6-4 友達
落ち着け、と朱里は自分に言い聞かせていた。
こんなに火の手が上がって落ち着くも何もないだろう、もっと慌てろ、とも言い聞かせていた。
つまり、考えがまとまらない。
寮を取り囲む蜘蛛の大群――そして今、火まで放たれて。
どうする?
自分に、何ができる?
幸いにも、昼間降った雨のおかげか、それとも白い傷の男が用意していたガソリンの量がここから寮までを導くには量が少なかったか、あるいはあの男が準備を終えるよりもずっと先に朱里がこの場所に辿り着けたのか――火の回りは、それほど激しくはない。寮の中にいる人間が瞬く間に焼死体に変わる、ということはまだ起こりそうにはない、と朱里には見える。
が、時間はない。
知らせなくては、ともと来た道を戻ろうとして、
「――違う」
足を、止めた。
自分がすべきことは、状況に対してそんな短絡的な行動を起こすことじゃない……そんな冷静な思考が、朱里の頭の底の方にぴたり、と張り付いた。
知らせる?
蜘蛛が火だるまになっています。寮が燃えてしまうので、皆さん逃げてください、って?
馬鹿げてる。
そんなことをしても意味はない――そう、朱里は思う。だって、そんなことは自分が知らせるまでもない。一目見ればわかる。
もっと先だ。先のことを考えるんだ。
炎にまみれた蜘蛛がやってきて、一体何が一番困る?
「そうだ、こいつら……」
段々と、彼女の視野も広がり始める。
ガソリンを元に火を点けられたはずの蜘蛛は、決してその場で立ち止まってもがき苦しむことをしない。その身体に火を灯したまま……森にも分け火しつつ、ひたすらに歩みを進めている。
蜘蛛は、火によって焼けることはない。
いつもと同じように動き続ける。
ということは、寮がただ燃えるよりも、ひょっとしたらもっと性質の悪いことが起きるのかもしれないと、朱里は気が付いた。
つまり、想像はこういうことだ。
蜘蛛が建物に取り付けば、当然のように寮は燃え始める。それに気付けば、当然中にいる生徒たちも警官たちも、外へ逃げ出そうとし始める。
が、そのとき蜘蛛は、ただ横に広がって待ち構えるだけで――包囲網を完成させることができる。ただの蜘蛛ではない。人間とそう変わりのない体高を持つ蜘蛛だ。それを押しのけたり飛び越えたりすることは容易ではないし、そのうえそれらが脚を広げれば、さらに逃げることは難くなる。
逃げ道がなくなるのだ。
「ってことは……!」
一旦、彼女は踵を返した。
そして、寮に向かうのではなく、ついさっき白い傷の男がカガミワタリの入口に使った大鏡を確保しようとした。
「あっ――!」
そして、焼けるような熱。
すでに炎の熱が鏡にまで伝わっていた。直接手ではつかめそうにない。
だから、制服をダメにする覚悟でブレザーを脱いで、それ越しに。
「よし、あとは――!」
それを熱源とは遠く離してから、次にやるべきこと。
賭け事。
「ちゃんと出てよ、頼むから……!」
英梨花に、電話をかけた。
カガミワタリを使う。
そのつもりだった。
この場所から入っていけばいい。そして寮の中に出て――向こうの世界に服を着ていけるのだから、人だって連れて行けるはずだと思う――廊下の大鏡を使って中にいる全員を脱出させればいい。自分だけが使える抜け穴。それを使う。
けれど、ひとつだけ問題がある。
あの白い傷の男がこの森の中に大鏡を置いた理由。
当然のことだ。昼間、寮でのあの攻防の後、カガミワタリのことを知っている母は鏡を裏向きにするように――つまり、カガミワタリによって中に人が侵入できないように、細工したに決まっている。朱里は思う。自分だってそのくらいのことは思いつくんだから、より使い慣れている母がそれをしないはずがない、と。
だから、中にいる人間の協力が必要だった。
抜け穴の、行きの道を開けてくれる誰か。
「――――出ないし!」
留守番電話に繋がったそれを、慌ただしく朱里は切断する。そして次の手を考え始める。
寮の中には他にも数人知り合いがいる。片っ端からかけてみるか? いや、結構な数の生徒が寮から出て自宅に戻っているはずだ。無駄打ちになる可能性が高い。カガミワタリに他に上手い使い方はないのか? もしここに、もっと習熟している母がいればアドバイスでも――
「……ん?」
そこで、気が付いた。
母は自分たちに先駆けて、ホテルを出ていった。
そしてそれは、当然教団の狙いを止めるために。
選択肢はふたつのはずだ。依り代の予備に対する儀式を止めるか、それとも引き金――英梨花の殺害を阻止するか。
二択。
なら、こっちにいる可能性も、あるのではないか。
電話をかけながら、期待と不安を半々に心の中で分け合っていた。
もしも母がここにいるなら――寮の中にすでに入り込んでいるなら、もう自分がすべきことすら何もないのかもしれない。ただ母が明るい声で電話に出るだけだ。そしてきっと言うだろう。ちゃんと全員逃がしたよ。そうして心配性を笑われるだけ。
けれど一方で……そうでなかったら。
そうでなかったら、次はどうする? どんな手を使える?
四コール目で、電話は繋がる。
そして、予想もしないことが起こった。
『朱里!!』
「――英梨花?」
母の携帯にかけたはずなのだ。
それなのに、英梨花が出た。
困惑。戸惑い。
そして同時に、朱里の心の奥底に、得体の知れない不安が渦巻いて。
論理的な思考が、それに形を与えていく。
母が英梨花とともにいる。なのにこの切羽詰まった英梨花の口調――危機に瀕していることは想像に難くない。しかし、カガミワタリをいつでも使える状況にあって? 母が傍にいて?
その疑問は『母が動けない状況にある』という鍵によって解かれてしまうもので――、
『朱里のお母さん、外から銃で撃たれて、血がすごくて――』
がつん、と頭を殴られたような衝撃だった。
あの男に、やられたのだ。
十年前の事件を調べたときには、まるで実感が湧かなかった。明るくて、いつもにこにこ笑っていて、とぼけていて、穏やかで――当然のように家にずっといてくれるものと思っていた母。
その人がいま、そんな風に。
みしり、と朱里の手の中で携帯が軋んだ。
「……落ち着いて、大丈夫だから」
震える声ながら、しかしそれでも、朱里は英梨花にそう告げた。
落ち着け。自分にも、そう言い聞かせる。
この状況をなんとかできる人間がいるとしたら自分だ。いや、自分がなんとかしてみせるんだ。強い意志で以て、朱里は頭を働かせる。
「いまの場所は? 寮の中?」
『そ、そう……! あの、燃えてる蜘蛛が』
「一階?」
『ううん、二階』
「一階降りられる? まだ燃えてない?」
やや時間を開けてから、『うん』と涙声が返ってくる。
よし、と朱里は小さく拳を握って、
「鏡あるでしょ。あれ、裏返して! 元の形!」
『でも、朱里のお母さんが、』
「いいから! 緊急事態!」
だろうな、と思う。その鏡をそのままにしておいたら、いつでもカガミワタリの男が入り込めるようになってしまうから。
でも、もう今は、そんなことを気にしている場合じゃなかった。
まもなく燃え落ちる建物の中にあの男がわざわざ入ってくるか――あるいは、完全に包囲した状態でなお、ダメ押しの蜘蛛を送ってくるようなことがあるか。
賭けだ、と思う。
でも、それほど分の悪い賭けではないはずだ、とも思う。
『裏返したよ!』
「よし、ちょっと待ってて! すぐ行くから!」
電話を切って、覚悟を決める。
ふたつめの賭け。
目の前の鏡に、朱里は入り込んだ。
「――よし!」
成功、と声を上げた。
ありえない話ではなかった。
あの男がここで待ち伏せしている可能性――自分が鏡の中に入り込んだ途端に、殺されていた可能性。
もちろん、自分がカガミワタリであるということは、男には知られていないはずだった。
けれどそれは、この世界のみの話。
カガミワタリで多数のパラレルワールドを見ているはずのあの男なら、自分がカガミワタリであるということを知っていてもおかしくはない――その可能性が頭の中にありながら、なお朱里は、飛び込んでいった。
だって、もしも自分のことをそうと認識しているなら。
どんな強引な手を使ったか知らないが、母に銃弾を撃ち込んだように――――ここで咄嗟に遭遇したとき、身をひるがえすのではなく、自分に銃を向けなければおかしい。
自分と同じ力を持っていると認識しているなら、排除しにかかるはずだから。
それをしないということは、自分はまだ知られていない、伏せ札だということだ。
蜘蛛の一匹くらいは覚悟していたけれど――しかしそこには、何も待ち構えてはいない。男は全てを、引き上げていた。残りの手駒は、また別のところで無駄なく使うつもりなのだろう。
鏡の先も、また森の中だった。
空気が温かい。が、火が回っている様子は、当然ない。男の姿はないが、男が辿っていったと思しき足跡があり、それは寮の方へと続いている。
今度は、フェンスを上るまでもなかった。
下の方に開いた穴をくぐりぬけて、また朱里は走り出す。温かい闇――空の銀河のやけにきらやかに見える中を、必死で走っていく。
朽ち果てた寮の中は、明かりがなければ進めない。
携帯のライトで照らしながら――そこに人気のないのを見てとれば、勝った、と確信した。
自分は、賭けに勝った。
母を動けなくして、逃げ道を塞いで――それで男は、ここでの仕事を終えたと勘違いしていた。
追撃の気配は、まるで見当たらず。
朱里は何の妨害も受けないまま、廊下の鏡へと、飛び込んだ。
「わ……!」
「――よし、一発成功!」
カガミワタリの力にも慣れ始めたらしい。
最初の放浪のときのようにいくつもの世界で迷うことなく、目的地――元の世界へ、朱里は再び戻ってくることができた。
「じゅ、」
「泣くな! もう大丈夫だから!」
憔悴しきった顔の英梨花に、そう言い放って。
目の前に倒れている母の姿を、朱里は見た。
脇腹のあたりから血を流している。傍についていてくれた英梨花――それから他の生徒たちが手当てをしてくれていたのだろう。血まみれのタオルがいくつも横に置いてあって、救急セットの中身も散らばっている。
額には、まだ寮の中にまでは火の熱が伝わっていないにも関わらず玉の汗が浮き、朦朧としているのか、何度も傷を抑えようとして母は呻いている。
ぶっ殺してやる、と思った。
次に会ったら、あの男を絶対に、と。
「ここから出るから、人集めて!」
「う、うん!」
でも、頭に血を上らせている場合ではないと思ったから。
一度だけ……奥歯を割れんばかりに噛みしめてから、朱里は指示を出し始めた。
鏡の中に逃げられる、なんて言っても最初は当然信じてもらえない。
だからまずは、バリケードを作っている警官……その中でも現場の指揮権を握っている人間を無理やりに連れてきて、鏡の中に叩きこんだ。
仕組みは理解してみれば簡単なものだった。
朱里が鏡に手でもどこでも入れている間は、その鏡は別の世界へと繋がっている。そして、誰でも出入りができる。
「……わかった」
朱里の手で再び引き戻された警官は、重々しい顔で、そう頷いた。
目の前で起こったことを彼が理解するには、本来だったらもっと時間が必要だっただろう。
しかしこれまで寮へと迫っていた蜘蛛たちが火を帯び始めたこと――そしてそれを撃退するのに十分な量の弾薬がないという事実が後押しして、警官たちの協力を得ることに成功した。
「ほら早く! 行って行って!」
寮内に残っていた生徒たち、それから警官たち。
彼女らをどんどんと鏡の向こうへ送り込んでいく。
最後に残ったのは、英梨花と朱里のふたり……そして、いまだに意識がはっきりしない弥生だった。
「最初に行けって言ったのに」
言いながら、朱里は母を担ごうとする。
が、体格が足りていない。よろりと傾ぎかけたのを、逆側から英梨花が支えた。
「できないよ、そんなの……」
「なんで」
さんきゅ、と英梨花に礼を言いながら、朱里は母を抱え上げる。
「だって、私のせいで、」
「はあ?」
信じられない、という顔を、朱里は作った。
内心では、英梨花がそう考えてしまう気持ちはわかったけれど。
そんな風に、自分を責めてほしくはないから。
「何言ってんの。英梨花がいたから今までこんなことにならずに済んでたんでしょ」
「でも……」
う、と呻く弥生を間に挟みながら、ふたりは鏡の中へと入っていく。
怪我人を抱えたふたりを、周りの人々も支えながら、寮を出て行く。
こっち、と朱里は指を差す。寮の裏手、森の方を。
「どんどん行ってー!」
警官たちも自信なさげに移動しているような状況だから、朱里が声を出して急かしていく。途中からは、その抜け道の狭さと人の通りにくさに業を煮やしたらしい若い警官が、力づくでその穴を広げた。
また、朱里と英梨花は最後尾で。
「覚えてたんだ」
と、彼女は言った。
「十年前に、変な人に襲われたこと」
「……うん」
ぽつりぽつりと、その待ち時間を、彼女は語る。
「それで、その……あのね」
「うん」
「入学式のときに私から話しかけたの……本当は、朱里がお母さんと話してるのを、見たからだったの」
そっか、と短く朱里は応えた。
「あれから怖くなって、外に出ると過呼吸起こすようになっちゃったりして……。学校とか、全然行けない時期もあったりして、それで、それでね」
俯いて、涙ながらに、彼女は。
「この子なら、怖くないかもって、それで、頼るつもりで」
朱里は、思い出している。
初対面のとき……クラスは同じで、座っている席もすごく近くて。だから、当たり前のことだと思っていた、昔の日の会話のこと。
あの日、この友達がどれだけの勇気を振り絞っていたかに、思いを馳せている。
だから、彼女が「ごめんなさい」と謝る前に。
言葉を、被せた。
「よかったじゃん」
「え……?」
「私がいるから、平気だったでしょ」
肩越しに。
言葉を失う英梨花に朱里は、にっ、と笑いかけて。
それから、真剣な顔にもなって、
「もし、あのとき英梨花が私に話しかけてくれなかったら――」
こうも、言った。
「たぶん私、お母さんがこんなことになってるとき、何も知らないで、何もできなかったと思う。だから……」
ふたりの前にいた生徒が、ようやくフェンスの穴をくぐりぬけていく。
また、最後の三人になって。誘導するように、その穴の向こうでは警官や、生徒たちが待ち構えていて。
ほらこっち、と手招きをしながら。
「だから……ありがと。私と、友達になってくれて」
もうその先は、言葉にはならなかった。
英梨花が泣き出す。静かな世界に、声ばかりが響く。フェンスの向こうで慌てる人々に朱里は苦笑いを返して。
ありがとう、と必死に言葉にしようとしている英梨花の声と。
瞼を持ち上げようとし始めている、母の微かな声と。
そのふたつを聞きながら。
静かな……静かな決意を、心の中で固めていた。




