第百五十七話:十年前の悲劇
寝台に横たわるフィリップは、まるで眠っているかのようであって………しかし、彼がその目を開けることは、アールに笑いかけることは、もう二度と無い。
室内にいるのは、フィリップの亡骸を検分するブレンド医師と、それを見守るアズノール公爵、そしてアール。
アールの空虚な心と同じように静かすぎる室内には、ブレンド医師の衣擦れの音が微かに聞こえた。
やがて、ブレンドはフィリップの体に清潔な布をかけると、公爵に向き直った。
「フィリップ・アルト・レティーラ殿下の死を、確認いたしマシタ」
孫の死を告げられてもなお、公爵は揺るがない。
孫の亡骸を見る冷たい無表情には、悲しみはおろか、哀れみや同情すら浮かんでいなかった。
「邸内の者には、フィリップは一命を取り留めたと告げよ。
ただし、第二王子が屋根から落ちたなどという醜聞を外に晒す訳にはいかぬ。口外を禁じた上で、外部にはフィリップは大病を患ったことにせよ」
「ハイ、かしこまりマシタ」
こんな時ですら、公爵は外聞ばかりを気にしている。そのことにアールが静かに憤っていると、公爵は低い声で忌々しげに呟いた。
「最後まで愚かしいことだ……自ら死を選ぶなど」
その一言に、アールの臓腑は凍りつく。
アールが影武者になることを知ったフィリップは、どれだけ絶望しただろう。
どれだけ己の無力さを呪っただろう。
お前など、もう必要ないと公爵から見放されて、どれだけ辛かっただろう。
そんな絶望を抱えながら、フィリップはアールを逃そうとしたのだ。屋根から飛び降りて、自らの命と引き換えに。
アールがいたから、フィリップは己が不要になったことを知り、絶望した。
そうして深い絶望に包まれながら、それでもアールを逃すために、自ら死を選んだ。
(僕のせいだ)
あんなに守りたかったのに、他でもないアールの存在がフィリップを死に追いやった。
アールがいなければ、フィリップはきっと死なずに済んだ。
(僕のせいで、アークが、死んだ)
その事実が、絶望が、アールの胸を穿つ。そうしてできた胸の穴から、フィリップと出会い積み上げてきた優しい記憶がサラサラと流れ落ちていくかのようだった。
虚ろな目でフィリップを見つめるアールに、公爵は告げる。
「計画に変更はない。今日からお前がフィリップ・アルト・レティーラだ」
あぁ、これを回避するために、フィリップは自らの命を投げ出したというのに。
誰よりも優しい王子様は、アールの自由を願ってくれていたというのに。
それなのにどうして自分はここにいる?
フィリップの遺志を踏みにじって。
(……逃げる? 逃げて、自由になって、それで?)
ここでアールがいなくなれば、公爵はフィリップの死を世間に公表するしかなくない。
そうして、フィリップの死は人々に受け入れられ…………やがて、忘れられるのだ。
アールの耳の奥に、幼いフィリップの声が蘇る。
『きっと、わたしは大人になる前に死んで……みんなに忘れられてしまうんだ。
弱くてみっともない第二王子なんて、まるで最初っからいなかったみたいに、忘れられるに決まってる……』
(僕が覚えているだけじゃ、きっとダメなんだ)
『……わたしが死んだら、お星様になれたらいいのに……初代国王のバルスみたいに。星座になったら、みんなに、わたしのことを覚えていてもらえる』
(だったら、僕がフィリップになればいい。
そうして、この名を歴史に刻むんだ。誰からも忘れられないように)
アールの目の奥に、暗い輝きが宿る。
それは十歳の少年が抱くにしてはあまりにも暗い、狂気と妄執の灯火だ。
大切な主を失った人形は、閉ざしていた唇をゆっくりと開いた。
「……処置を、お願いできますか?」
アールの言葉に、ブレンドは「えぇ、勿論」と頷く。
こうして、アール・クラナータは己の顔を捨てた。
フィリップ・アルト・レティーラの名を歴史に残す、ただそれだけのために。
幼くして死んだ優しい王子様を、英雄ラルフと同じぐらい、みんなに覚えていてもらうために。
* * *
ブレンドの施した処理は、驚くほど短時間で終わった。せいぜいが一時間ほどである。
「包帯を外していいデスよ」
言われた通りに、アールは己の顔を覆う包帯を剥がす。その様子をブレンドと公爵がじっと眺めていた。
包帯を剥いだ顔に、ひんやりと冷たい夜の空気が触れる。
ただ、それだけでは肉体改造魔術が成功したか否かは分からない。
困惑するアールに、ブレンドが手鏡を差し出した。
無言で鏡を見つめたアールは、咄嗟に口走りそうになった。アルト、と。
鏡の中からこちらを見つめ返しているのは、紛うことなくフィリップだ。
「元々骨格が似ていたので、それほど苦労はしませんでしたネ。背中の傷痕を消す方が、よっぽど大変でしたヨ」
アールが己のシャツの中に手を突っ込み背中に触れてみても、傷跡特有のボコボコした感覚はなく、滑なかに皮膚の上を滑る。ブレンドの言う通り、背中の傷はすっかり消えていた。
右目の上にあった傷も、目を凝らして見てもとても傷痕があったようには思えない。
今のアールに残っている傷は、フィリップの脇腹の傷を模した傷痕だけだ。
「ただ、体格差だけはどうにもなりませんノデ、一年ぐらいは外部の人間に会わないほうが良いでショウ」
「大病で伏せっていることにする。世話役は新しい人間を雇おう」
これから一年、フィリップ・アルト・レティーラは大きな病を患い、寝たきりということになる。一年もあれば、多少の体格差も成長期特有のもので誤魔化すことだろう。
アールは立ち上がろうとし、軽い目眩を覚えた。それと吐き気も。最初は己の顔が作り替えられたことに対する、生理的な嫌悪感によるものかと思ったが、どうやら違うらしい。
「肉体改造魔術の副作用の、魔力中毒ですヨ。本来なら起き上がるのも辛い筈なのデスが……どうやら貴方は魔力量が多いラシイ」
肉体改造魔術は人体に直接魔力を流し込み、肉体に影響を与えるものだ。
魔力は一定量を超えると人間にとって害になる。だからこそ、肉体操作魔術は禁じられている。
……そんな禁術を使って顔を作り替え、アールは第二王子を騙るのだ。
公になれば、首を刎ねられるだけでは済まされないだろう。
それほどの重罪を、これから自分は背負うのだ。
(……構うものか)
完璧なフィリップを演じ、人々を欺いてみせる。
そうしてこの名を歴史に残すためなら、自分は何だって犠牲にできる。
暗い決意を胸に抱くアールに、公爵が静かに釘をさした。
「フィリップを名乗るなら、魔術は使わぬことだな。得意属性の不一致から、入れ替わりに気づく者がいるやもしれぬ」
「それは残念デスね。折角の才能なのに」
「周囲に才覚を示すなら、魔術以外にせよ」
公爵が「フィリップ」に求めているのは、完璧な王子としての振る舞いだ。
ならば、まずは外交、そして社交界の掌握。
第一王子は外交下手と聞く。
まずは国内貴族を味方につけ、着実に外交で成果を上げていき、第一王女に近づいていく。
それこそが、王位に近づくための最善策。
そのための手段をアールが模索していると、公爵が窓の外を見て「さて」と呟いた。
「最後の仕上げをするか」
「……仕上げ、とは?」
「知れたこと」
そう言って公爵は、離れた寝台に寝かされたフィリップの遺体に目を向ける。
「アール・クラナータを殺すのだ」
* * *
公爵邸の庭園の奥には、庭師が物置に使っている小さな小屋がある。
深夜、アールとブレンドは二人がかりでフィリップの遺体を小屋に運び込むと、小屋の中に油を撒いた。
この小屋を燃やし、アールがこの火事に巻き込まれて死んだことにする。
それが、入れ替わり計画の仕上げ。
埃と黴のにおいがする、この薄汚い小屋がフィリップの棺桶になるなんて、誰が想像できただろう。
本来、火葬は流行病で死んだ者や、一部の罪人に施す処置。
王族の人間なら当然に美しい棺に入れられて、沢山の花と祈りの言葉とともに王族専用の墓所に埋葬されるはずなのに…
(違う、違う、違う、ここで死ぬのは、アルトじゃない。アール・クラナータだ)
何度自分にそう言い聞かせても、フィリップの亡骸を見れば、罪悪感に息が詰まった。
自分は今、途方もなく恐ろしいことに手を染めようとしている。
これは必要なことなのだと何回言い聞かせても、手の震えが止まらない。
油のそばに燃えやすい物を動かした。あとは火をつけるだけだ。
アールが震える手でマッチを取り出すと、これまでの成り行きを黙って見ていた公爵がボソリと言う。
「これで、仕上げだ」
パン、という発砲音に遅れて、はひ、というブレンドの抜けた声が、口から鮮血と共にこぼれ落ちた。
カラン、と音がして眼鏡が床に落ち、その上にブレンドが崩れ落ちるように倒れ込む。その細い背中の中心には、1つの小さな穴─銃痕があった。
躊躇なくブレンドを撃ち殺した公爵は、無表情に言い放つ。
「これで、真実を知る者は私とお前だけだ」
口封じのために殺されたブレンドを見て、アールが思ったのは、ただ一言。
(あぁ、やっぱり)
この先、アールがヘマをして、公爵にとって不要な存在となったら、公爵はきっと同じようにアールを処分する。
これは、そのための見せしめだ。
だが、残酷な公爵に恐怖を感じるには、アールの心はあまりにも麻痺しすぎていた。
(……ただ、一つ罪が増えただけだ)
胸の内で冷ややかに呟き、アールはマッチを擦る。
小さな棒の先端でユラユラと揺れるオレンジ色の火を油の端にポトリと落とせば、たちまち火は大きく膨れ上がった。
床を舐めるように広がる炎が、二つの遺体を包み込む。
「行くぞ」
「……はい」
アールは炎に包まれていくフィリップの顔を目に焼きつけ、小屋を後にする。
やがて、激しく燃え上がる炎は物置小屋を……フィリップ・アルト・レティーラが眠る棺を焼き尽くした。
この夜は、たった一人の少年が負うには、あまりに重く、耐えられない夜だった。
ただ、どれだけ同情を誘う出来事だろうと……主を失った従者が行き着く先は、いつも同じ。
その日から、アールの結末は決まったのだ。




