4-2 四十度
「……出ないな」
車の中でもう一度だけ父にコールした。
留守番電話サービスに繋がったのを契機に諦めて、階は通話を切る。代わりに、十数秒かけて文章メッセージだけを送りつけておいた。
『小学校着いた』
『高校に連絡したけど、朱里が見つかんない
昼から授業に出てないって』
『とりあえず立葵だけ拾って先にホテルに預ける
そのあとどうした方がいいか、何かあったら返信して』
「……とりあえず、これでいいか」
送信ボタンを最後に、既読の文字がつかないのだけを確認して、階は携帯をポケットにしまう。シートベルトを外して、運転席の扉を開けて車から降りた。
あの後――庭に人の切断された手首が置かれていたと伝えてからの父の反応は著しかった。
とにかくその場にいるな。
隣街のホテルに逃げてろ。
朱里と立葵も拾って、一緒に行ってくれ。
学校なんかはもう気にしなくていい。
ホテルに着いたら連絡してくれ。俺も仕事が片付いたら必ず様子を見に行く。
頼む。
そういうわけで、階はすぐさま車を出して、立葵の通う小学校と朱里の通う高校に連絡を入れてから、こうして飛び出してきた。
小学校の対応はごく単純なものだった。
今は昼休みです。教室にはいないみたいなので、立葵くんが戻ってきたらお兄さんが迎えに来るって伝えておきますね――そんなところ。
一方で高校側は、もう少し複雑だった。
小学校と高校では――すでに階の記憶からは薄れてしまっていたが――昼休みの時間が異なっているらしい。すでに電話をかけた際には五時限目の授業が始まっている時間帯だったはずが、しばらくの保留ののちに再び取られた受話器は彼にこう告げた。
どうも朱里さん、授業に出ていないみたいで――。
嫌な予感。
それが、階の背中を走った。
まさかとは思う。
家に来て、そのまま返す刀で高校まで行くことはないはずだ、と思う。
あの高校は自分の通っていた公立高校なんかよりずっとセキュリティもしっかりしているはずだし、それに朱里だって、同じ年の頃の自分なんかよりずっとしっかりしているみたいだし……そうそう恐ろしいことは起こらないはずだと、階は信じている。
それでも、得体の知れない不審者に自宅の窓を割られた後だ。
そして手首――あれはどう考えても、いま父が担当しているだろう事件と繋がりがある。
刑事である父が買った恨みが、自分たちに降りかかっているのだろうか?
それとも、あのとき不気味な男の告げた『女はどこだ』という言葉……母か、それとも妹か?
「入っちゃっていいのかな……」
そんな考えを頭の中でぐるぐると巡らせながら、階は校門の前に立っていた。車は背後に停めたまま。職員用だろう駐車場が見える場所に、彼は立っていた。
門扉は閉められている。
階が小学校を卒業してからというものすでに八年近くが経ち、その間の学校統合によって、もはや兄弟といえど同じ小学校に通っているわけではない。立葵の通う目の前の学校は、階にとっては数回行事で訪れた程度の、見知らぬ場所に過ぎなかった。
数秒の逡巡。
門扉に手をかけても、どうも施錠されているらしく、開く気配が感じられない。
どうしようか。
いきなり入っていって、かえってこっちが不審者だと思われても嫌だし、学校にもう一度連絡を入れた方がいいだろうか。流石にここを乗り越えるのは、不法侵入と言われても文句は言えない……。
その思考の途中で、悲鳴が響いた。
゜。゜。゜。゜。
「――――!」
「いっ、」
図画工作室の、小さな暗い、棚の中。
悲鳴を聞いてまず動こうとしたのは、真代の方だった。
しかし狭い空間の中で急に動こうとしたところで、そんなに自由が利くはずがない。互いに向き合うようにして中に入っていたふたりだから、真代が立ち上がろうとすれば、自然、立葵の足を巻き込む形で絡まった。
「ご、ごめ――」
「静かに、」
その一度だけで、ふくらはぎやら膝やらを、打撲しかねない勢いでお互いに打ち合った。真代が謝ろうとしたとき、実際に立葵は多少なり痛みを感じていたが、しかしそんな場合ではない、とも思っている。
今の悲鳴は、一体何だったんだ?
間違いなく江上と、その取り巻きのものだった。
そしてその悲鳴の原因は、まだ収まり切っていないらしい。
まだ、江上たちが騒いでいる声が聞こえる。
そして、さらにばたばたと、慌ただしい音が。
どうするか。
立葵は内心で迷いながら、計算をしている。
どういう状況になっているのだろうか。自分たちの存在を霞めるほどの何かが、外で起こっているのだろうか。そうだとして……外に出た方がいいのか。このままこの中にいた方が安全なのか。
あの大声だ。
校舎内にいる教師陣がそれを聞きつけて向かってきたとしてもおかしくない。大事になるだろうか。この場所に真代と二人でいたということはバレても構わないのか? 周囲からはどう見られる?
くだらない打算が混じり始めている。
そのことに自己嫌悪を覚えながら……あまり期待はしないながらも、真代にも意見を訊ねてみようか、と思ったところで。
「……六花?」
気が付いた。
「お前、大丈夫か」
「…………」
狭い棚の中だから、身体が触れている。
その部分がやけに熱いということに、気が付いた。
互いに冬服の厚い生地の上から触れあっているはずなのに――それでもわかるくらいに、熱くなっている。
人肌に触れているからとか、そんな生易しいことじゃない。冬の日に吐く白い息よりもずっと温度が高い。その口の中に触れるよりも、きっと熱い。
三十八度――九度、四十度?
「六花、」
もう一度呼び掛ける。
やはり彼女は、答えない。
「開けるぞ」
もうこうなっては仕方がない、と立葵は諦めた。
この密閉された空間の中だから――中に入っていた時間が少ない割には過剰な反応だと思うが、しかし――真代も体調を崩したのかもしれないと、そう思って。
静かに、その扉を開いた。
「は――」
そして彼は、血まみれの六花真代の顔を見ることになる。
「え、な――」
どくどくと。
彼女の白い顔。その下半分が、血で染まっている。服にまでその赤は染み込み出している。
気が動転した。
声も出せなかった。
泣きそうになる。何があったんだ。ついさっきまで平気だったじゃないか。
保健室? いや、それよりも――
「先生、やばいって!」
「あれモンスターだよ! モンスター!」
「いいからお前ら下がってろ! 教室に戻れ!!」
「警察呼んでよ! ケーサツ!!」
外から漏れ聞こえてくる声も、もう、ほとんど立葵の頭の中には入ってこない。
「し、」
震える声で、その顔に服の袖を近づけて、
「死ぬなよ……」
彼女の顔を、そっと拭った。
血の跡が不格好に残る。
けれどひとつ――立葵の心を楽にするものがあった。
口からは流れていない。
たぶん、全部鼻から。
そして記憶も蘇る。給食の時間に真代が鼻血を出したこと。ひょっとすると、いまこの場面でもそれが続いているのかもしれない――そんな楽観が芽生える。
けれど、真代はぴくりとも動かないのだ。
立葵は真代を抱き寄せた。その場から引きずり出すために。
腕の中にはものすごい熱を感じる。大きなカイロを抱いているようで、本当に何か、彼女に取り返しのつかないことが起こっているのではないかと不安になる。
しかし、冷たくなっているよりかはずっとマシだと、立葵は思う。
生きていることが、わかるのだから。
真代の額から汗が流れている。色白の肌の、熱が籠もった場所だけが真っ赤に染まっている。
小学六年生。
互いの体格は、大して変わらない。
それでも立葵はなんとか真代を抱いて、棚の外へと引きずり出して。
図画工作室の扉をぶち抜いて、ふたりの背丈ほどもある巨大な蜘蛛が入ってくるのと、それはほとんど同時のことだった。




