第24話,王妃の誇り
処刑人の家に生まれ、フランス革命前後のムッシュ・ド・パリ(処刑人)であり医師であったシャルル=アンリ・サンソンの物語。
フランス史上一番多くの処刑を執行した彼の数奇な運命を描きます。
フランス革命編です。
1981年の地下室。父さんは、手記のページをめくりながら、ひどく辛そうな顔で言った。
「……人は、悲しみが限界を超えると、心を殺して『機械』になろうとする。感じなければ、痛みもないからだ。」
ランプの炎が揺れた。
「だが歴史は残酷だ。やっと機械になれたアンリ・サンソンに、マリー・アントワネットという女性は、最期の瞬間に『人間』に戻る呪いをかけていったんだよ。」
※※※※※※※※※※
ルイ16世の処刑から九ヶ月。パリは「恐怖政治」の真っ只中にあった。
革命を守るためという名目で、毎日何十人もの「反革命分子」がギロチンへ送られてくる。貴族、聖職者、昨日まで革命を叫んでいた市民。
サンソンの心は、もう限界を超えていた。
敬愛する王を自らの手で殺したあの日、彼は人間としての感情をすべて凍結させた。
(私は、ただの装置だ。斜めの刃を落とすための、精巧な歯車の一つに過ぎない。)
彼は罪人の顔を見ず、声を聞かず、ただ事務的に、流れ作業で首を斬り落とし続けていた。そうでもしなければ、この血の洪水の中で発狂してしまうからだ。
※※※※※※※※※※
そして、1793年10月16日。
一人の特別な囚人が、革命広場へと引き出された。
囚人番号280号。「カペーの未亡人」こと、前王妃マリー・アントワネット。
みすぼらしい荷馬車に乗せられた彼女の姿に、サンソンは息を呑んだ。
かつてヴェルサイユ宮殿で見た、宝石のように輝いていた美貌は見る影もない。過酷な幽閉生活で髪は真っ白になり、粗末な白いドレスを纏ったその体は、驚くほど小さく、やつれて見えた。
「このオーストリアの淫婦め!」
「フランスを食い物にした魔女を殺せ!」
広場を埋め尽くす群衆から、嵐のような罵声と、石や泥が投げつけられる。
だが、彼女は一切動じなかった。背筋を凍りつくほど真っ直ぐに伸ばし、毅然とした態度で前だけを見つめている。その誇り高い姿は、泥にまみれてもなお、間違いなく「フランス王妃」そのものだった。
(……感情を持つな。あれはただの、次の処理対象だ。)
サンソンは自らにそう言い聞かせ、機械のように冷徹に彼女を断頭台へと誘導した。
そして、運命の瞬間が訪れる。
処刑台の急な階段を上ろうとした時、衰弱していた王妃の足がもつれた。
彼女の靴のヒールが、サンソンの足の甲を強く踏みつけてしまったのだ。
「あっ……」
サンソンが思わず声を上げそうになった、その時だった。
マリー・アントワネットは、すぐに振り返り、サンソンの顔を見て、ごく自然にこう言ったのだ。
「ごめんなさいね、ムッシュ。わざとではありませんのよ。」
その声は、あまりにも穏やかで、優雅で、そして何よりも「普通の人間」の響きを持っていた。
まるで舞踏会で少しぶつかってしまった紳士に謝るような、何の気負いもない、ただの礼儀正しい気遣い。
その一言が、サンソンの心臓を貫いた。
パリンッ――と音がして、彼が九ヶ月間かけて必死に作り上げてきた「心の氷壁」が、粉々に砕け散った。
(ああ……なんということだ。)
機械の歯車が狂い、凍りついていた感情が一気に溶け出して、熱い血が全身を駆け巡る。
彼女は、民衆が叫ぶような魔女でも怪物でもなかった。
死を目前にしてもなお、自分を殺そうとする処刑人の足を踏んだことを気遣える、ただ一人の気高く、優しい女性だったのだ。
人間性が、戻ってきてしまった。
それこそが、サンソンにとって最も残酷な「呪い」だった。
機械であれば、何も感じずに刃を落とせただろう。だが、人間である彼は、今からこの誇り高き女性の細い首を、自らの手で切断しなければならないのだ。
「……さあ、急いでちょうだい。」
王妃に促され、サンソンは震える手で彼女をギロチンの板に縛り付けた。
視界が涙で歪む。手が震えてレバーがうまく握れない。
(許してください……許してください、王妃様……!)
心の中で絶叫しながら、サンソンは人間の手で、重いレバーを引いた。
斜めの刃が落ち、王妃の首が転がる。
広場が熱狂的な歓声に包まれる中、サンソンは血の海の中で立ち尽くしていた。
彼は王妃の最期の気遣いによって、「血の通った人間」に戻されてしまった。
それはつまり、これから先も際限なく続く恐怖政治の虐殺を、もはや機械としてではなく、痛みと罪悪感に悶え苦しむ「人間」として背負い続けなければならないという、地獄の宣告でもあった。
よろしければ、ブックマーク/感想/★で応援してもらえると励みになります。




