第17話,優しき王の引き金
処刑人の家に生まれ、フランス革命前後のムッシュ・ド・パリ(処刑人)であり医師であったシャルル=アンリ・サンソンの物語。
フランス史上一番多くの処刑を執行した彼の数奇な運命を描きます。
いよいよ革命編が始まります。
「優しい人間がトップに立つことほど、恐ろしい悲劇はない。」
1981年の地下室。父さんは、手記の古びたインクの染みを指でなぞりながら言った。
「ルイ16世は、誰も傷つけたくなかった。ただ平和に議論を進めたかっただけなんだ。だが、極限状態の群衆の前で『怯えて武器を構える』という行為が、どれほど残酷なメッセージになるか……彼は想像できなかったんだよ。」
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1789年の初夏。異常な熱波がパリを包み込んでいた。
サンソンが処刑台に立つたび、広場を埋め尽くす群衆から突き刺さる視線の質が、明らかに変わってきているのを感じていた。
冬の頃の、ただパンを求める哀れな飢餓の瞳ではない。そこにあるのは、豪奢な生活を続ける貴族たちと、何も決断しない王室に対する「剥き出しの憎悪」だった。
(……このままでは、パリが内側から破裂する。)
処刑人として長年、群衆の感情の波を肌で感じてきたサンソンには、それが痛いほどわかっていた。
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同じ頃、三部会が開かれている議場の周辺で、サンソンは噂の男の姿を遠目に見る機会を得た。
マクシミリアン・ロベスピエール。彼は小柄で、安物だが小奇麗なフロックコートを着込み、真っ直ぐな瞳で群衆に向かって必死に叫んでいた。
「血を流してはならない! 武器を取れば、我々もまた旧体制の専制と同じ獣に堕ちてしまう。我々は理性と言葉の力だけで、この国を美しく造り替えるのだ!」
若き青年の声には、人間への絶対的な信頼と、狂おしいほどの情熱が宿っていた。サンソンは彼の中に、暴力と死刑の連鎖を断ち切る新時代の到来を確信し、その祈るような背中を見つめていた。
だが、言葉だけで国を変えようとするその青臭くも美しい理想は、絶対的な「物理的暴力」の前に呆気なくかき消されることになる。
ベルサイユ宮殿のルイ16世が、完全に追い詰められていたのだ。
平民たちが独自の議会(国民議会)を作り、王の権力に対抗する構えを見せ始めたことで、宮殿内では王妃マリー・アントワネットをはじめとする保守派の貴族たちが、「今すぐ軍隊を出して平民どもを弾圧すべきだ」と激しく迫っていた。
「ならぬ! 民に銃を向けることなど絶対に許さん!」
ルイ16世は頑なに拒絶した。彼は本当に、自分の手で民の血を流すことなど微塵も望んでいなかったのだ。
だが、連日の激しい突き上げと、暴動の報告に精神をすり減らした王は、ついに「最悪の妥協」をしてしまう。
「……パリの治安維持と、議会の安全を守るためだ。威嚇のために、国境から軍隊を呼び寄せるだけだ。決して撃たせてはならない。」
王に他意はなかった。ただ、暴動が起きるのを防ぎ、安全な環境で議論を進めたかっただけなのだ。
数日後、サンソンはパリの郊外に、外国人傭兵を中心とした屈強な軍隊が続々と陣を敷くのを目撃した。太陽の光を反射する無数の銃剣が、パリの街をぐるりと取り囲んでいた。
ロベスピエールが喉から血が出るほど説いた「理性と言葉」など、大砲と銃剣の前では風に舞う塵と同じだった。
サンソンは血の気が引くのを感じた。
(陛下、何ということを……! 飢えと恐怖の極限にいる者たちに、刃を突きつけて『落ち着け』と言って通じるはずがない!)
極限状態にあったパリ市民の目には、それは王が意図した「威嚇」ではなく、「圧倒的な殺戮の準備」にしか映らなかった。
「見ろ! 王の軍隊が、俺たち平民を皆殺しにするために包囲を始めたぞ!」
根拠のないデマが、乾燥した藁に火を放ったように街中を駆け巡り、市民たちはパニックに陥った。
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そして7月11日。王は親族の圧力に耐えきれず、ついに致命的な引き金を引いてしまう。
平民たちに寄り添い、彼らから絶大な支持を得ていた財務総監ネッケルを、突如として罷免してしまったのだ。
民衆の唯一の味方だった男の首を切った。王にとってはただの政治的な人事異動(妥協)に過ぎなかったが、パリの街においては、それは明確な「国王からの宣戦布告」であった。
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サンソンは自室の窓から、不気味な松明の炎があちこちで上がり始めたパリの夜空を見つめていた。
誰も傷つけたくないという王の個人的な優しさが、結果的にパリの街へ「王が我々を皆殺しにする」という最悪の恐怖を植え付けた。優しき王は、血を流すことを拒んだがゆえに、自らの手で革命という名の巨大な火薬庫に火を放ってしまったのだ。
理性は死んだ。恐怖が街を支配する。
生き延びるために武器を求めた群衆が、巨大な暴流となって行き着く先は、ただ一つしかなかった。
フランス革命編スタートです。
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