138-5 北海の幸
冬の日本海ならぬハイド海。
ここロス大陸とメルス大陸を結ぶ航路のある海を人はそう呼ぶ。
魔物と戦いながら命懸けで大海を渡る覚悟を決め、大陸間の交易に尽くすハイドの人々に敬意を込めてそう呼ぶのだ。
毛蟹はそこで獲れるのではなく、更に厳しい環境にあるロス大陸の上にある無人の氷の大陸アイスとの間に広がる北海の幸だ。
何しろそっち側へ行っても、極寒の氷の大陸と氷の魔物のような生物しかいない。
そこは、あのドワーフでさえ試し切りに行かないほど寒々としている。
厳しい環境は魔物の数も育てない。
そんな荒涼とした大陸を睥睨する北の海。
行先の大陸は荒涼として寂しい物だが、途中の海には魔物がたくさんいるので漁は盛んではない。
俄然、人間もわざわざそっち方面に人は出さない。
という訳で北海方面で一番漁業が盛んなのは、当然ながら我がグランバースト公爵家だ。
帝国方面も近海のみで漁が行われるのみだし、ザイードなどは遊牧が主流なので、漁は苦手というか船自体を持っていない。
隣国の帝国と敵対しているのなら、海を渡ってその向こうに有る国と交易するという手もあるのだが、草原が好きな彼らは海へは出たがらなかった。
どうせ死ぬのなら草原で。
それが彼らの身上だ。
ハイドも、もっぱら航路のあるハイド海方面が主流なのだ。
獲物(魔物)は、結構海路の道中で獲れたりするし。
ハイドの国自体も北海に面している面積は少なく、海岸線の三分の二はメルス大陸との間に広がるハイド海に面しているのだ。
縦に長い国土を持つハイドにも、サイラス方面には暖かい海もある。
サイラスも農業が主流なので、物騒な海にはあまり出ていかない。
そのせいので、そっち方面でハイドが漁をしていても、まず問題になる事はない。
以前は国同士が仲の悪い事もあったので、船で出会うと険悪なムードになる事もあった。
だが対帝国で共に同じ旗の元で手を組んだのと、ハイドが今の若きシド国王に代替わりした事もあり、現在ではそういう事はない。
シド自身は柔軟な考えを持つ男で、サイラスの同じく若き国王ルイスも、その従兄弟であるミハエルも、彼に対しては好感を持っている。
シドにベタ惚れな彼らの血族の少女を娶ったせいもあり、シドは彼らから殆ど生粋の親族同等として扱われている。
まあ姻戚になったんだものなあ。
シドという男はそれだけの漢なのだから。
少なくとも、そいつは日本一の首狩り族である三河民族の俺が保証しよう。
それでいて足元の罪のない虫けらには人一倍気を使うような繊細な性格が、俺もシドも御互いに気に入っているのでな。
ハイドが南洋漁業をする事もある。
魔物もやっぱり南の温かい海の方が住みやすいのだろう。
餌になる獲物も多いだろうし。
危険も多くなるので、あのハイドといえども、そういう人達は少数派だ。
だが北方の幸は捨てがたい物もあるので、北方の海で活躍する猟師さん達もいる。
とりわけ、この季節は毛蟹漁ということで、王家も交えての伝統行事と相成るわけだ。
「今年は連中もどういう手で対抗してきますかねえ。
スパイまで送り込んできたのだし」
「そうですね。
でも、公はまたいろいろと考えて用意してきたのでしょう?」
「そりゃあもう、もちろん。
奴らとの対決が今から楽しみですよ」
そう言う俺の足元で、また激しく楽しみにしている御狐様達。
「去年の竿は使わないの?」
「使ってもいいけど、あいつらもあれには対策してきているんじゃないのかな」
地球では「鯨は人間のように頭がいい動物なのだから殺してはいけない」と言う人もいるが、ここではそんな事は言われない。
「毛蟹は頭がいいから手強い」と言われる。
幸いな事に、ここには動物(魔物)愛護協会のような人間はいない。
ここで、そんな五月蠅い事を言ってくる奴らがいるのであれば、剣一本だけ持たせてアドロスの迷宮へ放り込んでやろう。
地下三十階くらいが手頃でいいかな。
あそこなら巨鳥モアのように巨大な鳥系魔物アサルトランナーが出てくる辺りだ。
うちでは鯨は狩らないが、その理由はただ一つだ。
『マズイから』だ。
あくまで当主である俺の舌の基準でだけれど。
同じ家族でも、食い物の好みは真っ二つに分かれるから不思議だ。
我が井上家では、家では男が嫌鯨派で女が好鯨派だった。
食べ物の好き嫌いは良くないが、マズイ物はマズイんだよ。
あの珍妙な味を舌や胃袋がどうにも受付けないのだ。
どうしても海生哺乳類は、あの独特の脂身がなあ。
ペンギンなどの鳥類も同じだ。
酷寒な生活環境に耐えるため、彼らが体に蓄える独特の油がどうにもね。
陸上生物が貯える甘い脂とは根本的に異なる化学組成を持っているのだ。
特にあの匂いがなあ。
もう臭いとしか言いようがない。
その昔、犬橇で極点を目指し、途中でエスキモーの家にてもてなされた冒険家の日本人が冷凍のアザラシ肉を御馳走になって閉口したらしい。
凍った肉をナイフで薄く削いで食べるそうだが、口の中で溶けたアザラシの生肉がなんともいえない生臭い味になるらしい。
これがまだ冷凍の陸生家畜の肉か何かだったら良かったのだがね。
あれだって、にちゃにちゃするし結構生臭いのだが。
刺し身で食える牛肉なんかは、人工的に改良された牛の肉だしな。
異世界では、俺のように大量の物資を持ち込んで、更に魔力から無限にコピー出来るような特殊な人間でもなければ、そういう感じの悲惨な食生活を送る破目になる奴も少なくなかろうよ。
そういう風に冷凍して食う食い物ならば、北海道のルイベに限る。
あれは鮭だから美味い。
もしかしたらルイベという料理には、他の魚や獣肉類を凍らせた料理もあるのかもしれないが、それらもきっと美味いはず。
なんたって美味い物しかない、あの北海道名物なんだものなあ。
葵ちゃんと山本さんは本当に要領がよかった。
織原だって手酷い拷問付きとはいえ、文明国の飯くらいはあったろう。
この俺だけが自前の飯に頼っていたのだ。
いやあ、セブンスセンス万歳だね。
日本人は俺と同じ御意見の方も多いようで、スーパーで鯨の肉は早々に半額の値札で彩られる。
なのに、何故鯨の肉なんかを毎度毎度売るのだ。
また鯨という奴は半額の値札がつく頃には、その肉が真っ黒になってしまっていているので見栄えも悪く、非常に困ったものだ。
あれがなければ、半額ならまだ試しに買ってもいいのだがなあ。
だが、鯨肉を好む人は何故か『長生き出来そうな食生活』をしている人が多いのだ。
もしかすると女は長生き出来そうな食い物を好むから男よりも長生きなのだろうか。
だが、たとえ『鯨の肉を食い続けるとあと五十年余分に生きられる』などと言われても、俺は絶対に鯨は食わないからな。
伝説の人魚の肉じゃあないんだから。
まあ、鯨魔物なんかはファルの御友達枠だから狩らないけれども。
そもそも、この俺に『可愛い物』を狩るのは無理だしな。
だが毛蟹だけは、たとえ世界を敵に回してでも獲って食う。
なんとしてでも食う。
乱獲で毛蟹が絶滅しそうになったら、超絶に保護して魔導の限りを尽くし、たくさん養殖して増やしてでも食う。
そんな俺の決意が見てとれるのか、うちの娘も俺の上着を引っ張りながら涎を垂らしている。
待っていろ、レミ。
今大きい奴を獲ってやるからな。
そして早速伝統の疑似蟹投げ込み漁が始まった。
これは地球のテレビにも流してやったら人気になったようだ。
面白いので外国でも紹介されている。
テレビ局で扱っている人気のオンデマンド・ビデオとして売り上げも好調なのだ。
他にも魔物シリーズとか、色々な映像を提供している。
広告で運営されている無料ネットテレビや動画サイトの広告料も、相変わらず好調だ。
以前はこれ一本で、異世界にいながらにして日本円を稼いでいたものだが。
今年の毛蟹のファイトにも広告収入を期待するかな。
ほどなく上がって来た毛蟹漁の仕掛け。
それには毛蟹が一匹捉まっている。
お、今年はなんとクラブプリンセス様直々の御登場か。
「ふっふっふ。
魔王よ、少しだけ御久しぶり」
あ、蟹のままで喋った。
中々多芸な奴だな。
「誰だ! お前は」
正体などわかりきっているのだが、ここは敢えて乗ってやろう。
トーヤ達も嬉しそうにしている事だし。
「ふ、こういう者さ」
そして奴は変身を開始した。
脱皮して。
そして、その甲殻の中身が何やらよくわからない柔らかい何かに変わっていった。
なんというか、どろっとした感じ?
べたっと甲板に広がる感じで蠢いている何かがそこにはあった。
そこから、なんとなく人型を取ろうとしている。
思わず沈黙する俺。
これはまた一風変わった人化の方法だな。
「うーん、うーん」
不気味だ。
まるで大昔のB級映画の人間型モンスターのような感じだ。
なんというか、どろどろでエグイ感じの奴ね。
蛹の中で完全に変態しないまま出て来てしまった怪奇生物であるかのように。
我が愛しの超絶に可愛らしいネコミミ公爵令嬢様はそれを見て、立てた尻尾を膨らませながらピキっと固まってしまったのだが、トーヤ達は無茶苦茶大喜びだった。
この歳で、もうB級映画マニアなのらしい。
本当に困ったものだ。
どうやら、そいつは俺の影響もあるらしいし。
あいつは、どんどんマニアックな方向にばかり進んでいく。
まあ今更なんだけど。
うちの子は今夜一人でトイレへ行けるだろうか。
この子はオネショをしない子なのだが、今夜は少し心配だな。
怖かったら俺を起こすように言っておこう。
「あのー、その。
なあクララよ。
そこまで無理はしなくてもいいぞ。
そのまま蟹の姿でも喋っていたじゃないか。
蟹って脱皮すると、しばらく体が柔らかいままなんじゃないのか?」
「貴様!
何故、私の正体を知っているのだ!」
「わからいでか!」
そして唖然とする人々の前で、奴はうんうんと唸りながら脱皮というか人化をしていた。




