1話:森川さんは、変な人。
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消しゴムを落としてしまった男子は隣の女子に拾ってもらうことが多々ある。
そこで、ある一定の男子はその女子を意識してしまうことがあると聞く。
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ポトッ。
授業中の教室に小さな音が微かに響いた。
俺は何気なく机の下へ視線を落とすと、そこにはい消しゴムがひとつ転がっていた。
誰のだろう。
そう思って顔を上げると、隣の席に座る森川さんが、自分の机の上を不思議そうに見回していた。
「あれ……」
小さく呟く声。
どうやら何かを探しているらしい。
俺は落ちている消しゴムと、森川さんの机を交互に見る。
もしかして。
「えっと……、森川さん」
声をかけると、彼女がこちらを向いた。
「これ、落ちたよ」
拾った消しゴムを差し出す。
「……えっ」
森川さんの目が少しだけ大きく開いた。
「ありがとう……」
「うん」
俺はそれだけ答えて、すぐに黒板へ視線を戻した。
本当に、それだけだった。
俺にとっては。
だけど、隣に座る森川さんは、手の中に戻ってきた消しゴムをじっと見つめていた。
たった数秒前まで、ただの文房具だったものを。
偶然、ただの偶然。
でも、森川さんにはそう思えなかった。
林くん……、これって……。
彼女のそんな小さな勘違いから、すべては始まった。
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林、それが俺の名前。
現在高校二年生。
成績は中の上、運動神経はあまり良くない。特に球技が苦手だ。
とにかく、ごくごく普通の男子高校生。
春。
窓から差し込む柔らかな日差しが、教室の床を明るく照らしている。
暖かくなり始めた季節のせいか、授業前の教室にはどこか眠そうな空気が流れていた。
俺は自分の席で頬杖をつきながら、ぼんやりと黒板を眺めていた。
隣の席から、弾んだ声が聞こえる。
楽しそうに友達と笑う一人の女子。
高校生という生き物は、なぜか各学年に一人くらい「天使」と呼ばれる存在がいるらしい。
そして、俺の学年にも例外なく――いや、例外と言っていいほどの女子がいる。
森川さん。
学年でも一、二を争う美少女。
明るくて、誰にでも優しくて、成績も優秀。
当然のように男子からの人気は高い。
さらには、他校にイケメンの彼氏がいるなんて噂まで流れているが真偽は知らない。
ただ一つ分かっていることは、彼女に気軽に話しかける男子はほとんどいないということだ。俺もその中の一人。
別に森川さんと話したくないわけじゃないが、あまりにも住む世界が違いすぎる。
……というより、俺の場合は話しかけようにも物理的に難しい。
なぜなら……森川さんは俺の隣の席だからだ。
しかも運の悪いことに、森川さんのもう片方の隣と前後の席は女子。つまり、俺だけが男子。
変に話しかければ、周囲から余計な誤解を受ける可能性がある。
だから俺は決めた。
存在感を消そう、と。
その努力の甲斐あってか、今のところ俺と森川さんが言葉を交わしたことは、一度もない。
「林! 飯食おうぜ!」
「おう、いつものとこな」
「はいよ!」
昼休みのチャイムが鳴るなり、俺のもう片方の隣から騒がしい声が飛んできた。
田宮。
ツンツン頭が特徴の、元気だけで人生を乗り切ろうとしている男だ。
俺は弁当を持って立ち上がると、案の定俺の席の周辺に女子たちが集まり始めた。
別に俺が人気者だからではない。
そんな悲しい勘違いをするほど人生経験は浅くない。
原因はただ一人。
森川さんだ。
クラスの中心。
いや、学年の中心と言ってもいい。
森川さんが笑えば周りも笑うし、森川さんが話せば自然と人が集まるそんな存在だ。
だから昼休みになると女子たちは当然のように森川さんの周りへ集まり、その余波で隣の俺は席を追い出される。
まあ別に困ってはいない。もう慣れた。
少しだけ悲しいけど。
「ほら行くぞ」
「へいへい」
田宮と一緒にベランダへ出る。
六月の風は思ったより心地よく、教室の熱気をすぐに吹き飛ばしてくれた。
「いやー、晴れててよかった!」
田宮が手すりにもたれながら空を見上げる。
「昨日なんて最悪だったからな。弁当に雨がダイブしてきたんだぜ」
「無料スープじゃん」
「いらねえよ」
即答だった。
田宮はケラケラ笑いながら唐揚げを頬張る。こいつは本当にうまそうに食う。
見てるだけで腹が減るレベルだ。
「午後は数学かぁ……」
「だな」
「俺、数学だけはマジで無理なんだよ」
「"だけは"?」
「……」
「"も"だろ」
「うるせぇ!」
いつもの流れだった。
もはや挨拶みたいなものである。
「つーかさ」
田宮が箸を止める。
「森川の隣がお前でよかったよな」
「なんだそれ」
「だって他の男子だったら絶対やばいって」
「何が」
「ジロジロ見るわ、話しかける理由探すわ、落とした消しゴムをさりげなく懐に入れるわ」
「最後は犯罪だろ」
田宮はゲラゲラ笑った。
否定はしないらしい。
「でもお前はそういうのないもんな」
「まあな」
森川さんは可愛い。それは認める。
認めない男子を探す方が難しい。
ただ、可愛いから好きになるかと言われれば話は別だ。芸能人を見て可愛いと思うのと大差ない。
住む世界が違うという、それだけの話。
「可愛いとは思うけどな」
「おっ」
田宮がニヤつく。
「なんだよ」
「いや? 林の口からそういう言葉が出るとは思わなくてさ」
「普通に可愛いだろ」
「それもそうか」
妙に納得したように頷く。
その顔はなんだ。
キーンコーンカーンコーン――。
昼休み終了のチャイムが鳴る。
「やべっ」
「戻るぞ」
弁当箱を片付け、俺たちは教室へ戻った。
好きな人、か。
田宮にはいるらしいが、俺にはよく分からない。
少なくとも今のところ、そんな相手はいない。
教室へ入ると、森川さんが友達に囲まれながら楽しそうに笑っていた。
やっぱり目立つな。
ただ、それだけだ。
本当に、それだけ。
――この時の俺は、そう思っていた。
ガラガラと扉が開き、数学担当のおじいちゃん先生が教壇へ立つ。
授業開始から十分後。
グーグーグー。
田宮は早くも夢の世界へ旅立っていた。
……あーあ。これ絶対当てられるな。
ポトッ。
机の横で小さな音がした。
何気なく視線を落とすと、白い消しゴムが床を転がっていた。
誰のだろう。
そう思って顔を上げると、隣の席の森川さんが机の上をきょろきょろと見回していた。
ペンケースを開けてみたり、ノートの下を覗いてみたり。どうやら何かを探しているらしい。
……あ。
俺は足元の消しゴムを見て森川さんを見る。もう一度消しゴムを見る。
たぶんこれだ。
「……森川さん」
恐る恐る小さな声で呼ぶと森川さんがこちらを向いた。
「あ……」
一瞬だけ目が合う。
近いな。
当たり前だけど隣の席だ。
「これ、落ちたよ」
消しゴムを拾って差し出すと森川さんはなぜか固まり、ぱちぱちと瞬きを繰り返している。
「……えっ」
「たぶん森川さんの」
「あ、ありがとう……」
「うん」
俺はそれだけ答えて黒板へ視線を戻した。
ちらりと横目で見ると、森川さんは手のひらの上の消しゴムをじっと見つめていた。
まるで宝石でも拾ったみたいに。
……変なの。
それから数十分後。
キーンコーンカーンコーン――。
終業のチャイムが鳴り、俺は教科書を鞄へしまい始める。
その時だった。
「あ、あの……」
小さすぎるその声は聞き間違いかと思った。
「林くん」
今度ははっきり聞こえ、顔を上げる。
森川さんは前を向いたまま耳まで真っ赤だった。
え、何? 俺なんかした?
「ね、ねえ……林くん」
声が震えている。怒ってる?
いや違うな。じゃあ何だ。
消しゴムか?拾い方がまずかった?勝手に触ったのが駄目だった?
考えても分からない。
すると森川さんは意を決したように立ち上がった。
そして――。
「わ、私っ!」
教室中の視線が集まる中、森川さんは顔を真っ赤にして、
「か、彼氏いるんだからねっ!」
そう言い残し、逃げるように教室を飛び出していった。
…………、………………、…………え?
教室に沈黙が落ちる。
数秒後。
「えっ?」
思わず声が出た。
その日、俺は一つ学んだ。
森川さんは可愛い。
そして、たぶん……。
少し変な人だ。




