第百五十八話:君だけの好きなもの、楽しいもの
フィリップ─否、彼に成り代わったアールは、それから一年を本格的な政治の勉強に費やした。
表向き、フィリップは病で伏せっていることになっていたから、外で剣術や馬術の訓練はできなかった。
ただその分、ひたすら座学に打ち込んだ。
フィリップに成り代わるのは、難しくなかった。
誰よりもフィリップのそばにいて、彼を見てきたのはアールなのだ。
フィリップが慕っていた侍女頭シーアが退職し、その上で公爵はフィリップを知る使用人を徹底的に遠ざけ、第二王子の世話係は新しい使用人に命じた。
ここまでしたのだから、バレることは無いはずだ。
入れ替わりをした際に少し困ったことがあった。
フィリップの日記が見つからなかったのだ。
彼に成り代わるのなら、日記の中身は完璧に把握しておきたかった。
けれども、どんなに探しても見つからない。おそらく死を覚悟したフィリップが、こっそり処分したのだろう。
(それでも、僕はあのページだけは覚えてる)
拙い絵で描かれた理想の王子様。
あれがフィリップの望んだ姿なら、可能な限り再現してみせようじゃないか。
剣も座学も全てが優秀で、誰にでも優しくて温和で、女性の扱いもお手の物の、物語に出てくるような完璧な王子様に。
ただ唯一魔術だけは、アズノール公爵に学ぶことを禁じられていた。
フィリップとアールでは得意属性が違かったから、正体がバレる可能性が高いのだ。
それでもアールは公爵に隠れて、こっそり魔術の勉強をした。
だって、フィリップの望んだ王子様は、魔術だって使いこなせなくてはいけないのだ。
(なにより魔術を学べば、上位精霊と契約ができるかもしれない)
アールはフィリップが最期に遺したネックレスのブルーサファイアを、隠し蓋のついた腕時計の中に移し、肌身離さず身につけている。
ネックレスのままだと、公爵に見咎められるかもしれないから、念のために見られることの少ない腕時計の中に移したのだ。
そうして、たまに懐中時計のアクアマリンを眺めては、フェリクスの目によく似た水色に思いを馳せた。
(いつかきっと、上位精霊と契約してみせる)
だって、フィリップはそれをずっと望んでいたのだ。自分が母と同じことをできれば、と。
ならば、フィリップが望んだことは全て自分が叶えよう……そんな思いで、アールは魔術の勉強に打ち込んだ。
なにより、魔術を身につけておけば、いずれ公爵を敵に回した時、強力な武器となる。
アールはこのまま公爵の傀儡で終わるなど考えていなかった。
王になるまでは大人しく公爵の傀儡になり、その権力を利用すればいい。
そうして、王位が確実なものとなったなら……その時は、フィリップとアールの人生を弄んだあの男には消えてもらう。
* * *
アールが第二王子として社交界デビューを果たし、三年が経った。アールは十四歳になっていたが、フィリップとしての表向きの年齢は十二歳。
アールはセレスティナの中等科に入学することが決まった。
セレスティナは公爵の傘下でこそあるものの、全寮制である。公爵の監視の目も緩む。
学園に入学したアールは学業や人脈作りの合間に、魔術の勉強に打ち込んだ。
いくら優秀な彼でも、高等で専門的な魔術というものは、全てを学ぶにはどうしても限界がある。だから、精霊召喚の分野にだけ絞って勉強をした。
魔術について学ぶことは大変ではあったが、己の性分に合っていたらしく、苦ではなかった。
そうしてひたすらにアールは勉強を続け……そして、遂に精霊との契約の儀式に成功した。
アアールが呼び出したのは、亡きレイン妃のブルーサファイアに眠る水の上位精霊ウェンラポート。
呼び出した精霊は、限りなく人に近い姿をしていたが、人外を表す青の目は暗く陰っていた。
外見年齢は二十代半ばぐらいだろうか。アールを見下ろす青い瞳は、幼い頃のフィリップを思わせた。
「精霊ウェンラポート。
僕の願いのために、君の力を貸しておくれ。この願いは、かつてレイン妃に仕えた君が叶えるに相応しい願いのはずだ」
精霊石に眠る精霊は、石の中から人の世界をぼんやりと覗き見ることができると言う。
ならば、この精霊はレイン妃が亡くなってから今日に至るまで、何が起こったかを概ね理解しているはず。
「貴方様の、願いは」
アールは淡い笑みを唇に乗せて答えた。彼の、実に罪深いたった一つの願いを。
「夜空に輝かせたい星があるんだ」
英雄バルスが星となって名を残したように、アールはフィリップ・アルト・レティーラの名を残したい。
だって、それが生前のフィリップの願いだったから。
そう語るアールに、ウェンラポートは淡い水色の目を向ける。
ウェンラポートは無表情だった。元より精霊は感情の起伏に乏しいのだ。
それなのに何故だろう。アールには彼が悲しそうに見えた。
「……それがフィリップ殿下の、願いなのですか?」
「あぁ、生前の彼がそう言っていた」
「それだけ、ですか?」
ウェンラポートの言葉に、アールは眉をひそめる。無言で続きを促せば、ウェンラポートはやはり悲しげな顔で言う。
「フィリップ殿下が、他に望まれたことがあるのではありませんか?」
ウェンラポートは遠回しに何かを伝えたそうにしている。
それに、アールの昔の記憶が思い起こされた。
それは、フィリップと最後に星を見た夜、彼に言われた言葉だ。
『私は、他の誰のためでもなく、君自身のために、夢中になれるものを見つけてほしい。君だけの好きなものを、楽しいものを、いっぱい見つけてほしいんだ』
それは、フィリップが意図的に思い出さないようにしていたものだ。だって、自分の好きなものなんかを追い求めたら、完璧な王子様になれないじゃないか。
目の前の精霊に対し、アールはほんの少しだけ苛立ちを募らせる。
その苛立ちが伝わったのか、ウェンラポートはそっと目を伏せた。
「かつてわたくしの主人だったレイン様は、こう仰いました。
『お腹の子には、たとえ王族という立場に縛られても、個の幸せを追求することを忘れて欲しくない』……と」
だが、レイン妃はフィリップを産んですぐに亡くなり、その孫は祖父に疎まれ、個の幸福を追求することなど叶わなかった。
あんなに星が好きだったのに、天文学の本を取り上げられて、くだらぬことにうつつを抜かすなと叱られて。
フィリップは、どんな気持ちでアールにあの言葉を告げたのだろう。アールだけの好きなものを、楽しいものを見つけてほしいだなんて。
黙り込むアールに、ウェンラポートは告げる。
「どうか、亡きフィリップ様の最後の願いを……どうか、無下になさらないでください」
この精霊の言うことも一理あるかもしれない、とアールは思った。
──だって、アークの願いを叶えられるのは、もうアールしかいないのだから。
「困ったな。これでも王族の嗜みである娯楽は、一通り経験しているんだ」
オーケストラ鑑賞も狩りも彼にとっては、社交界の交流の一環だ。決して好んで参加しているわけではない。
アールが楽しめる娯楽として考えるには、そういった社交界の場は不適当な気がした。
(僕が夢中になれるもの、僕が楽しいと思えるものか……)
フィリップに成り変わった時から、アール・クラナータという少年は死んだのだ。
今の偽物王子も、すっかり磨耗して、歪んで、おかしくなっていた。
フィリップの理想を追いかけすぎて、アールがしたいものが思いつかないのだ。
「……そうだな、それじゃあ試しにちょっと夜遊びでもしてみようかな。
ウェンラポート、君は水の精霊だから、幻術の類は得意だろう?」
「はい」
「私が寮を抜け出す手伝いをしておくれ。できるかい?」
アイザックの言葉に、ウェンラポートは「はい」と頷いた。
すると、その姿が水に溶けたかのように滲み、色を変える。やがて彼が輪郭を取り戻すと、その姿はフィリップとそっくり同じになっていた。これが精霊の使う幻術のようだ。
「我が主人の仰せのままに」
いずれ自分が国王になったら、自分の楽しみを追求する時間なんて無くなるだろう。
だったら今だけ。国王になるまでの僅かな時間を、アール・クラナータの余生にすればいい。




