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第九集「真の狙い」

 「許宇(きょう)様」つい名前を呼んでしまって慌てて口を塞ぐ。目下の者が名前を呼ぶのは失礼だったはずだ。


 ところが許宇様はいきなり膝をつき、

「私のこと、思い出したか?」

 声だけじゃなく合わせてきた目線も嬉しそうで、その距離感も含めて俺は大いに戸惑う。とはいえ期待に添えない申し訳なさも、またある。

 「いえ……」目を伏せ気まずく呟くと、小さなため息が聞こえた。


「まあいい。体調はどうだ?」

「おかげさまで、だいぶいいです」

「では、気晴らしに散歩はどうだ」

「是非!」

 ここから出られる嬉しさのあまり元気いっぱいに言ってしまい、目の先で許宇様が苦笑する。


 先に立ちあがった許宇様が手を差し伸べてきた。

 やっぱり戸惑ったけれど、「ありがとうございます」その手を取って立ち上がった。


 俺が足元に広げた書籍を拾い上げて文机に置いている間、許宇様は部屋の奥、棚にかけられた衣から色の濃い一枚を取って戻ってくる。言われるがままそれに袖を通して、許宇様の後に従った。

 許宇様は入口に置いていた提灯を拾い上げ、中央階段を目指して真っすぐ廊下を歩く。俺はその半歩後に続いた。


 中央階段を下りると、上の階と同じく左右に長い廊下があって、正面にはやけに明るい開かれた扉があった。重々しい観音扉の両脇には篝火が焚かれていて、兵士まで立っている。よかった勝手に部屋を出なくて、密かに安堵した。

 許宇様は懐から取り出した木の札を兵士に見せ、言葉を交わしてから外へ出た。焚火の明かりで不穏に輝く槍先に恐れおののきつつ、俺はそのあとを追う。


 外に出ると、空には皓皓と照る丸い月。眼下には青白く色づいた砂地が広がっていた。遥か向こうに立派な門が見えて、周囲はぐるりと塀に囲まれている。


「あの門の向こう、鴻臚寺(こうろじ)がある。私はそこで働いている」

 思わずつま先立ちになって提灯が掲げられた方向を見たら、月光に幾重にも重なる立派な瓦屋根が浮かび上がっている。つま先立ちになっても、壱岐くん(おれ)は許宇様の耳ぐらいまでの背しかない。そんな壱岐くんを見て、許宇様は笑ったようだった。

 左右背後を見てみると、傔従(けんじゅう)くんの言葉通り、大小の違いはあるものの、似たような建物がずらりと並んでいる。


「私たち、あそこでよく話した」

 許宇様が指さしたのは、今出てきたばかりの建物の右角に生えた一本の松の木だった。


「さっきのは」

 松の木に向かって歩き出した許宇様の半歩後についていったら、許宇様は少しだけ足を遅くして隣に並んできた。

真仁(まひと)と初めて会った日と同じ風景だった」


 ひと月前、日本の使節団が鴻臚客舎に入った夜、様子見に立ち寄ると、通常閉められているはずの廊下の窓が開いているのが見えたのだという。二階に上がると、開いている窓の対面の一室の扉が開いていて、戸口で壱岐くんが本を読んでいたと。

「『何をしている?』と訊いたら『余りに見事な月明りだったから、この光で本が読んでいた』と」


 ――確かに、風景としては同じだな。俺の場合は暇を持て余しすぎて、だから、実情は違っているけど。


「到着した日は誰もが早々に部屋に引きこもって休むものなのに、静まり返った客舎内で、月明りの中で熱心に文字を追っている姿にはひどく驚いたし、また感動的だった。だから声をかけて、散歩に誘い出した――こんなふうに。話をしてみたら、私が来訪予定の日本使節団の接待を命じられたのと、真仁が遣唐使の使節団に加わったのも、ちょうど一年前。どちらも急遽命じられ、異国語を充分に学ぶ時間がなかった事情も同じで、それならお互いに言葉を教え合おうということになった」


 なるほど。

 この二人、留学生と世話役ってだけじゃなくて、友達ってことか。他の留学生の手前、大っぴらに友達するわけにはいかないだろうし、だけど隠し切れないところもあるしで妖しい関係に見えてしまったのか――何だかほっとする。


「だから、思い出したのかと」


 壱岐くんへの思いが込められた目を真っすぐに向けられる気まずさと申し訳なさに目を伏せたら、許宇様が何度目かの小さなため息を吐くのが聞こえた。

「まあいい、真仁は当分ここにいるのだから。――どうしても思い出せないのなら、また一から我々の関係を作っていけばいい」


 我々の関係を、一から!?


 思わず顔を上げると、こちらを見下ろしている許宇様の目が、なんだか意味ありげに感じて、顔が引きつってしまう。

 いや、この二人ただの友達じゃないだろ。何だよ『我々の関係』って。やっぱり何か妖しくない?


 顔が引きつっただけじゃなく、無意識に身体を引いてしまっていた。足元がふらついて、反射的に許宇様の袖を引いてしまう。


 ガチャン! 


 夜の静けさを突き破る音だった。


 見たら、足元に粉々の陶器と、花が数本――花瓶だ。足元が冷たいのは、裾が濡れているからか。

 見上げると、さっき通ったときには閉まっていたはずの二階の窓が、一つだけ開いている。連子窓のはずなのに、等間隔にはめ込まれているはずの板が見えない。そして、廊下に花瓶なんて置かれていなかった。


「真仁、大丈夫か!」

 驚いて硬直する体が、横から引き寄せられた。許宇様の端正な顔がまつ毛の先にあって、違う驚きでまたしても硬直する。それでもどうにか頷いて見せると、彼は大きく息を吐いた。

 そして言った。「また、おまえに助けられた」と。


 俺がよろめいて許宇様の袖をつかんだことで、二人の足が止まる形になった。そこへ花瓶は落ちてきたのだ。足が止まらなければ、頭に直撃間違いなしだった。

 そこで教えられた。先日、壱岐くんが馬に蹴られたのは、許宇様を突き飛ばして庇ったからなのだと。


 壱岐くんカッコいい……そのうえ運動神経もいいんだ。

 なおのこと彼が今置かれているだろう状況を考えると気の毒だし、申し訳ない。

 一刻も早く、入れ替わらないと。


 「やはり偶然じゃない。私は狙われている」そう許宇様は言ったけれども。


 違う。

 狙われているとしたらきっと――。


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