第十五章 幸福な未来へ
あれから、二年が経った。
王都の図書館で、クロヴィス卿とドルトが三週間かけて見つけた術式は、古い東方の写本の隅に、小さな注釈として残されていた。
聖女の力を媒介としながら、消費源を生命力ではなく大地の魔力に転換する方法。
誰も試みたことのない、理論だけが残された術式だった。
それを実用化するまでに、さらに半年かかった。
クロヴィス卿が術式を解読し、ドルトが検証し、私が少しずつ試した。
失敗もあった。
うまくいかない日が続いて、投げ出したくなる夜もあった。
でも、アルヴェインが毎晩、書類仕事をする私の隣に座っていた。
それだけで、続けられた。
術式が完成した日、初めて王都の結界を再構築した。
体が削れる感覚はなかった。
大地から引き出した力が、私を経由して広がっていく。
その感覚は、今まで感じていたものとはまるで違った。
消えていくのではなく、流れている感じ。
川が海へ注ぐような、自然な流れだった。
クロヴィス卿が、眼を真っ赤にして泣いていた。
ドルトも、眼鏡を外して顔を覆っていた。
二人の老学者が泣いている姿が可笑しくて、私も泣いた。
今は、辺境に戻っている。
春の朝、薬草園に出ると、土の匂いがする。
ローズマリー、タイム、カモミール。
以前よりずっと広くなった薬草園には、村の子供たちが手伝いに来る日もある。
「リリアーナ様、この葉っぱは何ですか」
ティカが聞く。
もう七歳になった彼女は、すっかり薬草師の助手気分だ。
「それはレモンバーム。乾燥させてお茶にすると、気持ちが落ち着くのよ」
「じゃあ私、摘んでおく。辺境伯様にあげる」
「どうして」
「最近難しい顔ばっかりしてるから」
子供はよく見ている、と思いながら笑った。
辺境は変わった。
二年前、荒れていた土地は今や緑に覆われている。
呪われた土地と呼ばれていた場所には、今年から小麦が植えられた。
ギーさんが誇らしそうに世話をしている。
魔物の出現頻度は下がり、村に子供の笑い声が増えた。
新しい家族が増えた家も、いくつかある。
北からの旅人が、最近は増えた。
辺境が豊かになったという噂が、じわじわと広まっているらしい。
宿屋のバルトさんが嬉しそうに忙しくしている。
王都も、少しずつ回復していた。
クロヴィス卿の書によれば、結界が安定してから半年で、魔道具の不具合がほぼ解消されたという。
作物の育ちも戻り、市民の体調不良も収まった。
新しい王太子のもと、宮廷は静かに立て直しを進めている。
レオルド殿下は今、王都から離れた小さな領地で暮らしているらしい。
詳しくは聞いていない。
聞く必要も、もうなかった。
セシリアについても、ひとつ耳に入った。
国外追放の沙汰が出たが、実家に引き取られ今は静かにしているという。
何が正しい落としどころなのかはわからないが、誰かをこれ以上傷つけないでほしいと、ただそれだけ思った。
結婚の話が出たのは、去年の秋のことだ。
あの日は雨だった。
集会所の窓から雨粒が落ちるのを見ながら、いつものように書類を整理していた。
アルヴェインが、ふと手を止めた。
「一つ、聞いていいか」
「はい」
「ここにいると言った。ずっと、ここに」
「言いました」
「なら、俺の傍にいてくれるか。正式に」
雨の音がしていた。
静かで、穏やかな音だ。
私はしばらく、雨を見ていた。
「正式に、というのは」
「妻として」
一言だった。
飾りも、詩的な言葉も、ない。
ただまっすぐな、この人らしい言葉だった。
「……はい」
答えた後、少し間があった。
「それだけですか」
アルヴェインが、眉を動かした。
「何が足りない」
「もう少し、その、言葉が」
「……好きだ」
雨音が続いていた。
彼の耳が、少し赤かった。
その顔が可笑しくて、愛しくて、私は笑いながら泣いた。
「私も、好きです」
アルヴェインが、そっと私の手を取った。
傷跡のある、大きな手だ。
温かかった。
式は、冬の初めに行った。
盛大なものではなかった。
村人たちと、砦の兵士たちと、ドルトと、クロヴィス卿が馬を飛ばして来てくれた。
父も、王都から来てくれた。
式の間中、父は何も言わなかったが、その目が赤かった。
マリアは式の準備を全部仕切って、当日は一番泣いていた。
今朝、目が覚めると、隣にアルヴェインがいた。
まだ夜明け前で、外は薄暗い。
彼はもう目を開けていて、天井を見ていた。
気配に気づいて、こちらを向いた。
「早い」
「お前こそ」
「あなたが早いから、つられました」
「理由にならない」
口の端が、少し動いた。
二年経って、この人の笑い方が少しわかってきた。
目の端が緩んで、口の端がほんの少し上がる。
それがアルヴェインの笑顔だ。
「今日は何をするんだ」
「午前中は薬草の蒸留を。午後はティカたちに薬草の見分け方を教えようと思って。夕方はギーさんの畑を見に行きます」
「忙しいな」
「あなたも、どうぞ」
「砦がある」
「夕方だけでも」
少しの間があった。
「……考える」
それが彼なりの返事だと、今はわかる。
夕方には、きっとギーさんの畑に来るだろう。
言葉は少ないが、行動は嘘をつかない。
朝の支度をして、外へ出た。
辺境の朝は清々しい。
空気が澄んでいて、肺の奥まで届く。
遠くの山脈が、朝陽を受けて淡く輝いていた。
ティカが駆けてきた。
「リリアーナ様、おはようございます! 今日、薬草教えてもらえますか」
「もちろん。朝ごはんを食べたら、薬草園においで」
ティカが嬉しそうに走り去る。
その後ろ姿を見ながら、ふと思った。
かつて、私は役立たずと言われた。
地味で、暗く、誰かの隣に立つ資格もないと言われた。
人前で断罪されて、故郷へ帰された。
そのとき、これから何が残るのか、何もわからなかった。
でも今、ここにある。
薬草の香りがする朝。
走り回る子供たち。
土の色が変わっていく畑。
毎晩隣で書類を読む、無骨で誠実な夫。
役立たずと言われた少女は、今この場所で、皆に名前を呼ばれている。
リリアーナと、ただそれだけで呼ばれている。
それが今は、何よりも嬉しかった。
朝陽が昇る。
辺境の空が、どこまでも広く青い。
山の向こうから、風が来る。
私は深く息を吸って、薬草園へ向かった。
土が待っている。
子供たちが待っている。
夕方には、きっと彼も来る。
今日も、ここで生きていく。
明日も、明後日も。
この土地で、この人たちと、ずっと。
それだけで、十分だった。
それだけが、全てだった。
終幕




