4-3 悪寒
じりじりと、無言のままに朱里は後退った。
何だこれは、という混乱の気持ちを、頭から押さえ込んで。声さえも出さないで。
代わりに――観察していた。
その、奇妙な蜘蛛のことを。
信じられないほど大きい。たとえそれが犬だったとしても、すれ違いざまに目を見張るほどの巨大さ。まず間違いなく、たとえ南アメリカだろうがアフリカだろうがどこのジャングルに行ったにせよ、この大きさの蜘蛛にはお目にかかれるはずもない。
この世のものではない、と。
そんな感想を、朱里は抱いた。
白灰色の身体をしている。奇妙に滑らかな肌だった。毛というものが見当たらず、ところどころに鉱石のような斑点が散らばっている。生き物というよりも、どこかで生み出されてきた工業製品と言われた方が納得できる。しかし同時にその動きはひどく有機的で、本来動くはずのないものが動くさまを見せ付けられているような……悪夢の中で置物に語り掛けられているような不快感を押し付けられる。
極めつけは、その顔。
明らかに人――その部分だけが、呪わしい、苦悶したような人の顔をしていた。シミュラクラ現象とはまた違う。目元らしい切れ込みの奥には明らかに白目が覗いていて、それが顔であることを疑う余地が全く残っていないのだ。
こいつか、と朱里は思う。
こいつが、この場所を、こんな風にしたのか、と。
朱里は相手を刺激しないようにゆっくりと後退を続けた――ゆっくり、ゆっくり、目を逸らさないように。向こうも、知能があるのだかないのだかもよくわからないような目つきで、朱里の方を見ていた。
じっと睨み合って――そして、最後の一瞬。
扉の影に朱里が隠れようとしたその瞬間、蜘蛛は動き出した。
゜。゜。゜。゜。
「は……?」
目の前の光景を、立葵は信じられないでいた。
だって、こんな生き物は見たことがない。
悪趣味な特撮の中くらいにしか、存在するはずがない。
自分と同じくらいの背丈の、灰色の、人面蜘蛛。
そんなの――悪夢の中でだって、見たことがない。
じり、とそれは長い足を一歩、こちらへと近づけてきた。
「な、待――」
ダメだ、と立葵は思う。
明らかに、こいつに捕まっちゃいけない。
友達になれるかもなんて馬鹿げた、それでいて優しい期待はひとつも抱けない。
だって――あの目の奥。
人の瞳は、白く濁り切って、こちらに何の感情も向けているようには見えない。
意志の疎通が、まるでできない。
間違いなく、襲われる。
捕まったら、食われる。
食われる?
そんなこと、普通に人間として暮らしていて、ありえるのか?
「こ、こっちに来んなよ……」
ありえない。そう思うけれど、現実は刻一刻と迫ってきていた。
じりじりと、立葵は後退する。そしてすぐに、突き当りに差し掛かる。
窓辺。
背後にはもう、スペースがない。
逃げ場は、その窓を抜けて、外に出るくらい。
江上に追われていたときとは違う。もう、迷うだけの余裕はなかった。とにかく今は生き延びなければならない。そう思うから、窓を開けて一階屋根の上――コンクリートの広がる屋上へと飛び出していくことに、もう躊躇いはなかった。
けれど。
「六花、おい、」
腕の中の彼女を、少しだけ揺さぶる。
けれど、彼女は自分の身体の熱にあえぐばかりで、まるで意識を取り戻す気配がない。
無理だ。
彼女を抱えたままでは、窓を開けて、外に出ることはできない。
選ぶしかない。
ここで、真代と一緒にこの蜘蛛に食われるのを待つか。
それとも、見捨てるかを。
「う――、」
後退したい。できない。蜘蛛は近付いてくる。
横に逸れて逃げようとすれば、蜘蛛は今よりもずっと速い反応を見せる。飛び掛かられたら、太刀打ちができない。硬直。ただじわじわと、タイムアップが近付いていることだけが確かで――、
「おい、離れろ!」
入口から教室に入ってきた教師が、そう叫んだ。
手には消火器を持っている。
ストッパーは外れている。それを見た瞬間、もう立葵はやることを把握している。
白い煙が噴射される。
それに巻き込まれないように、必死で、真代を抱えたまま、立葵は横に跳んだ。
着地など上手くいくはずもない。不格好に、横倒しになる。この体調の真代がどこかに身体をぶつけたりしてはいけないからと思い切り抱え込めば、ふたり分の体重を肩と背中に受ける羽目になって、鈍痛が走る。
それでも、一瞬だけ。
一瞬だけ、これで助かったと希望を抱いた。
のに。
「うわあっ!!」
教師の叫ぶ声が聞こえた。
げほ、と衝撃に咳き込みながらその声の方を見る。
白い粉にまみれた蜘蛛が、その教師を床に押し倒しているのが見えた。
「や、やめろっ! こいつっ!!」
教師が消火器を持ち上げて蜘蛛を殴りつけようとする。
が、八本の腕のうちの二本……それに押さえつけられて、すぐに身動きも取れなくなった。
「やめろ!! どけっ!! こいつ……誰か!!」
教師が大声で叫ぶ。
それに対して、悲鳴が上がるのが聞こえてくる。立葵の位置からは見えない。けれど廊下に、たぶん他の人々が溜まっているはずなのに。
誰も、助けにこない。
俺なのか、と立葵は自問した。
真代を床に寝かしつけて――そしてもう一度、叫ぶ教師を見て思う。
俺が、やらなくちゃいけないのか。
なんでだよ、と立葵は思う。
他にもっと、ちゃんとできるやつがいるだろ。俺じゃなくてもいいだろ。なんでそんなことをわざわざしなくちゃいけないんだ。勝手にやれよ。勝手に、俺に関係ないところで……。
でも、あの教師は、間違いなくさっき、自分たちを助けようとしてくれていたのに。
「うわっ! なんですか、そいつ!!」
兄の声は、立葵が泣き出す、そのたった一秒前に、唐突に現れた。
゜。゜。゜。゜。
何かがおかしい、と思ったから、もう階は迷わなかった。
校舎の中から聞こえてきた悲鳴――それを聞きつけた途端、最悪の事態を想定して動き出した。
校内に、あの不審者がすでに侵入している可能性がある。
なにせあの、六十六本の手首だとかいう常軌を逸した犯行の関係者と思しい人物なのだ。小学校に乗り込んで大量殺人を犯そうとすることだって、これまでに犯した罪とそれほどかけ離れたものとは思われない。
だから階は、もう人目を気にすることはなかった。
門扉に手をかけて、一息に上った。そして渡り廊下に直接踏み入って、校舎の入口に土足のまま足をかける。もう少し余裕があれば、これまでの学校生活で培ってきた生活習慣がそれでも彼に靴を脱がせたに違いないが、しかしさっき聞こえてきた悲鳴は、その余裕を失わせるに十分足るものだった。
「おい、そこのやつ止まれ!」
背後から聞こえてきた声に、一瞬だけ振り向いた。さすまたを持った老年の教師。渡り廊下の向こう、別の校舎の方からこちらに呼び掛けている。
「すみません、また後で!」
自分をその悲鳴の元と勘違いしているらしいことはわかったが、しかし説明している時間はない。誤解は問題が解決してからゆっくり解けばいい。そう思って階は、そのまま前を向いて、彼を振り切るようにして建物の中を進む。
階段を上って、背の低い子どもたちがたむろっていた。
「何があった?」
話しかければ、彼らはびくり、と肩を震わせる。
恐る恐る、と言ったように階の顔を見上げるが、何も話さない。警戒されているのか、それとも言葉を口にするだけの思考の余裕がないのか……どちらかはわからなかったが、しかしぐずぐずしている暇もない。ちょっとどいてくれ、とだけ言って、階は彼らの脇をすり抜ける。
そうして、その先で見たのが、灰色の巨大な蜘蛛に襲われている壮年の教師の姿だった。
「うわっ! なんですか、そいつ!!」
階が叫べば、教師は首だけをこちらへと向けた。
見慣れない青年の顔に彼も戸惑ったようだったが、しかし状況の逼迫が次の言葉を容易に紡ぎ出す。
「助けてくれ! こいつ、力が強くて……」
その言葉を、最後まで待たなかった。
階はその地点から、一気に走り出す。短距離の走り方。脚の筋肉の全てを使って、瞬発力を込めて、動き出す。
蜘蛛がこちらの動きに気付くよりも先に、階の飛び蹴りが刺さった。
「いっ――!」
そして、眉を顰めてわずかに呻きの声を上げた。
奇妙な感触だった。生き物というより、金属に対する感触の方が近い。
しかしそれでも衝撃だけは通ったようで、ぐらり、と蜘蛛の身体が傾く。階もその場に着地して、二度三度、と蹴りを見舞ってやる。
教師がその間に体勢を立て直すのを見ながら――しかしどうもこいつを相手には素手じゃ勝ち目がなさそうだぞ、と階が思っていると、
「兄ちゃん!」
左の方から、声が響いた。
「立葵――? お前、」
いくらなんでも、思考の処理が追い付いてこない。
てっきり、不審者騒ぎなのだと思っていた。
それが目の前にいるのは巨大な蜘蛛? それも、生き物らしくない感触をした、とてつもなく奇妙な肌の。
それでいて、立葵だけは予想したとおりにそこに立っているというのがさらに混乱を深める。この蜘蛛は、自分が想定していた事態と何か関係があるのか?
考えている時間は、ない。
「あっぶな……!」
蜘蛛が飛び掛かってきた。
異様な動きに、背筋にぞわぞわと悪寒が走る。蜘蛛はその八つの足を掲げて、飛び跳ねるようにして階の方へと向かってきた。ちょうどハエトリグモのような小さな蜘蛛がする跳ねる動きに近かったが、なにせ大きさが違う。威圧感も、不気味さも、危険度も、全てが違う。
階が避ければ、壁にぶつかって、壁の方が壊れた。
まともに相手はできそうにない。
「立葵! 向こう行け!」
そう叫んで、教室の奥――教卓の方を指差す。
「う、うん!」
そのとき立葵が誰かもう一人――腕の中に子どもを抱えていることにも階は気が付いたが、しかしあまり心配はしなかった。立葵が頷いてくれたなら、そっちのことは心配しなくていい。自分よりもよっぽど頭の回る弟だから、信じられる。
「借りますよ!」
有無を言わせず、階は壮年教師の手から消火器をもぎ取った。
そして、体重を込めて、思い切り蜘蛛の頭に叩きつける。
さすがに、向こうもぐらりと揺れた。
「おお!」
教師は楽観したように叫んだが、しかし階は同じ気持ちにはなれない。
手応えが硬すぎる。
それに、重みも――明らかに見た目通りの重さではない。
こいつ、本当に金属か何かでできているんじゃないのか?
だとしたら――、
「っと!」
もう一度、蜘蛛が飛び掛かってくる。
それを、階はやはりもう一度回避する。
そして、蜘蛛が自分を攻撃対象に選んでいることを確認すると――たった今、立葵が開けてくれた窓際へと走り出した。
その速度に反応するように、蜘蛛も追いかけてくる。随分恨みを買ったらしい。窓の鍵を開けて、コンクリートが打ちっぱなしにされた屋上まで出ていっても、向こうはついてきた。
この屋上には柵がない。
だから階はその際ぎりぎりまで走っていって、がらん、とその場に消火器を投げ出して、
「こ、のっ――!」
突進してくる蜘蛛の力を利用して、そのまま屋上の外へと放り投げた。
下は、アスファルト。
金属と金属がぶつかったような、異様な音が響いた。
「…………これでどうだ?」
恐る恐る、階はその投げ捨てた先、校舎の下を覗きこむ。
びくびくと痙攣しながらも――しかしひしゃげて身動きの取れなくなっている蜘蛛が、その目に映った。
一応、とその上に消火器を放り投げておく。
もう一度、金属的な音がした。大したダメージにもならないように思えたが……とにかくあれならもう、こちらの脅威にはならないだろうと安心して、は、と息を吐く。
「ど、どうなりました……?」
歩いて戻ると、窓辺に教師が立っていた。
階は親指と人差し指で丸印を作りながら、こう答える。
「たぶん、何とか……」そして疲れ切った声でこうも付け加える。「警察呼んでください。あと、子どもたちも外に出さないで。まだ息はあるみたいですから」
こくこくと、教師は言葉もなく頷いて、それから図画工作室から出ていく。
入れ替わりのように数人の小学生たちが教室の中を覗きこんできたが、しかし階は、それに構うだけの体力をすでになくしていた。
だから、教室の奥にいる自分の弟にだけ。
「立葵、サンキューな。おかげで助かったよ」
そう、呼び掛けた。
「色々訊きたいことはあるし、そっちもあると思うんだけど……とりあえず、警察来て問題なかったら、ホテルに移動しよう。父さんがそうした方がいいって……」
「兄ちゃん」
しかし返ってきたのは、泣きそうな声。
珍しい、と階は思う。この弟は自分や朱里と違って、いつも冷静なタイプだと思っていたから……しかし、同時に無理もないことか、とも思う。あんなわけのわからないものを前にして、いつもどおりでいられるはずもない。
だから、慰めるつもりで、
「大丈夫だって。あいつ、動かなく――」
「救急車、呼んで」
驚きに目を見張る。
まさかどこか怪我でもしたのか――そう思って近づいて。
それからようやく、弟の腕の中にいる六花真代に、階も気が付いた。
血まみれの、彼女に。
「ねえ、こいつ、死なないよね?」
弟の、その思いがけないほど幼い声――。
大丈夫だ、と気休めで答えることしかできないまま、階は携帯を取り出して、一一九のダイヤルを始めた。