第53話:未知なる海へ〜武将達の意地〜
一四七二年。
本来ならば、京都が戦火に包まれ、泥沼の戦国時代へと突入するはずの年であった。
しかし、この世界線の日本の武将たちは、血で血を洗う権力争いの代わりに、未知なる大洋の荒波と格闘していた。
太平洋。
果てしなく続く、青い砂漠である。
見渡す限り、陸地の影はどこにもない。あるのは、空の青と、どこまでも深く沈み込むような海の群青だけだった。
将軍・足利義政がデザインし、幕府の権威を象徴する『日章二引両旗』をはためかせた巨大なガレオン船団が、東へ東へと進み続けている。
細川勝元や山名宗全ら西国勢と、足利成氏や上杉家といった東国勢が完全に融合した「室町幕府・新大陸探検艦隊」であった。
先頭を進むのは、北方の荒海を知り尽くした関東勢の船団である。彼らが氷の海で培った卓越した操船技術と、薫子が各船に配備した若き航海士たちによる星の角度の計算。それが、この巨大な船団を大洋のど真ん中で真っ直ぐ東へ導いていた。
だが、数ヶ月にも及ぶ航海は、屈強な海の男たちの精神を確実に削り取っていた。
「殿……もう、あかんかもしれませぬ。海ばかりで、神仏の気配すらおまへん。俺たちは、このまま世界の果てから滝のように落ちてしまうんとちゃいますか……」
西国出身の若い水夫が、甲板でへたり込みながら弱音を吐く。
無理もない。沿岸航海しか経験のない者たちにとって、三百六十度を海に囲まれたまま数ヶ月を過ごすというのは、想像を絶する恐怖だった。
だが、細川勝元は豪快に笑い飛ばした。
「馬鹿を申せ!地球が丸いという理を、幕府の秀才たちが計算で証明しておるわ!世界の果てなどない。ひたすら進めば、必ず黄金の大陸にぶつかるはずじゃ!」
勝元の力強い声が、波音にかき消されそうになりながらも甲板に響く。
かつて京の都で覇権を争った猛将の覇気は、海の上でも健在だった。
その時だった。
太平洋の魔性が、ついにその牙を剥いた。
始まりは、不気味なほどの凪だった。
西の水平線に墨汁をこぼしたような黒雲が現れたかと思うと、瞬く間に天頂を覆い尽くした。
急激に気温が下がり、肌を刺すような冷たい突風が甲板を吹き抜ける。
「帆を畳めぇっ!とてつもなくデカい嵐が来るぞ!!」
見張り台からの絶叫が響いた直後、世界は轟音に包まれた。
ドドドドドッ!!
山のようにそびえ立つ高波が、巨大なガレオン船を木の葉のように持ち上げたかと思うと、次の瞬間には奈落の底へと叩き落とす。
横殴りの雨が散弾のように水夫たちの顔を打ち据え、太いマストが悲鳴を上げて大きく軋んだ。
「ひぃぃっ!南無阿弥陀仏!」
「海神様の怒りじゃ!俺たちは海の底へ引きずり込まれるんじゃあ!」
沿岸しか知らない水夫たちは、大自然の圧倒的な暴力の前にパニックに陥り、甲板に這いつくばって頭を抱えた。
自然の猛威の前には、いかなる最新の造船技術も無力に思える。
だが、ここで「いくさ人」としての強烈な胆力が爆発した。
「うろたえるな!!」
嵐の轟音すらも切り裂くような、腹の底から響く大音声だった。
荒れ狂う甲板の中心で、太刀の柄に手をかけ、仁王立ちになっているのは細川勝元である。
彼は全身ずぶ濡れになりながらも、その目には闘技場の獣のような獰猛な光を宿していた。
「京の都で、身内同士で狭苦しい殺し合いをするよりよほどマシじゃ!こんな波風ごときに、我が野望が沈められてたまるか!」
勝元は怯える水夫の胸ぐらを掴み、強引に立ち上がらせた。
「死にたくなければ舵を握れ!命綱をくくりつけろ!関東の先導船を見失うな!波の峰へ真っ直ぐ船首を向けい!」
勝元の怒声が、水夫たちの恐怖を強引に闘争心へと塗り替えていく。
そして、遥か彼方の海面でも、全く同じように激しい闘志が燃え上がっていた。
衝突を避けるため大きく距離をとったもう一隻の西国旗艦でも、猛将の怒声が轟いている。
「歯を食いしばれ!この嵐を越えれば、誰も見たことのない富が待っておるぞ!戦場を生き抜いてきた貴様らが、水しぶきごときで泣き言をほざくか!」
山名宗全である。
猛り狂う暴風雨の中で、数多の船は互いの視界の端の、小さな点に過ぎない。
だが、先導して荒波を切り裂く足利や上杉の東国勢。そして、部下を奮い立たせ陣形を維持する細川や山名の西国勢。
かつて泥沼の戦を繰り広げるはずだった武将たちは、遠く離れた波の彼方で全く同じ阿吽の呼吸を見せ、自然の脅威に立ち向かっていた。
死線を幾度もくぐり抜けてきた本物の武将たち。
その圧倒的な統率力と生命力が、恐怖に凍りついていた水夫たちの心に火をつけた。
「おおおおおっ!!」
水夫たちは雄叫びを上げ、嵐の真っ只中へと飛び出していった。
命綱を握りしめ、複数人がかりで重い舵輪を必死に回し、次々と押し寄せる波の壁を越えていく。
本来であれば内戦で消費されるはずだった、日本の武士たちのすさまじいエネルギーと闘争心。
それが今、強烈な開拓精神へと見事に昇華されていた。
***
三日三晩続いた嵐が去り、太平洋に再び静かな夜明けが訪れた。
ボロボロになりながらも、東国の巧みな先導と西国の気迫が一つに結集した日本の船団は、一隻も沈むことなく波間に浮いていた。
甲板では、疲れ果てた水夫たちが死んだように眠っている。
勝元は船縁に寄りかかり、朝日に照らされる海面を見つめていた。
天候が落ち着いたことで、宗全の乗る旗艦、そして足利軍の先導船がゆっくりと距離を詰めてくる。
かつての宿敵同士は、遠く離れた甲板から互いの無事を確認し合い、戦友のような笑みを交わした。
「それにしても……」
勝元は、甲板の隅で寝転がっている水夫たちを見て、ふと感心したように息を吐いた。
「これだけ陸を見ぬ航海が続けば、柑橘の汁が尽きた途端にあの奇病で死体が山積みになっているはずじゃ。西の汁と、東の鮭と昆布……東西の知恵を合わせた薫子殿の兵站、まこと恐ろしいほどの効果よ」
実務トップの論理と、完璧な事前準備。その成果に改めて舌を巻いた、その時だった。
「り、陸だぁぁぁっ!!」
マストの上の見張り台から、声がひっくり返るほどの絶叫が轟いた。
「陸が見えたぞ!!東の果てに、陸がある!!」
勝元は弾かれたように身を乗り出し、水平線の彼方を凝視した。
朝霞が晴れていく中、海と空の境界線に、うっすらと、しかし確かに連なる黒い影が見えた。
誰も見たことのない、未知の大陸(北米大陸)の輪郭だった。
「は、ははははっ!やりおった!我らはついに、大洋を渡り切ったのじゃ!!」
勝元は狂喜の声を上げ、水夫たちも次々と飛び起きて歓喜の涙を流しながら見知らぬ大地に向かって拝んでいる。
ユーラシア大陸の果てにある島国の武将たちが完全に一つになり、自らの力で太平洋を横断して新大陸へと到達した、歴史的瞬間であった。




