、また歩き出して。
「――ん?」
見つけた。
ここまで道なき道を歩いてきたから、おそらく感覚が鋭敏になっていたのだと思う。平時であれば絶対に気付かないような些細な変化だったが、しかしこの暗闇の中で目を凝らし続けた階には見えた。
それは、道だった。
森の奥――どうも、ここだけが奇妙に暖かい。植生が変わったというわけでもないだろうに、そのあたりだけまばらに木々が葉をつけている。
その奥には。
「――――祠?」
ついさっきに六花家で見て来たような、宗教的な飾りが施された洞窟が、ひっそりと佇んでいた。
゜。゜。゜。゜。
足はもうすぐ使い物にならなくなる。
そう、立葵にはわかった。
深い森の中を行く。考えていたはずの大通りへの道を、どんどん逸れている。ときどきに夜空を眺めることでその方向を違えないように努力はしてきたけれど、なにせ自分の記憶以外に信じられるものがない。不安は募り、疲労を一層色濃いものに変えていく。
自分と同じ体格の人ひとりを背負って歩くのは、ひどく苦しい。
「……っしょ、」
背中の真代を背負い直す。いまだ、吐く息白いこの冬夜の中でも際立つ体温。立葵の身体に籠る熱と合わせれば、場違いなくらいに温かいふたりだった。
ひたすらに彼は歩く。
ときどき聞こえてくる、がさがさと無遠慮に枯草を踏みつける足音に怯えたりしながら。
これが原因だった。
本来だったらそれほどでもなかったはずの道を、ずっと歩き続けている理由。自分の足では、追手から逃げ切れなかった。兄が二匹の蜘蛛を排除してくれたはいいものの、その後、明らかに追手の信者たちがやって来ていた。
そして彼らは当然、森の外縁――人通りの多い場所へと繋がる側を塞ぐように、広がって歩いている。だから本来予想していたルートは使えなくなり、立葵は森の深い場所を彷徨い歩いて、その包囲網のほつれを探そうとずっと必死になっている。
けれど。
「――っ」
かくん、とその膝が崩れ落ちた。
倒れるのだけは防がないと――そう思って手を伸ばした先は、乾燥した冬木。ささくれだった幹に指が滑れば、鋭く小さな痛みを残した。
それに縋るようにして、立葵は俯いた。
ダメだ。
このままじゃ、ダメになる。
もう足が動かなくなりそうだった。起伏の激しい雨後の林地は、明らかにこの十二歳の子どもから大きく体力を奪っていた。霜の立つ土を何度も踏み荒らした。足跡から追いかけられないように、道筋を誤魔化すための不要な動きを何度も行った。スニーカーはすでにその泥土に濡れて重く、足先は振り回されるようで、膝を伸ばしていないと真代を抱えきれない。
咳き込みそうなのを呑み込んで、息を整える。
もう、このまま行くのは無理なんじゃないか、と思えてきていた。
そう遠くなく、自分は一歩も歩けなくなる。歩けたとして、それは止まっているのと大して変わらない速度になる。追手を誤魔化すこともおそらくはできなくなるし、実際いまだって、ほとんどできなくなりかけている。
何か、別のことを。
しなくちゃいけないんじゃないか。
ここに真代を置いていく、ということも考えた。
もちろんそれは、置き去りにしていくという意味ではなく。
包囲網の穴だけを、どうにか自分の足で探しに行く。そしてその場所に当たりをつけたら、彼女を置いた場所まで戻ってきて、もう一度抱え直せばいい。そんなことを、思いついてはいた。
けれど、戻ってきたときに彼女がそこにいる保証は、どこにもないのだ。
冬の森の中は、夏のそれよりもずっと隠れる場所が少ない。いまだって、起伏を上手く利用してその都度その都度隠れているだけなのだ。真代を安全に置いておける場所など、土の下くらいしか思いつかない。
そしてそれもまた、この凍えるような季節にすれば、彼女の命に危険が及ぶに決まっている。
心が折れそうだった。
姉に背中を押してもらって、兄に庇ってもらって――挙句の果てにこの体たらくなのか、と。
これだけお膳立てしてもらって、ただ真代ひとりを連れて逃げることくらいもできないのか、と。
悔しくて、頭がおかしくなりそうだった。
それでも。
「……やるしか、ない」
この場所にいるのは自分だけなのだから、と。
展望もないまま再び歩き出そうとして――そのときだった。
「こが、くん……」
「六花っ?」
背中から、声がした。
一度下ろして様子を……そうは思ったが、どうしても足が言うことを聞いてくれない。いま下ろしたら、もう二度と背負うことはできないように思える。
だから、そのままの体勢で、立葵は語り掛けた。
「大丈夫か、身体とか……」
「ごめん、ね……」
熱に浮かされた彼女の声。
そんなことない、と立葵が応えようとした矢先、
「置いて、いって……」
彼女は、懇願する声で、そう言った。
「何言って――」
「うれしかったから、もう、いいの」
彼女の長い髪が、立葵の頬に触れる。か細く、頼りない、絹の糸――それに不似合いな血の匂いが染みついて、冷たい風の中に揺れている。
「苦しかったけど、ずっと……ずっと、何があったのか、わかってた」
静かに……ぽつりぽつりと降る雪のような声で、彼女は語る。
「ありがとう……。助けに来てくれて。やっぱり、古河くん、いい人だね」
違う、と叫びたかった。
いい人なんかじゃない。俺はそんな人間なんかじゃない。もっと早くに気付いていれば、こんな風にならずに済んだ。もっと早くに覚悟を決めていれば。もっとちゃんと、兄みたいに、姉みたいに強ければ……。
俺はどうしようもない人間なんだ、と。
立葵は、叫んでやりたかった。
「私が、四年生のとき、風邪で休んだ日……」
けれど、そんなことは、自分自身の問題でしかないとわかっているから。
真代に叩きつけても、何にもならない……ただ傷つけるだけだとわかっているから。
立葵はその気持ちをどこにも放つことができず、ただ自己嫌悪の海の底へと深く沈めて。
真代の話を聞いていた。
「花瓶の水、古河くんが代わりに、替えてくれたって……」
「……普通だよ、そんなの」
「それに、亀の餌やりも、してくれて。水槽の、掃除も……」
記憶が、あった。
確かにその日……真代が休みだった日のことを、覚えている。
その頃にはもう、ときどき彼女を見ていたから。
いいな、と思って、見つめていたことがあったから。
誰も気付かないと思ったのだ。
真代がいつもやっていることに。彼女が休めばそれをする人間が誰もいないということに、気付かないのではないかと。そう、思ったのだ。
餌はともかく、花瓶なんか、一日くらいでは変わらないかもしれない。
けれど、ひょっとすると。
病み上がりの彼女が学校に出てきて、汚れた花瓶を見るよりも。
誰かがやったと知った方が、喜ぶのではないかと思ったから。
そんな、打算の記憶が、確かに。
「そんなの……」
「あのね、こんなこと、私に言われて、迷惑だと思うけど……」
耳元で、彼女は。
ひっそりと――しかし、静かな決意を秘めた声で。
こう、囁いた。
「そのときからずっと、古河くんのことが好き……」
立葵の身体から力が抜けた、その瞬間だった。
真代が、自分の身体と立葵の背中の間に手を差し入れて、ぐ、とその細腕に力を込めた。
これがいつもの学校でのことだったら、その程度の力では立葵はびくともしなかっただろう。
しかしこれだけの疲労の溜まった状態では、さすがに堪えきれない。前のめりになって、ぬかるんだ土の上に膝をつく。そしてその背後では、どさ、と真代が倒れる音が聞こえた。
振り向いて、立葵は言う。
「何やって――!」
「置いて、いって」
長い髪で、顔を隠して。
彼女は、言う。
「……そんなこと、するわけ、」
「大丈夫、だから」
「何がだよ!」
「迷惑、かけないから」
立葵はもう一度、真代を抱えようとした。
けれどそれを、他ならぬ彼女自身が、手で押しのける。
それは、大した力ではなかった。
子猫一匹動かせないないような、あまりにもか弱い力。
けれど、それだけでもう、どうすればいいのかわからなくなってしまう。
差し伸べた手を拒まれたら、どうすればいいのか。
「わかってるから、大丈夫」
「だから、何が!」
声を荒げたくない、と立葵は思う。
こんな口調で話したくない。怯えさせたいわけじゃない。脅かしたいわけじゃない。本当は、自分は、もっと――。
「お姉ちゃんのこと、ちゃんと見てたから。だから、大丈夫」
「見てたって、何を」
口を噤んで、真代は答えない。
だから、立葵が自分で、その答えに辿り着く必要があった。
真代の姉。
六花祭世。
この世界を終わらせるはずだった依り代。
今は、
「まさか、」
死んでしまった人。
「――――ここで、死のうとしてるのか?」
答えがないのが、答えになって。
蜘蛛の足音が、聞こえてきている。




