現在 1ー(2)
「今も聴いてるよ。三人で作った曲。毎日、必ず聴いてる」
ぼくはそう言うと、椅子から立ち上がり、さきほどの写真を手に取った。
アクリルのフォトフレームに収められているそれは、三人の人物が写っている。
ぼくと彼女と親友の大峰海斗の三人。写真を撮ってくれたのは菅本さんだ。
三人とも、それぞれが違う表情をしている。
海斗が彼女の肩に腕を回して、それに照れた彼女はほんのり頬を赤くしている。
僕はというと、驚いた様子で目を丸くして、そんな二人を見ていた。
その瞬間が写真に切り取られていた。
ふいに、視界の隅を何かが掠めた。
ぼくはその何かに視線を合わせた。
初めて見る蝶だった。
どこから入ってきたのだろうか。
蝶の放つ輝きは、蝶が持つ生命そのもののようだった。
ぼくは病室の中を優雅に華麗に、ひらりひらりと飛び回る蝶に目を奪われた。
吸いつくように蝶の動きを目で追っていると、蝶は窓際にとまった。
ぼくは窓を少し開けて、蝶を元の自由な世界に放とうとした。
蝶は外の世界に吸い込まれるように自然と羽ばたいていった。
「来てくれたんだね」
背後から、懐かしい声がした。
ぼくは視線を外の世界から彼女に移した。
「うん」
「ありがとう、健。私はまた眠りについてしまう。私を助けて」
「ぼくにできるかな……」
ぼくは視線をさまよわせて言った。
「健なら、きっと」
「どうして、天野さんは、そんなにぼくなんかのことを……」
「信用しているし、信頼してる。健とは、いろんな経験をしたもん」
彼女は薄い微笑みを浮かべて言った。
そんな彼女を見て、ぼくの胸は強く締めつけられた。
「ぼくは天野さんからもらってばかりなのに……両手からこぼれ落ちそうだよ」
「それなら、次は、健がこぼれ落ちそうなものを誰かに渡してあげて」
彼女はそう言うと、目を伏せた。
「ぼくにそんなことはできない……」
「健なら大丈夫。あなたなら、きっとできる」
「わかった。できる限りのことはしてみる」
「ありがとう。健にしかできないことだと思うから。私を夢の世界から連れ戻して。もう、あまり時間が残ってなさそうなの……」
彼女は二年前からは想像できないような、か細い声で言った。
「わかった……」
「ごめんね」
「どうして、天野さんが謝るの?」
「健には迷惑をかけてばかりだから」
「それは、ぼくのセリフだよ」
「変わらないね」
「天野さんこそね」
ぼくがそう言うと、彼女は少しだけ口元を緩めて目を閉じた。
数秒間ほど、そうしていた彼女が、ゆっくりと目を開けた。
その目には、少しだけ、人が生きたいと想う強さのような光が灯っていた。
「私には、何ができる?」
「天野さんには、手を少しだけ借りる」
「手……?」
彼女はそう言うと、横になったまま、両手を自分の胸よりも高い位置に挙げた。
ぼくは露わになった彼女の手首を見て、息が止まりそうになった。
ただでさえ細かった手首が、痛々しいほどに細くなっていたからだ。
「うん……」
「こんな手で、よければいつでもお貸ししますわよ」
彼女はおどけた風に言った。
彼女は先の見えない状況でも、ぼくを気遣ってくれている。
ぼくは、静かに拳を握りしめた。
「ありがとう。じゃあ、左手を借りてもいい?」
「もちろん」
「天野さんの手に、ぼくの手を重ねるんだけど……」
ぼくは自分の手のひらを見てから言った。
ぼくは手汗をかいていた。
そんな手で彼女に触れることに抵抗があったし、何より、彼女に、ぼくの能力を使うことに抵抗があった。
もし、ぼくの力が悪い方に影響して、彼女の身に万が一のことが起こったとしたら。
「もしかして、今さら手を重ねるぐらいのことをためらっているの?」
「まあ、ね」
「あいかわらず、健は奥手なのね。でも、少し安心した。その様子じゃ、悪い虫はついてなさそう」
彼女は柔らかな顔をして言った。
彼女の言葉のひとつひとつが胸に響き渡る。
ぼくは決意した。
「今から、天野さんの夢の中に入らせてもらう」
「それが、健の力なのね」
彼女は表情ひとつ変えずに言った。
「驚かないんだね……それに、いきなりこんなことを言われたら、普通は信じないんじゃない?」
「健は、信じてくれたでしょう? 私と亮が兄妹だってことを」
「でも、それとこれとは……」
「わけが違う?」
「うん……」
「同じよ。私は私が信じたいものを信じる。ただ、それだけのこと」
「わかった。それなら、ぼくはぼくにできることを精一杯してみる」
「うん。お願いします」
「あと、夢の中に入るためには、歌を歌ってもらう必要があるんだ……」
「歌? 私が歌うの?」
「そう、鼻歌でもかまわないから」
「わかった。私からもひとつだけいい?」
「うん」
「亮に会ってきてほしいの。連絡先は里香に聞いて」
「亮に?」
「そう。彼に会えば何か病気について分かるかもしれない」
「わかった。じゃあ、そろそろ、はじめよう」
「無理を言ってごめんね」
彼女はそう言うと、鼻歌を歌い始めた。
ぼくは自分の左手を彼女の右手にそっと重ね、深呼吸をした。力みを抜くために。
ぼくは意識を彼女の鼻歌に集中させる。
少しずつ、意識が輪郭を失っていく。
彼女の歌声は相変わらずだった。
軽く歌っているだけなのに、心の深い部分に直接響いてくる。
ぼくは、いつの間にか、眠りの世界に落ちていた。




