「秘密を、君に・・・」(5)
「それで……今朝、本社にいらしたんですね」
不思議と、私はすんなり彼の話を受け入れていた。
「そうだよ。役員会議でオレの件を了承してもらうためにね。まあ、ほぼ全員が顔見知りだったし、オレの存在も公然の秘密みたいなものだったから、会議なんて大仰なものじゃなかったけど」
私が自然な態度だったのに安堵したのか、彼の表情も幾分柔らかくなった。
けれど、
「……それじゃ、今度からはもうこんな風に親しくお話させていただくこともできなくなりますね」
私がそう言った途端、みるみるうちに険しいものに変わっていったのだ。
だって、後継者ということは、いずれは社長になるわけで、私みたいな一般社員とは全然違う世界の人になるのだから……
それに何も感じないわけじゃない。
胸の奥の方で、ズキン、と痛みが走ったりしたけれど。
でも、燻ったままの想いを断ち切るには、いい機会なのかもしれない。
そう思った私は、走った痛みに気付かないフリをすることにしたのだ。
それなのに、彼は険しい顔つきを保ったままだった。
「それ、どういう意味?」
立っている距離は変わらないのに、勢いある口調だったせいか、グッと圧迫された感じがした。
「……そのままの、意味です。だって、森宮さ……今里さんは、つまり、次期社長、なんですよね?そんな方と一般社員の私なんかが親しくできるはずないじゃないですか」
彼の圧に、思わず怯んでしまいそうになりながら、それでも私はハッキリ意見した。
”今里さん” とはじめて呼んだことで、より一層、彼への気持ちを遠退けられたような気もしていた。
「ちょっと待ってくれないか。オレはきみに秘密にしていたことを全部クリアにしたくて、わざわざここまで来てもらったんだ。きみが『秘密は嫌い』と言ったから、まずその秘密を打ち明けないとと思って……」
動揺なのか焦りなのか、とにかく彼は早口に言ってきた。
すると私も彼に煽られるように、気持ちが急かされてしまう。
「確かに秘密は好きじゃありません。でも、今更秘密を打ち明けられても、あなたが私に隠し事をしていた事実は変わらないじゃないですか!」
急かされた気持ちはうまくコントロールできずに、弾けてしまった。
「私は、秘密自体も好きじゃありませんけど、秘密にされることも好きじゃありません。だから名前さえ秘密にされてると知ったとき、もう森宮さんとは会わない方がいいと決めたんです。そんな、名前すら本当のことを教えてくれない人を信じられるわけないと思ったからです。例えどんな理由があったにしても、それを……それを今更打ち明けられたって、はいそうですか、なんて何事もなかったかのようにはできませんよ……」
まだ、彼への気持ちは残っている。
だけど、私はそれを吹っ切るために今夜ここに来たのだから。
彼はいたずらに秘密を増やし私を混乱させたのではなく、秘密にせざるを得ない事情があった。
それを知れただけで、もうじゅうぶん。
だから、もう………
私は、これ以上彼と一緒にいることを避けたかった。
そうじゃないと、燻っている想いが未練へとカタチを変えてしまいそうだったから。
そう思ったら、無意識のうちに半歩、また半歩と後ろずさっていた。
「待って」
私がさがった分だけ、彼が詰め寄ってくる。
そして、私もまた後ろに進む。
「あの……、…お話がそれだけなら、私は、これで失礼します」
まだ何かを伝えたそうな彼を拒むように、私はパパッと会釈だけして、すぐに身を翻した。
ところが、「待って!」と、彼が私の腕を掴んできたのだ。
その強さは相当なもので、私は反対の手に持っていたバッグを落としてしまった。
まだ乾ききらない地面に、バッグの中身がこぼれ出る。
今日に限ってオープンタイプのバッグだったなんて、最悪だ。
私は彼が力を弱めた隙に、その腕を振りほどき、急いで散らばったものを拾いにしゃがみ込んだ。
彼も悪いと思ったのか、一緒に腰を屈める。
財布、手帳、キーケース、そして、あのタオルハンカチ。
けれど、そのハンカチが2枚落ちていたのだ。
おそらく、彼の持っていたものが、私が手を払った拍子に落ちたのだろう。
一瞬、どちらが私のものか迷い、拾う手が止まってしまった。
けれどその迷いを突くように、彼がまた私の腕を握ってきたのだ。
「まだ話は終わってない」
さっきまでよりも更に至近距離にいる彼に、その整い過ぎた顔立ちに、私は視線までもが怯んでしまう。
咄嗟に近くにあったハンカチを掴んで立ち上がっていた。
「私には話なんてありませんから!」
言い捨てて、駆け出した。
これ以上彼の話を聞いていたら、吹っ切るつもりだった気持ちが揺らいでしまいそうで……
そんな頼りない決心が崩れてしまわないように、走って彼の前から逃げだしたのだ。
「野田さん!」
後ろで私の名前を叫ぶ彼の声が聞こえたけれど、
ガタン!
扉が硬質な音を立てると、彼の気配はそこで遮断された。
私は僅かに立ち止まり、彼が追ってくる様子がないことを確認すると、ホッとした。
でもその反面、まるで喉を絞められたような苦しさも迫ってくる。
私はその苦しさを追いやるように頭を振ると、また急ぎ足で階段を駆け降りた。
彼のことを吹っ切るために、私は今日ここに来たはずなのに、心のどこかでは、彼を想い続けたい自分もいて……
いくら事情があったとしても、秘密ばかりだった彼を想い続けるのはやめておいた方がいい―――――きちんと秘密の理由を教えてくれた彼なら、好きなままでいてもいいじゃない。
自分が勤める会社の跡継ぎだなんて、あまりにも身分が違い過ぎる。彼とのことは忘れてしまった方がいい―――――彼が白華堂を辞めてエフ・レストに入るなら、もうおかしな噂を流されることもないんじゃないの?
まるで二律背反のように、私の心は振り子を行ったり来たりさせる。
一秒たりともじっとしていない心の振り子に、私は責め立てられてるような気分になっていった。
勢いつけて階段室を飛び出し、そのまま一目散にエレベーターホールを目指す。
下行きのボタンをカチカチカチと何度も何度も押すも、ちっとも上がってきてくれない。
階数ランプを見ると、すべてがエントランスに降りたところだった。
私は溜め息吐いて、階数ランプから目を離した。
そして何気なくボタンから外した手元を見やると、ずっとタオルハンカチを握ったままだったことに気が付いた。
彼と出会うきっかけになったハンカチ。
もしも彼への想いを断ち切るなら、このハンカチはただの苦い思い出となってしまうのかな……
そんな風に考えていると、ふと、違和感が走った。
「これ……」
確かに私と同じハンカチだったけど、微妙に色が違ったのだ。
おそらく……間違って彼の方を持ってきてしまったのだろう。
どうしよう……
心が、その場に立ち止まった。
一見は同じものでも、どう贔屓目で見ても私の方が傷んでいるはず。
それに比べて今手にしているのは、ほとんど新品に近いようなものだ。
このまま取り違えて持っているのは、申し訳ない気がした。
私はそれを見つめたまま、胸の奥からざわめいてくる何かを感じ取った。
見上げると、まだエレベーターはエントランスに留まったままだ。
もう一度ハンカチに目をやり、考える。
これはただのミス、偶然のハプニングだろうか。
このハンカチを何かのシグナルだと捉えるのは、考え過ぎだろうか……?
でもそのとき咄嗟に頭に浮かんだのは、森宮さんの、優しい笑い顔だった。
「―――っ!」
私は思わず、森宮さんのハンカチを両手で握り締めていた。
なんでこんな時に………
胸のざわめきが、ひと際大きくなる。
次から次へと浮かんでくるのは、森宮さんの笑顔と、言葉と、それから、
『――――秘密だよ?』
人差し指を立てて、目を細めて、私にそう言った森宮さんだった。
森宮さん、
森宮さん……
…………森宮さんっ!
そう心で叫んだとき、私の中の振り子が、ピタリと動きを止めた。
私の気持ちの行き先が、ひとつに決まった瞬間だった。
私は、今走ってきた廊下を、急いで戻ることにしたのだった――――――




