表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
影の庭園  作者: 最後に残った形


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/44

# 第1話:隠された牙、無表情な転校生

聖徴学園の正門をくぐる瞬間、仁科蒼真は深呼吸をする代わりに、体内の全細胞に命令を下した。

「弛緩しろ。溶け込め。存在感を消せ」


ここが彼の新たな『舞台』だ。表向きは全国トップクラスの進学校。しかし裏では、能力者アビリティユーザーを統制・管理する国際的な秘密組織『影』の監視下にある危険地帯。そして、自分こそが、その『影』が最も血眼になって追うSランク相当の逃亡者だ。


黒髪に何の変哲もない制服。表情は氷のように固く、目立たないことを極限まで突き詰めた容姿。周囲の生徒たちは、新しく転入してきた彼に何の興味も示さない。それが蒼真にとっては何よりの安堵だった。


校舎に足を踏み入れると、数千人の生徒が織りなす喧騒が鼓膜を叩いた。能力を抑制していなければ、一人ひとりの微細な心拍、呼吸、発する電波さえも明瞭に聞こえてしまうだろう。五感を研ぎ澄ませれば、この学園に潜む能力者の微かな『気配』や、監視カメラの不自然な配置、隠された盗聴器の存在すらも容易に察知できる。だが、彼はそれをすべて遮断した。過去に相棒であり、唯一心を許した同僚から受けた警告が、脳裏にこだまする。「絶対に能力を使うな。ばれたら、お前は確実に消される」


その警告は、彼の命綱だ。過去、彼が組織に反発し逃亡した際、彼はその警告を胸に誓った。それ以来、五年間、彼は能力を封印し、普通の人間として生きる術を習得した。しかし、それは決して容易な道のりではなかった。己の超人的な力を無意識下でさえ制御し続けることは、常に激しい自己抑制を強いる。例えば、歩く速度一つにしても、無意識に高速移動をしようとする筋肉を抑え込み、平凡な一歩を刻む。ペンを握る指先に宿る尋常ならざる怪力を、紙一枚破らない程度にまで調整する。それは、常に激流の只中で、細い糸を操るような綱渡りだった。


担任の教師に促され、蒼真は教室の扉を開けた。一斉に注がれる視線を感じる。しかし、それは好奇心や敵意ではなく、ただの慣習的な確認に過ぎない。蒼真は感情を一切表に出さず、静かに教卓の横に立った。


「今日からこのクラスに転入してきた、仁科蒼真くんだ。みんな仲良くしてやってくれ」


簡単な挨拶を促された蒼真は、ただ一言、感情の籠らない声で答えた。「仁科蒼真です。よろしくお願いします」


その簡潔すぎる挨拶と、まるで石膏像のような無表情に、クラスの生徒たちはわずかに困惑した顔を見せたが、すぐに興味を失った。蒼真の狙い通りだ。目立たない。それが一番重要だった。窓際の席へと案内され、そこに腰を下ろす。窓から見える青い空と白い雲。どこまでも広がる平凡な風景は、彼にとって唯一の心の安寧だった。


しかし、その安寧はすぐに破られた。


「ねえ、仁科くん! 仁科くんてば!」


休憩時間に入ると同時に、突然後ろから元気な声が飛んできた。振り返ると、そこには茶色のショートヘアを揺らす、明るく活発そうな女子生徒が立っていた。星野真琴。彼女はクラスのムードメーカーといった雰囲気で、蒼真の隣の席に無遠慮に腰を下ろした。


「私、星野真琴! よろしくね! 仁科くんって、どこから来たの? 前にいた学校はどんな感じだった? もしかして、彼女とかいる感じ?」


矢継ぎ早に質問を繰り出す星野に、蒼真は内心でたじろいだ。これほど積極的な人間は、彼の人生において稀有だった。常に周囲と距離を取り、壁を作ることに慣れきっていた蒼真にとって、星野の無邪気な好奇心は、訓練された防御壁をすり抜けようとする不穏な侵入者のようだった。


「……特に、どこからということもなく。前の学校も、普通だった」

蒼真は簡潔に、そして感情を排した声で答える。この程度の応答では、普通は相手もすぐに諦めるはずだ。だが、星野は違った。


「そっか! でも、仁科くんってなんだかミステリアスだよね! 無口なイケメンってやつ? もしかして、クールぶってるけど、本当は寂しがり屋さんだったりする?」


星野の悪意のない笑顔が眩しい。蒼真は、彼女の言葉の裏に隠された意図を、無意識に探ってしまう。これは『影』の仕掛けた罠か? それとも、純粋な好奇心か? 彼の脳裏には、過去の訓練で培った疑念と警戒心が瞬時に湧き上がる。かつての仲間が、いつの間にか組織のスパイになっていたことなど、枚挙にいとまがない。この星野真琴という少女も、ひょっとしたら無自覚のうちに『影』に利用されている可能性だってある。彼はその可能性を無視できなかった。


「そんなことは、ない」


蒼真はきっぱりと否定した。その声には、知らず知らずのうちに、微かな拒絶の響きが混じっていた。


「えー、冷たいなー。でも、そういうとこも好きかも!」


星野はむしろ面白がったように笑い、蒼真の腕にポンと触れた。その瞬間、蒼真の体内の全ての神経が硬直する。皮膚越しに伝わる、星野の体温。それは、あまりにも人間的で、温かかった。彼が長らく遠ざけてきた、生身の人間との接触。その僅かな触れ合いが、彼の心臓を微かに震わせた。同時に、彼の五感拡張能力が、一瞬だけ、自己抑制の枷をすり抜けようとする。


――危ない。能力が暴走しかける。


蒼真は即座に感情を奥底に押し込め、自らを制御した。この程度の触れ合いで能力が漏洩するなど、絶対にあってはならない。しかし、抑制すればするほど、内側に秘められた力が暴れ出すのを肌で感じる。まるで、煮えたぎるマグマを薄い地表で覆い隠しているかのような感覚だった。


「仁科くん、お昼一緒に食べようよ! 学園のこと、色々教えてあげる!」


星野の誘いに、蒼真は再び、思考の渦に巻き込まれる。断るべきか。いや、あまりにも拒絶すれば、逆に不審がられるかもしれない。特に、星野のような社交的な人間は、周囲に自然と情報を拡散する媒体となり得る。彼女に怪しまれることは、この偽装生活において致命傷になりかねない。蒼真は、冷静に状況を判断した。


「……ああ」


短く答えるのが精一杯だった。星野は「やった!」と無邪気に喜び、さらに何か話しかけてきたが、蒼真の意識はすでに別の場所にあった。


(彼女は、本当に、ただの生徒なのか?)


蒼真の聴覚は、無意識のうちに星野の心拍数や呼吸のリズム、発する微細な体温の変化を捉えていた。嘘をついている時の人間の反応を、彼は熟知している。しかし、星野の反応には、隠された意図を示すような不自然な点が一切見当たらない。まるで、彼女自身も、己の深層に秘められた役割に気づいていないかのように。


昼休みになり、星野に連れられ、蒼真は学食へと向かった。廊下を歩く間も、彼の目は常に周囲を警戒している。学園の至る所に設置された監視カメラ、生徒や教師に紛れて監視活動を行う『影』の要員たちの微かな『気配』。それらは、まるで空気のように溶け込んでいるが、蒼真の研ぎ澄まされた警戒心は、その全てを捉えていた。特に、校舎の中央付近に位置する、由緒ある庭園の周囲には、濃密な『気配』が漂っている。


そこは、彼の潜伏の最大の標的、白咲由紀の動向と深く関わる場所だ。


広々とした学食は、生徒たちの活気で満ち溢れていた。そんな喧騒の中、一際目を引く存在が、蒼真の視界に飛び込んできた。銀髪に碧眼。優雅で気品溢れる立ち居振る舞いの少女。白咲由紀。彼女は友人たちと談笑しながら、ランチを摂っていた。その姿は、まるで絵画から抜け出してきたかのように美しく、周りの生徒たちの視線も自然と彼女に集まる。


蒼真の視線は、由紀自身だけでなく、その周囲にも向けられていた。彼の五感が捉える、由紀の周囲を囲む複数の『気配』。それは、単なる友人や護衛とは異なる、より訓練され、隠蔽されたプロの監視者のものだった。由紀本人は、その『気配』に全く気づいていないようだ。彼女の無邪気な笑顔が、蒼真の心を僅かに揺さぶる。彼女は『影』の幹部の娘であり、組織の権力闘争の駒として利用されている。その事実に、蒼真は胸の奥底で苦い感情を覚えた。


(守らなければならない。だが、近づくことは許されない)


それが、彼の使命であり、同時に彼に課せられた呪縛だった。由紀に惹かれながらも、彼は自分自身に厳しく言い聞かせる。彼女に近づけば、必ず『影』の目が彼を捉える。そうなれば、彼の偽りの平穏は崩壊し、由紀自身の命も危険に晒されるだろう。


星野が選んだ席に座り、彼女が選んだ定食を口にする。味覚は、彼の五感の中でも特に鋭敏だ。一つ一つの食材の鮮度、調理法、そして隠された成分さえも即座に分析できる。この学食の料理は、栄養価が高く、無駄な添加物も少ない。表面的な情報だけでなく、その背後にある『影』の管理体制の一端を感じ取ることができた。


午後からの授業も、蒼真はひたすら存在感を消すことに徹した。授業の内容は、彼にとって退屈極まりないものだったが、知識の吸収力だけは人並みを装った。ノートを取る指先は、不自然なほどゆっくりとペンを走らせる。彼の脳は、常に二つの世界を行き来していた。一つは、目の前で繰り広げられる平凡な学園生活。もう一つは、その裏に潜む『影』の暗い影、そしていつ爆発してもおかしくない自身の能力。


放課後、蒼真は真っ直ぐ自宅へと向かう。星野の「また明日ね!」という明るい声にも、彼は軽く会釈を返すだけだった。自宅は、学園から少し離れた閑静な住宅街にある、ごく普通のマンションの一室だ。部屋に足を踏み入れると、張り詰めていた緊張が僅かに緩む。


しかし、完全に気を抜くことは許されない。彼は部屋の隅々に設置された簡易的な監視装置を起動させる。これは、万が一『影』の追手が現れた時のための、彼自身の自衛手段だ。窓の外の景色を眺めながら、蒼真は一日の出来事を反芻する。


星野真琴。白咲由紀。


二人の少女が、彼の偽りの平穏に、微かな波紋を投げかけた。特に由紀の存在は、彼の心に複雑な感情を呼び起こす。彼女の周囲に漂う『影』の気配は、彼の過去と未来を否応なしに繋ぎ止める。しかし、彼は決意を新たにしていた。どんなに困難な道であろうと、この場所で、静かに、そして密かに、彼は由紀を守り抜く。そして、決して、己の『牙』を剥き出しにはしない。それが、彼が生き延びる唯一の道であり、彼が選んだ、孤独な戦い方だった。夜空を見上げれば、月が冴え冴えと輝き、まるで彼の内に秘められた力を映し出すかのようだった。その光は、彼の秘密の重さと、未来への不安を、静かに照らしていた。


今日から始まった彼の二重生活。それは、いつ、どこで崩壊してもおかしくない、危ういバランスの上に成り立っていた。しかし、蒼真は知っている。この先に待ち受ける運命から、逃れることはできないのだと。彼に残された選択はただ一つ。能力を隠し、影の中で生き続けること。そして、その影から、大切なものを守り続けることだ。


彼の心臓が、静かに、しかし力強く鼓動する。その鼓動は、彼がまだ人間であることを証明する、唯一の確かな音だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ