第78話:ジャポニスムの熱狂と「御印」のプレ流行
新世界秩序を定めた条約の締結から、およそ一年が経過した頃。
欧州の王侯貴族たちの間では、信じがたい逆転現象が起きていた。
フランス王国、パリの豪奢なサロン。
着飾った貴族たちが、一つのテーブルの周りに群がり、感嘆のため息を漏らしている。
「おお……何と美しい。これがジパングの『浮世絵』というものか。この鮮やかな藍色と、大胆な構図。我々の肖像画がひどく退屈に見えてくる」
「この絹の手触りを見たまえ! ヴェネツィアの最高級品ですら、これほどの滑らかさはないぞ」
海戦で手痛い敗北を喫し、経済の首根っこを掴まれたにもかかわらず、いや、だからこそ、欧州の特権階級たちは極東の帝国がもたらす圧倒的な「文化と美」に完全に魅了されていた。
日本の活版印刷機によってもたらされた異国の書物、繊細な美意識で作られた茶道具、そして美しい浮世絵の数々。
それらを持つことこそが、今の欧州における「最先端の教養」であり、最高のステータスシンボルとなっていたのだ。
その熱狂の中心で、一人の大貴族が勿体ぶるように、小さな桐箱を取り出した。
「諸君、驚くのはまだ早い。……これは、教皇聖下や一部の王族にしか下賜されなかったという、真の幻の逸品だ」
彼が恭しく箱を開けると、そこには漆黒の闇のように艶やかな蒔絵の小箱が収められていた。
そしてその蓋の中央には、黄金色に輝く十六花弁の紋章――『菊花紋』が燦然と輝いている。
「見よ。これぞジパングの神王、『ミカド』の御印が刻まれた品である! メディチの裏ルートを使い、領地を一つ手放すほどの金貨を積んで、ようやく手に入れたのだ!」
その言葉に、周囲の貴族たちは狂乱したように群がった。
「す、素晴らしい! なんという高貴な輝きだ!」
「頼む、公爵! 私の城と、その小箱を交換してはくれないか!」
室町幕府が誇る工業製品のさらに上に位置する、非売品の最高級ブランド。
天皇の御墨付きという絶対的な「権威」が、欧州の富裕層の承認欲求と所有欲を限界まで刺激し、異常なまでの価格高騰(プレ値)を引き起こしていたのである。
***
欧州で狂乱のプレ値がついてから、数ヶ月後。
世界を巡る幕府の高速通信網(早船と馬車リレー)を経て、その報告は京都・室町第へと届いていた。
広間の中央には、薫子が堺の職人に作らせた巨大な「幕府公式世界海図」が広げられている。
この一年で、幕府が管轄する海域には正式な名が冠されていた。
果てしなく広がる東の大海原を商いの道で繋ぎ、武力による略奪をなくして世界に『天下太平』をもたらすという願いを込めた「太平洋」。そして、巴奈馬地峡を越えたさらに先、南蛮との間に広がる大いなる西の洋である「大西洋」である。
日野富子は、海図に記された真新しい文字を扇子でなぞりながら、メディチ家から届けられた莫大な利益の報告書に目を落とした。
「あはははっ! えげつないくらい儲かっとるやないの」
富子は豪快に笑い声を上げた。
「南蛮の連中、完全にええカモになっとるんやからな。ただの漆塗りの箱に『御印』を入れただけで、金塊の山に化けるんやで? 武力で脅して巻き上げるより、なんぼも楽な商いやわ」
傍らで茶を点てていた薫子は、優雅な所作で富子に茶を差し出しながら頷いた。
「富子様、南蛮の貴族たちは、我らが仕掛けた『権威の価値』に見事に踊らされておじゃりますな。力でねじ伏せられた彼らには、もはやその鬱憤を『支配者の最高級品を所有する』という見栄で満たすしか道が残されていないのでおじゃります」
『完全にちょろいわね、ヨーロッパ貴族。武力でボコボコにされた直後に、その国のグッズを有難がって買い漁るなんて。これぞ究極のソフトパワーにして、究極のブランドビジネスよ』
富子は茶を一服啜り、満足そうに目を細めて海図の右端――日本列島を見た。
「外の海もそうやけど、内側(国内)もすっかり様変わりしたもんやわ。大名連中が外の海で必死にカネ稼ぎしとる間に、留守を預かるあいつらの領地も、すっかり幕府の経済特区に飲み込まれてしもうたからな」
条約締結後の一年間で、日本国内は完全なる「平和な支配」を完了していた。
諸大名たちは戦をするよりも、幕府が構築した「室町ふぁんど」に乗っかり、自領で特産品を作って世界に売ったほうが何百倍も儲かることに完全に気づいてしまったのだ。
今や西は九州の果てから、東は奥州に至るまで、武士たちは刀を置き、血眼になって街道を整備し、領民を高待遇で雇い入れて生産力を競い合っている。
もはや、算盤と利権による天下統一である。
「大内殿も、今はアジアの海で銀の商いを磐石にしておりますが、いずれさらに外を目指すやもしれませぬな。……薫子は、このまま御印の品を小出しにして、南蛮の飢餓感を煽るつもりでおじゃろう?」
「左様でおじゃります。そうすれば、我らは兵を一人も動かさずとも、永遠に彼らの富を吸い上げ続けることができましょうぞ」
秋の心地よい風が、室町第の庭園を吹き抜ける。
武力による略奪の時代を完全に過去のものとし、文化と経済による洗練された支配を完成させた二人の女の顔には、大航海時代の真の勝者としての揺るぎない自信が満ちていた。




