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影の庭園  作者: 最後に残った形


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# 第2話:偽りの日常と、交錯する気配

仁科蒼真にとって、聖徴学園での二日目は、初日と何ら変わらぬ緊張感に満ちていた。否、むしろ初日よりもその緊迫感は増していると言っても過言ではない。

教室のドアノブを回す際も、必要以上に力を込めないよう、指先の感覚を研ぎ澄ます。鉛筆を握る際も、ノートに文字を走らせる際も、全身の筋肉が意識の底で微かに震えている。この身体は、僅かな気の緩みで常識を逸脱した力を発揮しかねないのだ。例えば、ペンを握る指の力がほんの少し強すぎれば、筆記具は脆い木材のように粉砕されるだろう。ノートに文字を書こうとすれば、紙は貫通し、机に穴が開くかもしれない。その全てが、蒼真にとっての「日常」であり、同時に「呪縛」でもあった。


朝のホームルームが始まり、担任が何事もないように出席を確認していく。その声すらも、蒼真の研ぎ澄まされた聴覚には、周囲の生徒たちの微かな呼吸音や、遠くで聞こえる校庭の喧騒、さらには校舎の壁を這う小さな昆虫の動きまで、不必要な情報として同時に飛び込んでくる。それを意識的に、しかし無意識のレベルでフィルタリングしなければならない。脳が処理しきれない情報の濁流に飲み込まれないよう、常に神経を張る。この能力を自在に制御できるのは、長年の訓練と、そして何よりも「ばれたら消される」という絶対的な恐怖が根底にあるからだ。


「仁科君、今日の当番、黒板拭きと日直だよね? よろしくね!」

隣の席から、明るく弾んだ声が聞こえた。星野真琴だ。彼女の笑顔は向日葵のように眩しく、蒼真の内に築かれた堅牢な壁を、あっさりと飛び越えようとする。昨日と同じ、いや、昨日よりもさらに距離を詰めてくるその姿勢に、蒼真はわずかに身構えた。彼女が『影』の監視者である可能性は、彼の警戒心を緩めることを許さない。しかし、その無邪気な瞳の奥には、裏を読ませるような気配は一切感じられない。ただ純粋な善意と、見慣れない転校生への好奇心があるばかりだ。


「ああ……」

蒼真は短く応じる。感情を乗せない、いつもの声だ。これ以上言葉を重ねれば、どこかに綻びが生じるかもしれない。必要最低限の交流。それが、蒼真がこの学園で生き残るための鉄則だった。


「えー、それだけ? もうちょっと他に何か言うことないかなぁ?」

星野はわざとらしく頬を膨らませる。その仕草すらも、蒼真には危険な兆候に思えた。彼女は、彼の無表情を崩そうとしている。それは、蒼真が最も避けるべきことだった。感情が揺らげば、能力が意図せず漏れ出す可能性も否定できない。


「ない」

蒼真は冷静に答える。その言葉に、星野は小さく「つまんないの」と呟いたが、すぐに諦めたように笑った。

「ま、いっか! 仁科君って、なんか独特だもんね。そこが面白い!」

独特。その言葉が、蒼真の胸に鈍い痛みを走らせる。彼にとって「独特」であることは、何よりも恐ろしいことだった。この学園では、徹底的に「普通」でなければならない。しかし、星野の言葉は、彼がどれだけ『普通』を演じようと、彼女の目にはそう映っていないことを示唆していた。


昼休み、食堂は学生たちの活気でごった返していた。蒼真は人波に紛れ、最も目立たない席を選び、買ってきたパンを静かに頬張る。彼がパンを一口噛むたびに、顎の筋肉が過剰に収縮しないよう、意識的に力を抜く。この身体の制御は、まるで高性能な機械を細心の注意を払って操作するようなものだ。


そんな雑踏の中、蒼真の五感が捉えたのは、一際洗練された「気配」だった。それは、昨日感じた白咲由紀の周囲を取り巻くものと全く同じ、訓練されたプロのそれだ。食堂の窓際、陽光が差し込むテーブル席。そこには、銀髪の由紀が、友人たちと談笑しながらランチを楽しんでいた。彼女の隣には、親友である神月咲月がいて、由紀の話に楽しそうに相槌を打っている。由紀の笑顔は、まるで春の陽光そのもので、周囲の喧騒すらも、その輝きの前では霞んでしまうかのようだった。


蒼真の視線は、由紀を囲むように配置された数名の生徒たちへと向けられる。彼らはごく自然に、談笑したり、食事をしたりしているように見える。しかし、蒼真の目に映るのは、その中に紛れ込んだ「不自然な自然さ」だ。

例えば、あの男子生徒。彼は左手に持ったフォークでパスタを口に運びながら、右手の指先は常に由紀の背後、通路を警戒している。視線は由紀から離さないが、瞳の奥には周囲の動きを捉える冷徹さがある。また、あの女子生徒。彼女はスマートフォンを操作しているように見えるが、その端末のカメラは、ごく僅かに由紀の死角となる通路側に向けられている。彼女たちの動きは完璧に訓練されており、一般の生徒では決して見抜けないだろう。だが、蒼真にとっては、あまりにも分かりやすかった。彼らは、由紀を守るための盾であり、同時に監視するための目でもあった。


(まさか、こんなに堂々と……)

蒼真は内心で舌打ちする。学園内にこれほど大規模な『影』の監視網が敷かれているとは。それは、由紀の存在が『影』にとってどれほど重要であるかを物語っていた。同時に、この学園がどれほど危険な場所であるかを再認識させられる。彼は由紀から視線を逸らそうとするが、一度捉えた美しい獲物から目を離すことができない捕食者のように、彼女の姿を追いかけてしまう。由紀の優雅な仕草、人に対する分け隔てない接し方、そして何よりも、その瞳の奥に宿る仄かな寂しさ。それら全てが、蒼真の内に忘れかけていた『人間』の部分を刺激する。彼女の持つ、どこか儚げな美しさは、蒼真の凍てついた心を溶かしそうになるほど魅力的だった。


しかし、彼の脳裏には、かつての相棒の警告がこだまする。『絶対に能力を使うな。ばれたら確実に消される』。そして、由紀の周囲を漂う『影』の気配。もし、彼が由紀に近づけば、たちまちその隠された正体は暴かれるだろう。それは、彼自身の破滅を意味するだけではない。由紀をも巻き込み、彼女の人生を歪めることになりかねない。蒼真は、自分の欲望と、現実の危険との間で激しい葛藤を覚えた。


「仁科君、ここで何してるの? あれ、もしかして白咲さん見てた?」

突然、背後から星野の声がした。蒼真は反射的に振り返る。彼女はすでにトレーを片手に、彼の隣に立っていた。驚くべき速さだ。彼は自分の警戒心が緩んでいたことを悟る。それは致命的なミスになりかねない。


「見てない」

蒼真は即座に否定する。感情を押し殺し、表情筋を微動だにさせない。

「ふーん? なんか目線がそっちに向いてた気がしたけどなぁ」

星野は疑わしげな視線を由紀の方へ向けた後、にこやかに笑って言った。

「まあ、白咲さん美人だもんね! 学園のアイドルだよ。見ちゃう気持ちもわかるよ!」

彼女はそう言うと、蒼真の許可も得ずに、彼の隣の空席に座り込んだ。その行動の躊躇のなさ、距離感の近さに、蒼真は再び戸惑いを覚える。こんな風に、人のパーソナルスペースに踏み込んでくる人間は、『影』にいた頃の彼には存在しなかった。


「私、仁科君と話したいんだよね。なんか、仁科君って話してると面白いんだもん」

星野はストローをカチャカチャと弄びながら、真っ直ぐに蒼真の目を見つめた。その瞳には、嘘偽りのない、ただ純粋な興味が宿っているように見える。彼女の言葉は、まるで固く閉ざされた蒼真の心の扉を、小さな石で何度も叩くようなものだった。その一打一打は、微弱ながらも確実に、彼の内部に波紋を広げていく。


「……そうか」

蒼真はそれ以上言葉を続けることができなかった。何を話せばいいのか、どう反応すればいいのか、彼には分からなかった。ただ、星野の温かい視線が、どこか居心地の悪さと、同時に微かな安堵を彼にもたらしているのを感じる。この感情は、彼が『影』を逃亡して以来、久しく忘れていたものだ。普通の人間としての交流。それは、彼が最も望み、同時に最も遠ざけなければならないものだった。


星野は蒼真の無言を気にする様子もなく、学園での出来事や、クラスメイトたちの噂話を一方的に話し始めた。その声は明るく、軽やかで、蒼真の張り詰めた神経を、少しだけ緩める作用があった。彼女の話に適当に相槌を打ちながら、蒼真は再び由紀の方に視線を走らせる。由紀は友人と笑い合っている。その周りの監視者たちの動きにも変化はない。プロの仕事だ。


(やはり、近づくべきではない)

蒼真は心の中で改めて決意する。由紀の笑顔は眩しい。だが、その輝きは同時に、彼自身の存在を焼き尽くすほどの危険を孕んでいる。彼は『影』から逃れた身であり、由紀は『影』の幹部の娘。その間に、友情や恋慕などという甘い感情が入り込む余地は、決して存在しない。自分は、影の中で生きる者。彼女は光の中で生きる者。交わることのない二つの世界なのだと。


午後の授業が始まり、蒼真は星野の誘いを断って、一人で図書館へと向かった。放課後の図書館は静かで、彼の神経を休ませるには最適な場所だった。彼は目立たない棚の奥に身を隠し、分厚い参考書を広げる。しかし、文字を目で追っていても、内容は頭に入ってこない。彼の意識は、常に学園全体の『気配』を追っていた。


(『影』の監視網は、学園全体に及んでいる……。由紀の周囲だけではない。この学園そのものが、一種の檻だ)

彼の五感は、図書館の管理室のわずかな電力の変動、校舎の壁の中に埋め込まれた盗聴器の微かな稼働音、さらには校庭に設置された防犯カメラの、人間の目には見えない赤外線センサーの光まで、全てを捉えていた。彼は学園の全てを、まるで蜘蛛の巣のように感じ取ることができる。そして、その巣の至るところに、見えない蜘蛛が潜んでいることを知っていた。自分もまた、その巣に囚われた一匹の虫に過ぎないのだ。


その日、蒼真は日直として、クラスの電気を消し、施錠をする役目を負っていた。全ての生徒が帰り、教室には蒼真一人だけが残る。彼は黒板を丁寧に拭き、窓を閉めていく。全てが終わった後、誰もいない教室の中央に立ち、大きく深呼吸をした。この瞬間だけは、誰の目も、耳も、彼の監視をしていない。能力を制御する必要もない。僅かな、本当の自分に戻れる時間。


だが、その安堵も束の間、彼の五感が再び鋭敏な警戒信号を発した。数メートル先、廊下から微かに聞こえる足音。それは、複数人の足音だった。そして、その足音の中に、彼の最も警戒すべき『気配』が混じっている。プロの歩き方、そして、由紀の周囲にいた者たちと同じ、質の高い『影』の気配だ。


(まずい……)

蒼真は咄嗟に身を隠そうとするが、教室のドアはすでに開かれようとしていた。

「仁科君、まだいたの? 私も今から帰るところだったんだ!」

星野真琴が、廊下に立つ神月咲月と談笑しながら、教室を覗き込んできた。その背後には、彼が感じ取っていた『影』の気配を持つ生徒たちが、ごく自然な表情で通り過ぎていく。彼らは星野たちには目もくれず、しかし蒼真の存在は確実に認識しただろう。


蒼真は背中に冷たい汗を感じた。これは偶然か? それとも、星野が『影』の無自覚な監視人であるという仮説を裏付ける証拠なのか?

星野は蒼真の様子に気づくことなく、屈託のない笑顔を向けてくる。蒼真は、その笑顔の裏に隠された真実を、どうしても探ることができなかった。彼は今、偽りの日常の中で、薄氷の上を歩くような危ういバランスを保っている。星野の存在は、そのバランスを揺るがす心地よい風のようであり、同時に、彼の存在を暴く嵐の前の静けさのようでもあった。


(守るべきものと、守るべき場所……。そして、隠し通すべき『私』)

蒼真は、自らの内に潜む超人的な力を、再び心の奥底に封じ込める。そして、星野と咲月に軽く会釈すると、何の変哲もない普通の高校生を演じきり、学園の門をくぐった。彼の孤独な戦いは、まだ始まったばかりだ。そして、その戦いの中で、彼は知らず知らずのうちに、由紀という光に惹かれ始めていたことを、まだ自覚していなかった。



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