十八話
この屋敷の風呂は贅沢にもかけ流しであり、香りのいい木で組まれた広めの浴槽に惜しげもなく湯が注がれている。脱衣所にはリオンの着替えが用意されており、着ていた服を脱いでカゴに入れれば、服がじわじわと溶けるように消えていった。無くなったのかと言えばそうではなく、用意された部屋の箪笥を開けるとすっかり洗濯され、綺麗に畳まれた状態で入れられているのだから驚きを通り越して呆れてしまう。
【龍脈の源泉】から溢れ出す魔力を結界と屋敷の維持に使用して必要以上に外界へ漏れないようにしているとは言っていたが、こういった細々とした所にも使われているところを見ると、鑑継の一族の者がズボラである原因が何なのかなんとなくわかってしまうというものだ。
髪と身体を洗い湯船にゆっくりと沈めれば、包み込む温かさに自然と吐息が漏れる。
「……夢じゃ、ないんだな」
浴槽の縁に身体を預けて天井を預けながらそう呟けば、僅かな水音と共に声が反響した。
あちらの世界で風呂と言えば貴族の嗜みという認識だっだが、ここでは誰もが日常的に風呂に浸かるのが習慣なのだと言う。清潔な布で身体を拭くか川で水を浴びるかの経験しかなかったリオンからすれば、今の生活は王城に居た時と比べるまでもなく恵まれていた。
そもそも塔での生活は寝て起きて辛うじて食べ物と言えるような食事を取り、戦争に役立つ知識とある程度の作法を学ぶだけだった。戦争の道具が余計な知識を手に入れることがないように、接する人間は最小限で、戦場では常に王を守る盾として傍に置かれ、魔力で強化した鎖で繋がれていた。身の内に溜め込まれる膨大な魔力を使っては敵味方関係なく戦場を火の海にし続け、魔力が無くなり倒れれば塔に放り込まれた。そうして魔力が回復するまで閉じ込められる。まるで畜生のような日々に慣れてしまっていたリオンにとって、ここに来てからの生活は常に落ち着かないものであった。
王子という立場など、あの世界では異分子であったリオンにとってただの肩書きで、好意と呼ばれる感情を向けられることなどなく、対等に話してくれることなど血が繋がった者たちでさえ蔑むような顔をしていた。
宴会の席の和やかな雰囲気があまりにも居心地がよくて、未だに遠く儚い夢を見ているように感じる。現実味がないというのか、いまいち実感が湧かないというべきか。
自分に優しくしてくれる人間が早々現れるわけがないと思ってしまうのは卑屈すぎるだろうが、それほど人の好意に関しては免疫がないのだ。顔に出さずとも心の中では警戒し、何食わぬ顔をして人の裏を見ようとしてしまう。この話をしたら、葵はそんなに気負わなくてもいいと笑うだろうが、これはもう長年の癖といえるものだし、これからのことを考えれば直す必要もないだろうと自分を納得させた。
ふと、宴会での柔らかな感触と鼻を掠めた甘い香りが頭を過ぎた。
異性として意識していなかった葵との過度ともいえる接触。ぴったりと隙間なく寄り添い、彼女の細い腰に手を回してしまった時に感じた羞恥や焦燥に似て非なる感情を思い出すと、途端にじわじわと頬が熱くなっていく。
すぐにハッと我に返りザバザバと顔に湯をかけると、リオンはそのまま手で顔を押さえて小さく呻いた。
人を燃やし尽くす無情な熱は知っていても、じわりと染みこむような体温の優しさは知らなかった。腕に胸にと染み渡る人の温もり。泣いて縋りたくなるあの温かさを一度でも感じてしまえば、これ以上あの頃を振り返ることも馬鹿らしく思えてしまうくらいだ。
「……もうあの頃には戻れないなぁ」
リオンはため息交じりにそう零す。
温かさというものを知ってしまった今、あの冷たいだけの塔には戻れない。侮蔑と嫌悪に塗れた王城も、血と灰に彩られた戦場も、あの頃は当たり前のようにそこに在り、今は影も形もない。
あぁ、戻る世界が無くなってよかった。
そう思ってしまうのは、あまりに薄情だろうか?
リオンはそんなことをグルグルと考えながら、包み込む湯の温かさに微睡むようにそっと瞼を閉じた。
* * * * * *
風呂からあがって葵の居るリビングへと向かうと、彼女はソファーに寝転がり本で顔を覆っていた。
眠っているのだろうかと音を立てないように近づいてみると、彼女はすぐにリオンの気配に気が付いたのか、軽く身じろぎをしてからゆっくりと半身を起こす。顔からバサリと雑誌が膝の上に落ちると、とろんと眠そうな瞳がリオンに向けられ、ゆっくりと瞬きをした。
「ん……リオン、出たんだ」
「は、はい」
起き抜けの気だるげな色気を撒き散らす葵は健全な思考を持つ男性にとってはかなり目の毒で、リオンは見てはいけないものを見てしまったとばかりにスッと目を逸らす。しかしその時には既にスカートから伸びるスラリとした脚やら、首元を緩めている所為でチラつく鎖骨やらがやけに鮮烈に目に焼き付いてしまい、リオンは頬の赤らみを誤魔化すように咳払いをした。たとえ異性を知らずとも本能というべきか、悲しい男の性というものなのだろう。リオンは、こちらに来てから幾度となく感じる胸のざわつきをどう表現していいのかわからず首を捻りながら擦るように胸に手を当てる。
そんなリオンの複雑な胸中を知らない葵は、眠そうに一つあくびをしてから席を立つ。そしてグンと伸びをしてから首をコキコキと鳴らした。
「リオン、今日はどうだった?」
「どう、とは?」
「ほら、なんのしがらみもなく私以外の人と話した気分はどうかなーって思って」
ニコリと笑みを浮かべながら聞いてくる葵に、リオンは風呂の中で思い出していたことを再度頭の中に巡らせる。
「楽しかった……のだと思います」
首輪も肩書きも何の意味もない世界。なんのしがらみもなく言葉を交わし、彼らの事情と使命を知り、リオン自身も躊躇うことなく過去を話した。
彼らから向けられた目には同情も憐みもなかった。ただ、リオンという人間をしっかりと認識し、葵と同じように穏やかな笑みを見せただけ。同じ卓を囲んで同じ食事をとるだけでも心が満たされたというのに、彼らと何気ない会話をするひと時がどれほど甘美な時間だったか。
リオンの言葉に一層笑みを深くした葵は、今日のことを思い返しながら表情を和らげる彼の頭をひと撫でする。これ以上言葉にせずともリオンの心境がわかったのか、葵は満足そうに頷くとそっと頭に乗せていた手を離した。
「明日から忙しくなる。今日はもう寝な」
「はい。……おやすみなさい」
「ん、おやすみ」
彼女はそれだけ言うとゆったりとした足取りでリビングを出ていく。
過保護のようでいて、その実そうではない。適度な距離を保ちながらも、たまにああして頭を撫でてくれる葵がいったい何を考えているのか。出逢って日が浅いリオンにはまだまだわからないことばかりだが、それでも彼女の行動は善意であり、それでいてきちんと現実を見据えていることはわかる。
今はわからなくても、少しずつ理解していこう。しがらみは既に無いのだから。リオンはそう思いつつ、彼女の後を追うようにリビングを出て、与えられた部屋へと向かった。




