10 優しい人
クローゼットの奥にはカバーのかけられた服が並んでいた。イオリはそれらのタグを一つ一つ確認しながら何かを探している。二の腕に浮き出た血管がちょっと色っぽい、そんな彼に言ってみた。
「どうして優しい?」
「誰が?」
「イオリ。」
「自分ではそうは思わないし、職場でも言われたことは無い。一言で表すと心外だ。」
「だって、私がイオリの物を触ったけど、怒らなかった。」
イオリは一度探すのをやめて、私を見た。
「触ると怒られるような環境だったか?なるほどな。俺はそんなことはしない。ついでに聞くが、ならばどうして触った?」
どうしてだろうか。確かに、怒られるのを知っていたのに、イオリの高価な服に触った。こんな些細なことが話題になるのはあまり慣れてないけど、なんとなく答えた。
「うーん……ダメなことをすると、必ず夫に怒られた。私には他に家族も友達もいなくて、学校にも行ってなかった。仕事に関する重要なことは、夫に教えてもらった。夫が私の人間関係の全てだった。」
「そうか。」
「夫はあまり家に帰ってこなかった。私はそれでも一緒に住めているだけで十分幸せだった。物に触ると怒られたけど、同時に接点が生まれた。夫は殆ど私と話さない……私が話せないのを知ってたから、彼は私に話そうとしなかった。話しかけても吃ってしまうから、それが鬱陶しいんだって。だから、怒られたくてわざと触った時もあった。接点が生まれるから。」
「アリシアは話せる。」と、イオリがまた服を漁り始めた。「アリシアは人よりも話すことへのハードルが高いのだろう。そして相手がアリシアが話せる空気を用意しなかった。それだけの話だ。それに、わざと禁じられた行動をとるとは。そんなことをしなくても、本来、人間は誰かの無償の愛情を受け取るべきということを、お前は知るべきだと俺は思う。」
「何もしなくても愛されることもあるってこと?」
「その通り。」
「それはイオリがやってくれるの?」
「早く成仏しろ。」
苦い顔をしたイオリの横顔を見つめながら、私は笑ってしまった。街で見かける人々は、何かを話しながら笑っていた。話して笑うことなんてなかったから、私はそれを、社交辞令の笑いなんだと思っていた。
でも違かった。街にいた人達は、面白いことを言って心から笑っていたんだ。イオリと話してこうして笑ったみたいに、彼らも心の底から楽しいから笑っていたんだ。
今が一番楽しいなんて。側から見たらおかしいことだろう。私はもう生きていないのに。
「あった。」
イオリがハンガーを手に取り、かけられていた黒いカバーを外した。すると中から黒いゴシック風のワンピースが出てきた。それを渡してきたので、私は受け取った。
上半身はシャツのようなシンプルなデザインで、タートルネックのように首上まで襟があり、ふんわりとした半袖で、膝上丈のスカートは異素材の束がプリーツを作っている、アシンメトリーの可愛らしいものだった。
私の好みと絶妙にマッチしている……どうしてこれを?と不思議に思ってイオリを見つめていると、カバーの中に手を入れてまだ何か探していたイオリが、「おっ」と白い何かを掴んで私に見せてきた。
それはウィッグだった。イオリが「まだ使えるか?」と確認しながら広げると、サイドが長めの前下がりのショートボブの髪型だった。後ろから段々と長くなっていく髪型が、これもとても私の好みと合っていた。ちょっと知的。
「これ、どうしたの?」
「ああいや……。」とイオリが頭をかいた。「これでよければやる。いらないなら捨てる。これはエミリが昔ヴィジュアル系バンドのライブに行った時に着ていた物だ。お前に……まあ……似合うんじゃ無いかと思った。」
後半の方ボソボソ言っていたのでちょっと聞こえにくかったけど、イオリが照れているのは分かった。ありがとうと照れて言えなくて口をモゴモゴしていると、イオリと目があった。けど、すぐに逸らされた。
「その白服に坊主頭では目立つだろう。そのワンピースも目立つかもしれんが、それしかお前に合う物がうちには無い。今のエミリのサイズはアリシアより大きいしな。それを着て、明日は俺と一緒にノアズに行くしかない。」
「えっ!?私が犯罪者なの知ったから逮捕するの?」
「違う。」イオリが私の頭に手を置いた。温かかった。「今日の事件のこともあるが、それよりも俺の職場だから一緒に行くんだ……離れられるまでは、そうするしか無いだろう。暫くはどうにか理由をつけて、俺の助手だと説明するしかない。姿を消して俺について歩くのもいいだろうが、ふとした隙にお前が姿を表してしまうのならこの方が……何をしている!」
「え?」
だってこれくれるんでしょ?だから着替えているだけなのに、チラッと私の身体を見たイオリが慌ててクローゼットから出てドアを閉めてしまった。そして向こうから聞こえた。
「急に人前で着替える馬鹿がどこにいるんだ!一体何がお前をそうさせているんだ!」
「だって私、夫の前で普通に着替えてた。」
「俺は夫じゃ無いんだ!それを理解しろ!」
「そうでした……すみません。」
白いワンピースを脱ぐと他には何も着ていなかった。身体は以前よりもちょっと白くなっているけど、元々色白だったので許容範囲だ。人間とは思えない程に青白いかもしれないけど。
「ねえイオリ。そこにいる?」
「ああ!なんだ!?」
「下着なかった。」
「……なら、明日買えばいいだろう。全く、いつ成仏するんだ!?」
「それは犯人はティー「カップの中の放送が終わるまでだな!分かっている!そんなことは分かっているんだ!あああ!」
本当にイオリは面白い。私は黒いワンピースを着て、ウィッグを付けた。ちょっと古い匂いのする洋服だけど、何故かとても心が踊った。
クローゼットから出ると、イオリが立って待っていた。彼は私の姿を見て一瞬、目を丸くして、すぐに微笑んでくれて、私を手招いて部屋の隅にある全身鏡の前に立たせてくれた。
鏡には生まれ変わったような私と、微笑むイオリが映っていた。鏡越しに彼と目が合って、私は思わず胸が高鳴った。
「……俺が素直なことを言っても、笑うなよ。」
「え?」
「とても似合ってる。素敵だ。」
イオリの白い歯、初めて見た。笑うと頬がくしゃってなるのも、知らなかった。私はまた、ありがとうって言えなかった。
「さて、俺は寝るぞ。シャワーは朝でいいか。」
イオリがわざとらしく背伸びをしながらベッドに向かっていった。私はまださっきの褒め言葉を心の中で噛み締めていた。
ふと、エミリという人が気になった。彼の家にこの服を残した人物は一体どういう人間、いや、女性なのだろうか。元……彼女?
私はたちまち不満顔になった。ベッドに仰向けに寝転んだイオリが私に聞いた。
「どうした?その服は嫌か?」
「それはとても気に入ってる。でもエミリって誰?」
「さっき会っただろう、彼女がエミリ。」
「あ、ああ。あの人か。」
使用人ね、ならよかった。変な安堵感を覚えた時に、改めて私はイオリのことが好きになっているんだと実感した。安心した私は、ベッドに座った。
布団の中で私に背を向けて寝ているイオリに聞いた。
「エミリはどれくらいここにいるの?」
「そうだな……今年で六年ぐらいか?俺が医学院を卒業して、そのまま俺の家に転がり込んできた。」
「転がり込んできたって言い方するの?使用人でしょ?」
「使用人?ふふっ……面白い読みだが、しかしそれは違う。彼女は俺の母だ。」
「……。」
お、お、お母さま……!ブフゥーーー……
じゃあ私が着ているこれはお母様が昔着ていた物なのね……!ああ、なるほど確かに、あの鋭い目つき、イオリに似てた。いやいやいや、色々な質問が頭に浮かんできたけど一番の質問はこれだった。
「お母さんと二人で住んでるの?」
「ああ。父はずいぶん前に他界しているし、俺は母に育てられた。母はどこか気の抜けたところがあって、あまり外では働けなくてな。あとは弟がいたが、どっかでふらついて悪事を働いている。全く情けない奴だ。」
「そうなんだ。」
イオリが姿勢を変えて仰向けになると、私のことを見ながら言った。
「お前のことだが、どの道、アリシアとは双子という設定に市民データを書き換えるしかない。となるとそれはシードロヴァに頼むしかない。」
「シードロヴァって、ノアズの?」
「ああ、例の鬼畜副所長だ。この世界で上から二番目の権力を持ったノアズのブレインであり、俺の幼なじみでもあり、俺の……義理の叔父だ。」
「叔父さん?彼は若そうだけど。」
「ああ俺と同い年だ。でも彼は、俺の大叔父に養子として引き取られたんだ。俺のおじいさんの兄の息子……眠くなるな、こういう話は。」
私は布団から出ているイオリの手を触った。
「じゃあ明日は、シードロヴァ様に会うの分かった。」
「様なんてつけなくてもいい。はは。明日は丁度、彼が俺のオフィスに来る予定だったから、そこで色々と話をする。そのあとサラを説得しにいくぞ。」
「らじゃー。」
「後で電気を消してくれ。おやすみ。」
「おやすみ。」
と言っても、全然眠くない私は、取り敢えず部屋の電気を消して、それからベッドに座ってイオリの寝顔を見ていた。




