18話,落ちた王冠と、顔のない獣
処刑人の家に生まれ、フランス革命前後のムッシュ・ド・パリ(処刑人)であり医師であったシャルル=アンリ・サンソンの物語。
フランス史上一番多くの処刑を執行した彼の数奇な運命を描きます。
いよいよ革命編が始まります。
「……この日を境に、アンリ・サンソンは『唯一の処刑人』ではなくなったんだ。」
1981年の地下室。父さんの声は、まるで呪いでも語るかのように低く沈んでいた。
「国家から命を奪う権利を剥ぎ取り、群衆という名の『顔のない獣』が、自ら正義の処刑を娯楽として楽しみ始めた日。フランス革命の、真の幕開けだ。」
※※※※※※※※※※
1789年7月14日。
パリの街は、完全に正気を失っていた。
「王の軍隊が攻めてくる!我々を皆殺しにする気だ!」
その恐怖のデマに突き動かされた何万という市民たちは、自らの命を守るために暴徒と化し、武器を求めて街をうねり歩いていた。
彼らは廃兵院を襲撃して数万丁のマスケット銃を奪い取ると、次に「火薬」と、絶対王政の専制の象徴である「巨大な壁」へとその矛先を向けた。
石造りの巨大な要塞、バスティーユ監獄である。
サンソンは、地響きのような怒号を上げながらバスティーユ監獄へと向かう群衆の波を、建物の陰から息を潜めて見つめていた。
(やめろ……。王は軍隊に発砲を禁じておられる。待てば必ず話し合いの場が持たれるはずだ!)
サンソンの心からの祈りは、しかし、狂乱の渦の中では誰の耳にも届かなかった。
バスティーユ監獄の守備隊長であるド・ローネー侯爵は、群衆との交渉を試みた。無用な流血を避けるため、彼もまた王と同じく、ギリギリまで発砲を躊躇っていたのだ。
だが、極限の緊張状態の中で、何かの手違いか、あるいはパニックによる暴発か――
ついに、一発の銃声が鳴り響いてしまった。
「撃ちやがった! あいつら、俺たちを殺す気だ!」
その一発が、すべての理性を吹き飛ばした。
流血の大乱闘が始まり、大砲まで持ち出した市民側の猛攻の前に、ついに守備隊長ド・ローネーは降伏を決断し、巨大な要塞の門を開き渡した。
だが、サンソンが真の地獄を見たのは、戦いが終わった後のことだった。
※※※※※※※※※※
降伏し、武装を解除したド・ローネー侯爵を、群衆は許さなかった。
彼らは丸腰の侯爵を広場に引きずり出すと、寄ってたかって殴りつけ、刃物で滅多刺しにし、生きたままなぶり殺しにしたのだ。
さらに一人の男が、侯爵の首を肉屋のナイフで無惨に切り落とすと、それを槍の先に高く突き刺し、血の滴る生首を掲げて行進を始めた。
「見ろ!これが専制の犬の末路だ!」
「我々の勝利だ!正義の処刑を下してやったぞ!」
生首を見上げて歓喜の声を上げる群衆。その顔は、返り血と煤にまみれ、もはや誰が誰だか識別できない「一つの巨大な獣」になり果てていた。
そして、この凄惨な血の狂宴は、一人の男の運命を、ひいてはフランスの歴史を決定的に狂わせてしまう。
群衆の熱狂の淵で、あの「死刑廃止」と「理性の光」を説いていた若き弁護士、マクシミリアン・ロベスピエールが立ち尽くしていた。
彼の透き通るような瞳は、槍に突き刺された生首と、獣のように吠える民衆の姿を静かに見つめ、恐ろしいほどの熱を帯び始めていた。
(……私の言葉は、私の理屈は、あの巨大な石の壁の欠片すら崩せなかった。だが、この醜く野蛮な暴力は、何百年も続いた絶対王政の壁を、たった一日で打ち砕いてしまった。)
ロベスピエールの胸の中で、ナイーブな理想主義が音を立てて崩れ去り、代わりに冷たく青い、絶対的な『正義の炎』が産声を上げた。
(血を流すことは罪だ。だが、この腐り切った古い血を抜き取らねば、新しいフランスという赤子は産声を上げられない。一時的に血の雨が降るだろう。しかしそれは、気高き理想を捨てるための堕落ではない。私が夢描いた完璧な理想を現実のものとして『成し遂げる』ための、神聖なる代償なのだ。)
彼は、血に酔いしれる「顔のない獣たち」を見渡した。この野蛮な獣たちに革命を委ねれば、国はただの殺戮の野原と化す。
(ならば、誰がこの獣の手綱を握り、血の海を渡り切るというのか。気高き理想を胸に抱きながら、自らの手を汚し、この残酷な現実の血を浴びる覚悟を持つ者……。弁舌という『理性の光』と、血という『劇薬』。その両方を以て、この混沌の後に新しいフランスを再構成できるのは――
私しかいないのではないか!)
それは、一人の純粋な青年が、己を「国家の救世主」と確信した瞬間だった。
この日、一切の流血を憎んでいた男は、自らの気高い理想を完成させるために「暴力による死」を肯定した。最も美しき死刑廃止論者が、史上最も冷酷な独裁者へと『覚醒』したのである。
※※※※※※※※※※
サンソンは、その報を聞き、激しい眩暈に襲われながら、その場に崩れ落ちそうになった。
(……違う。こんなはずではなかった。)
彼らは、わずか一年前、ジャン・ルーシャールの不当な死を止めるために、車輪を燃やして涙を流した、あの慈悲深き民衆のはずだった。
だがあの時の高潔な怒りはどこへ消えたのか。今の彼らは、根拠のない恐怖によって理性を失い、降伏した丸腰の人間を殺して、その死を「正義」という名の娯楽として消費しているではないか。
この瞬間、王が夢見た「民と手を取り合う平等な時代」という美しい理想は、血塗られた石畳の上に無惨に崩れ落ちた。
不完全な人間が、不完全な恐怖のために、他人の命を嬉々として奪う。
サンソンは、自らの深紅のコートの襟を強く握りしめた。
神よ。私が十字架に祈った「生きてこそ懺悔できる」という希望は、この血に塗れた狂乱の中で死んでしまったのでしょうか。
死刑を執行するのは、もはやサンソン一人ではない。
顔のない獣たちが、正義という免罪符を手に入れ、パリの街を巨大な処刑台へと変えようとしていた。
そしてこの暴走する獣の空腹を満たすため、やがて歴史は、人間の手には負えない「完璧で効率的な殺戮機械」を強烈に渇望することになるのである。
フランス革命編スタートです。
よろしければ、ブックマーク/感想/★で応援してもらえると励みになります。




