愛執堂に迷い込んだ紬
六月の夜風が吹くけれど
私の周囲だけ
雪が降りそうなほど冷たかった。
「……紬」
青年はもう一度私の名前を呼んだ。
低く静かな声で
とても
優しい声だった。
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なのに凄く怖い
どうして私の名前を知っているの?
頭の中で警鐘が鳴る。
知らない人だ
絶対に知らない
会ったことなんてない。
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それなのに
彼はまるで昔から
私を知っているみたいな目をしていた。
その視線が怖かった。
胸が苦しいけど…
逃げなきゃ
そう思った瞬間…
私は駆け出していた。
「待っ――」
青年が何か言った気がしたけれど
聞こえない。
聞きたくなかった私は
人混みの中へ飛び込み
ただ無我夢中で走った。
信号を渡り
路地へ曲がるが
振り返らないで歩く。
振り返ったら
そこにいる気がした。
銀色の瞳が
ずっと私を見ている気がした。
「はっ……」
息が苦しい
運動不足の社会人には
全力疾走など無理だが…
それでも足を止められなかった。
どれくらい走っただろう…
気付けば見知らぬ路地へ
入り込んでいた。
「ここ……どこ?」
辺りを見回すと
こんな場所知らない…
駅前からそう離れていないはずなのに
街の喧騒が妙に遠かった。
その時
カラン……
どこからか音がした。
風鈴や鈴にも似た
不思議な音だ。
私が顔を上げると
そこには一軒の店があった。
古びた木造の建物に
暖かな灯り
そして
古い看板にはこう書かれていてた…
『愛執堂』
聞いたことのない名前だった。
こんな場所に店なんてあっただろうか?
それでも
何故か安心した。
誰かいる
人がいる
それだけで十分だった。
私は迷わず扉へ向かうと
そして勢いよく開いた。
カラン――
「た、助けてください!」
店内へ飛び込んだ瞬間…
私は思わず叫んでいた。
すると
カップを持った男性が
ゆっくり顔を上げる。
整った顔立ちに
穏やかな微笑みを浮かべた
年齢の分からない不思議な男だった。
「ああ」
男はまるで全て分かっていたように頷く。
「ようこそ愛執堂へ」
その声を聞いた瞬間…
不思議と少しだけ安心した。
だが
次の言葉で私は固まる。
「追いかけられましたか?」
「え?……」
何故知っているのだろう?
私が言葉を失っていると
店主は苦笑した。
「なるほど…」
そして静かに店の入口へ視線を向ける。
「少し遅かったですね…」
カラン――
再び扉のベルが鳴ったのを聞いて
私の背筋が凍り付く。
振り返りたくない
そう思ってるのに
振り返れない。
けれど
聞こえてしまった。
低く静かな声を。
「その子を怖がらせるつもりは
なかったんだが…」
私は恐る恐る振り返る。
そこには
銀色の瞳をした青年が立っていた。
まるで雪の夜のように静かに
逃げ場を失った獣を見つめるような目で
ただ私を見ていた。




