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二人の母、一つの境界線 ―空のママと、絆創膏のお母さん―  作者: 横山


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第四話

 両親が亡くなってから、私は職場に長期休暇を届け出た。


 父が遺した膨大な資料と向き合うため。 そして何より、あれから体調の思わしくない結衣を支えるためだ。


 父の書斎を整理していた時、重い金庫の奥から、一冊の手帳と、ラベルのない遮光瓶に入った錠剤を見つけた。


「……何、これ」


 病院の薬剤部を通した形跡はない。 父の秘書や同僚の医師たちに尋ねても、誰もそんな薬の存在を知らなかった。


 手帳を読み解くうちに、私は心臓が凍りつくような感覚に陥った。


 そこには、公的な記録には存在しない「未承認薬」の存在と、それを結衣に投与し続けてきた父の独白が綴られていた。


 父は、病院経営者としての立場を利用し、薬品の横流しや、不都合な患者情報の隠滅。 さらには「医療事故」として処理された、不可解な転院記録の操作。


 それらを行うことで、結衣の命を繋ぐための「薬」の提供を受けていたのだ。


 それは医者として、いや、人間として許されない大罪だった。


 けれど、この薬の供給が止まった途端、結衣の容態は目に見えて悪化した。


「え?あのお薬、お姉ちゃんも知ってたの?」


 病室で結衣が細い首をかしげて笑う。 食間に必ず飲んでいた、父が「特製のビタミン剤だ」と言って渡していたもの。


 私は、カバンの中に忍ばせた遮光瓶を強く握りしめた。 この瓶を開ければ、私は父と同じ「罪人」になる。


「……これでしょう? お父さんから預かってたの」


 私は震える手で、一粒の錠剤を差し出した。 結衣が不思議そうに私を見上げる。


「あれ、先生は知らないって言ってたけど……」


「先生には内緒にして欲しいの。お父さんがね、特別なルートで用意してくれてたものだから。病院のルールって色々面倒でしょう?」


 心臓の鼓動が耳の奥でうるさく響く。


 これが本当に結衣を救うものなのか、それとも緩やかな毒なのか。私には分からない。 ただ、父のあの必死なまでの横顔を思い出すと、これを止める勇気もなかった。


「お姉ちゃん?」


「ごめん、今は何も言えない。でも……お姉ちゃんを信じて」


 結衣は、私の顔をじっと見つめていた。 その瞳には、すべてを見透かしているような、哀しいほど深い光が宿っていた。


 けれど、彼女はそれ以上何も聞かず、小さく頷いて薬を口に含んだ。


「……うん。お姉ちゃんの言うことなら、私、信じるよ」


 喉が鳴る音が、静かな病室に冷たく響いた。


 その瞬間、私と結衣の間に、誰にも言えない秘密の契約が結ばれた。 私はもう、ただの「物語を運ぶ姉」ではない。


 法を犯し、倫理を捨て、妹の命を不正に買い叩く共犯者だ。


「お姉ちゃん」


 病室を出ようとした私の背中に、結衣の声がかけられた。


「……無理しないでね」


 振り返ることはできなかった。 「大丈夫だよ」と笑って返すことさえ、今の私には難しかった。


 廊下に出ると、病院独特の消毒液の匂いが鼻をつく。 父が消し去った「事故」の記録や、名もなき患者たちの影が、足元から這い上がってくるような気がした。


 私は逃げるように病院を後にした。


 結衣の頬に赤みが戻り、面会できる時間が増えたのに。 私は、逆に病室に長居が出来なくなった。


 遮光瓶の薬を妹に飲ませ始めた数日後。 自宅の前に見慣れない黒塗りの車が停まっていた。


「……お父上には、大変お世話になっておりました」


 現れたのは、父の病院に医療機器や薬品を納入していた企業の役員だという男だった。 彼は丁寧な物腰で、しかし冷酷な光を宿した目で私を見つめた。


 彼らが求めたのは、父が秘密裏に行っていた「便宜」の継続だった。


「そんなこと、私には……」


 私の沈黙に、男は薄く笑って一枚の書面を差し出した。


 そこには、私がここ数日、結衣に投与した薬の成分と、 それが「正規のルートではない」ことを証明する記録が並んでいた。


「綾瀬綋様。貴女もすでに、お父上と同じ道に足を踏み入れておられる」


「……っ」


「妹様のあのお薬、手元にある分だけでは、あと一ヶ月も保たないでしょう?」


 心臓が跳ねた。 薬のストックは確かに少ない。


 父がどこからそれを仕入れていたのか、私一人では辿り着けなかったから。


「……私に、何をしろと言うんですか」


「お父上がなさっていた『調整』を、少し手伝っていただくだけです。事務的な処理や、転院の手続き……貴女なら、お父上の印章もパスワードもご存知でしょう?」


 それは、底なしの沼への招待状だった。


 私が彼らの不正に加担すれば、結衣の命は繋がる。 けれど、その代わりに私は、父が守ろうとした病院の誇りも、自分自身の人間としての尊厳も、すべてを売り払うことになる。


「お姉ちゃん、今日も来てくれたんだ」


 翌日、病室を訪ねると、結衣は今までで一番元気そうな顔をしていた。


「あのお薬、本当に効くみたい。なんだか体が軽いんだ」


 無邪気に喜ぶ結衣の笑顔が、今の私には鋭い刃のように突き刺さる。


 この笑顔の対価は、どこかの誰かが受けるはずだった適切な医療を奪うことかもしれない。 あるいは、父が葬った「不都合な真実」の上に成り立っている偽りの命かもしれない。


 遮光瓶が空になって一週間。 私は男から手渡された、不正な転院手続きの書類に父の印を押した。


 一度押してしまえば、二度目からは抵抗が薄れていく。


 私は病院の影に潜む「伝令役」となり、 父の罪を上書きするように、新たな罪を重ねていった。


「お姉ちゃん、無理しないでね」


 結衣のあの言葉が、呪いのように頭の中で繰り返される。


 無理をしなければ、繋ぎ止めておけない。


 汚れた手で触ることが怖くなり、 少しずつ、私の足は病室から遠ざかっていった。

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