4-1 荒廃
鏡の先は、また寮の中だった。
ただし、荒廃した。
「は――?」
バランスを崩して蹴躓いた朱里は、その身を起こしながらあたりを見回す。
剥がれた壁紙。半分落ちかかった天井。埃。小動物の生活跡。薄汚い、年季の入った水染み。何のものかもわからない黒い斑点。嗅覚がこのたったの数瞬で麻痺するような異臭。周囲一帯は奇妙に暖かく、そして自分が何に足を引っかけたのかを見てみれば、
「……リュック?」
試しに、と朱里はそのチャックを開いてみる。どう見ても汚らしかったから、指先で抓むようにして、
じーっ、と音を立てて、
人の頭が入っていた。
「い――――」
それを認めるや、思わずリュックを投げ出してしまう。チャックを開け切らなかったがためにその頭は転がり出ることはなく、ただ鈍い音だけを立ててリュックごとごろり、と床に転がるだけ。
かなり白骨化が進んでいる。
が、完全ではない。
白い骨のところどころに肉片や少しばかりの頭髪がへばりついているのが見て取れる――死後何年? そんなことは朱里の知識の及ぶところではないが、しかしこれがお化け屋敷に置かれるような偽物ではないということが、対面するだけでよくわかる。
深く、昏い、死の気配。
朱里はこれまで、葬式にすらほとんど出たことがなかったけれど――それでも、理解できた。
これは死んでいる。
本物の死体で、本物の頭蓋骨だ、と。
「何、これ……」
口に出してわざわざ呟いたのは、自分の心を落ち着けるために。
誰か……たとえそれが自分自身であったとしても、人間の声がないと、おかしくなってしまいそうだった。
朱里は辺りをもう一度見回し、そして気付く。
確かに、目の前にあるのは自分の知っている学園寮に違いない。
けれど、ところどころ――劣化とは別に、つくりが違うところが見られる。たとえば扉の意匠。あるいはこの廊下に敷かれた絨毯の具合。あるいは自動販売機の有無。そういうところが、自分の記憶とは少しばかり食い違っている、ということに。
自分の知っているような場所とは、何かが違う。
あまりここの空気を吸い込みたくもなく、朱里は口元を手で押さえた。それから、今さっき自分が出てきた場所――鏡へと、手を伸ばす。
入る。
ということは、戻ることもできるはずだ。
「それなら――」
鏡から手を抜いて、朱里は決める。
「もうちょっと、見てからね」
この場所を探索してから、元の場所へと戻る、ということを。
その危険性は、何となく予感している。これから自分は危ないことをする。目の前に広がっている廃墟を前に、そんなことすら考えられないわけがない。
けれど、危険へと向かって彼女を動かす、強い感情がある。まず一つは、鏡の中の世界――それに対する、単純な好奇心。
そしてもうひとつは、焦燥感。
「何なわけ? ほんと……」
あの金曜日の夜から。
鏡に映らなくなったり、鏡の中に入れるようになったり……その奇妙な出来事の連続。それは間違いなく、彼女の中に不可思議の種を植え付けていた。
いったい自分は、何に巻き込まれているのだろう?
今、それを確かめるための手段が目の前に広がっていて――そして、これほど不吉な様相を呈している。
だから朱里は、思うのだ。
ここで知っておかなければいけないことが、あるのかもしれない。
放っておいたら何かが、自分の知らないところで、致命的に、取り返しがつかなくなってしまうかもしれない。
「…………よし」
まずは、と朱里は周囲の探索を始めることにした。
一階から。
もしかしたら誰かがいるかもしれないと思うから、慎重に足を運び始める。けれど、どうにも人影は見当たらないらしいとわかってからは、やや無防備とすら言えるほどに、歩みを速めていった。
最初はロビー。
そこで早速、首を傾げた。
「ソファーが……」
本来であれば、ロビーは談話室も兼ねている。寮生が大人数で何かのイベントを開催するための場所で、椅子やら机やらが本来だったら置いてある。
が、今はない。
もぬけの殻――ただ、埃被った剥き出しのフローリングだけが、そこにある。
そしてさらに異様なことにも気付く。
「何? この窓……」
木板だろうか。
ホームセンターで買ってくるようなもの――それが釘で、直接壁に打ち込まれている。
窓の全てを塞ぐようにして。
「……これ、中から、だよね」
外からなら、閉じ込めるために。
内からなら、誰も入れないために。
そのくらいの意図を読み取った――台風だとか、災害に向けた処置でもこれほど大胆なことはするまい。乱暴に、とにかくいくつも重ねて打ちつけられた板は、その当時の恐慌をそのまま伝えているように見えた。
一体ここで、何があったのだろう?
うっすらと、朱里の心の奥底から、恐怖が手招きを始める。
それを認めた瞬間――しかしかえって、朱里の心の中に、大きな反発心が芽生えた。恐怖に対する反応は、人によってその種類を異にする。
朱里は、自身が脅かされると、かえってカッとなって反撃に出るタイプだったから。
この異様な状況の中でも、脳にはアドレナリンが回り、胸は熱く、むしろいつもよりも活発なくらいに、心は動いていた。
次に向かったのは食堂。
「ここは……そんなでも」
ない、と言い切るには、やはり荒れ果てている。
テーブルも椅子もある。が、やはりそれは寂れていて、古びていて、実用に耐えるほどのものではなくなっている。天井の板が剥がれてしまって、奥――つまり、調理場の方には行けそうにもない。いつからのものかわからない水溜まりが、その剥がれた板の先にできていた。
しかし、とりあえずのところ、ロビーよりかは人のいた気配がある。
奥へ進むのには多少の危険を覚悟しなければならなそうだ。
だから朱里は、ひとまずここは後回しにすることして、再び廊下へと戻る。ロビーは見た。それから食堂も。残るは生徒たちのプライベートルームくらいか……と歩いていれば、
「え、」
足を止めて声を上げたのは、エントランスを見てのことだった。
玄関口。の、はずだ。記憶では。
記憶に頼らなくてはそうと言い切れないのには理由があって。
「バリケード……?」
ロビーのソファーがどこに消えたのかが、これでわかった。
それらはエントランスに、これでもかと言うほど積み上げられていたのだ。
近付いて、少しだけ触れてみる。指先に埃がつく。それと同時に、かなり固く組み上げられていることもわかる。朱里は運動神経のかなり良い方ではあるが、流石に自分ひとりではこれを作れるとは思わない。
集団で。
このバリケードは。
「なんで……?」
バリケードを築くということは、外から何かが来ていた、ということのはずだ。
それは一体何なのか……いや、そもそもこの世界は、一体何なのか?
別の世界?
立葵と一緒になって読んだSF小説のことが、一瞬頭を掠めた。パラレルワールド。そんなわけがない……と否定しそうになりながら、しかし目の前に広がる光景に、他にどうやって説明をつけたらいいというのか。
何かに襲われて、滅びた世界……。
そんな馬鹿げた、妄想と呼んでもいいくらいの推測が、次第にじわりじわりと彼女の頭の中を支配し始めて――、
がさり、と。
「――――っ」
朱里は背後を振り返る。
廊下には、何の姿もない。
が、確かに、聞こえた。
「上……?」
だから、彼女は天井を見る。
そこにだって何の姿も見当たらないけれど――しかしその、視界の隔てられた先に何かがいる可能性は、十分にある。
二階に。
何かが。
そのときふっと、朱里は気が付いた。
バリケード。閉じられた窓。籠城のための設備であることにもはや疑いはない。
で、あるなら。
その籠城していた人物は、一体どこへ消えたのか――?
もう一度、リュクサックのあった場所へと戻った。
頭はひとつ。疑いようがない。身体は見当たらないし、誰がこの中に詰め込んだのかもわからない。
いるのではないか。
まだ中に、人が。
あるいは。
「……二階で、全員、」
死んでいる、だとか。
そろり、と彼女は階段の、その一歩目を踏み出した。
馬鹿げた勇気だ、と自分でも思う。無謀と言い換えてもいいはずだ。
しかし、彼女には彼女なりの算段があった。確かに、一階には出口は見当たらず、逃げ場はないように思える。が、自分にはもう一つ、手札がある。
鏡があれば、すり抜けて逃げることができる。
だから彼女は――ここで起こったことを知るために、あるいはここがどこであるのかを知るために、進むことにした。
仮にその先で、この寮に立てこもっていた人間たちが死んでいるかもしれない、と思っても。
あるいは、それ以外。
その人間たちを殺した外敵がいるかもしれない、と思っていても。
「……大丈夫」
可能性は低いはずだ、と思いながら彼女は進む。
この寮の劣化具合を見てみればいい。
明らかに、長い時間が経っている。たとえその外敵がいたとしても、ここに留まっている可能性はごく少ないものだ。だから、大丈夫。
階段にも、いくつも物が置いてある。
やけに古びて、壊れ果てたものたち――椅子、あるいはベッド。それらはまた、二つ目のバリケードのように聳え立ち、彼女の予想を裏付けていく。
それらを跨いで越えながら、早鐘のように鳴る心臓を抱えて。
最後の一歩に至るまでもなく、彼女は。
「――――がっ、」
咳き込んだ。
「何、このっ、臭い……」
誰に何をされたわけでもない。
その二階に立ち込めていた異臭――一階にもあったが、こっちは比べ物にならない。ただ嗅いでいるだけで不快で、胃酸が喉元へと上りかけている。体内にその空気を入れること自体に大きな抵抗を覚える。
ガスとも少し違う。
ただ、何か、原始的な忌避感情を刺激される――。
臭いはどんどんと濃くなっていく。進めば進むほど……。朱里の気持ちとは別に、手元が震えだす。
近付くな。
今なら間に合う。
引き返せ。
そんな言葉を、身体が発している。
だからこそ、彼女は向かっていった。
この先に、何か、自分が探し求めているものがある――そう信じて、進んでいった。
ある一枚の扉。
本来だったら英梨花の部屋に続くはずの、その扉。
やはり、自分の記憶にあるよりも古めかしく見えるはずのそれ――そこが臭いの出どころだと、彼女は進む中で気が付いて。
制服のポケットからハンカチを取り出して。
それで、ドアノブを握って。
開ける。
声を出す暇もなく。
血と、肉と、骨。
それが数十年をかけて染みついたような、小さな部屋。
その真ん中に座っている、人の顔をした蜘蛛と、遭遇した。