94-7 織原の災難 「ニルヴァーナ」
「ふう、酷い目に遭ったぜ」
今度はフィアから遠く離れた場所でチョコ作りを監視している織原が呟いた。
「ええっ、もっと居たかったですよー。
自力で出られるんだから、後でもう一回行きましょうよ~。
滅多に行ける空間じゃありませんよ」
「アホかあっ!」
織原は二百五十七回ほど試して、ようやくあの空間からの脱出に成功したのだ。
織原は頭のいい奴なので、無闇にチャレンジするのではなく、まずあの空間をよく観察してみた。
そして、ふっと気が付いたのだ。
この手の空間にしてはあまりにも静かな空間である事に。
通常ならこの手の空間は、創造主である本人でもコントロール出来ない自分の心、その激しい心情風景を映すと言われている。
空間の創造主たる者の心が壊れそうになるくらい追い詰められて、始めて具現化して生成する空間だからだ。
そこへ自分にストレスを与える存在を放り込むのだ。
そして、そこでの自分の心象風景をよく見てほしいと願う。
自分の心を。
「ショウ ミー」
そんな切実な想いの篭った世界であるはずなのだ。
だから幼い子供に多く発症し、本人の親が行くケースが多い。
そして親は必ず無事に帰ってくるのだ。
空間の主がそう望むから。
帰ってきた者は多くを語らないが、その後の親子関係は概ね良好なケースが多いとされている。
嵐、いや暴風のように心象を映す不思議な空間。
それは、その空間の創造主の苦しみを映す鏡なのだ。
そして、それが現実のように襲いかかってくるような悪夢かサイコ映画のような世界のはずだった。
ただ、それによって入り込む羽目になった人間が、肉体に危害を加えられる事はないはずなのだ。
精神的なダメージを負う以外は。
それを受けて主の心に触れてほしいという、切なる願いの籠った空間なのだから。
そう考え、とにかくフィアの表情・様子と、この世界とを観察してみる事にした。
だが。
この世界は本当に静かだ。
いや静か過ぎる。
有り得ないほどに。
諸行無常というか、無であり、なおかつ「日常空間」でもある。
何もないけれど、ただそこに普通にしていられるという、この手の話に照らし合わせても本当に異常で謎の空間だった。
その雰囲気に、織原は何か急に思い当たる。
こう、侘び寂びの世界というか、茶道・墨絵・禅などが醸し出すような落ち着いた佇まい。
自宅で関わる事の多いそういう物に造詣が深い織原だから余計にそう感じるのだ。
それは精神が不安定な子供というよりは、まるで長い年月を生き続け、全てに達観した『一廉の老人』の精神を表すような。
そしてフィアをよく見ていると、そこにはパニックのようなものは欠片も見当たらぬ。
むしろ、この歳の子供としては有り得べからざるほどの落ち着きがある。
そう、ここは神官として厳しい修業を積んだ者の心の中の世界。
そこは波紋一つ無い、無の世界なのだ。
「なるほどな。
ここは精神が未熟な者がパニックして作り出せる空間なんかじゃない。
真に才能のある者が、厳しい修業の成果でしか生み出せない特殊な空間なんだ。
これはジェシカさんなんかでも作れないし、あの短気な魔王園長あたりでは到底到達出来得ない『仙人の精神世界』のようなものなのか。
稀有な才能がある者だけが到達する、一種の何かを極めた世界なのだな」
織原は何とも言いがたい不思議な感慨をもってして彼女を見つめた。
またそうであるにも関わらず根っからの粗忽者で、そのせいで何かパニックすると、この『一番落ち着く世界』へ物理的に逃げ込んで、心の平静と落ち着きを取戻すのだ。
どうやら、それに通常なら三日ほどかかるという事らしい。
有り得ないシチュエーションではあるが、目の前に存在する現実でもある。
しかもその空間の生成を、フィア本人が自分でまったくコントロール出来ていないようだ。
それもフィアがまだ子供だからだろう。
だが大人になれば成長して、フィアも自由にこの世界に出入りする能力を身につけるかもしれない。
いつでも何があろうと心の静寂を保ち、波紋一つない仙人の世界に他人をさえも導くことが可能な大神官。
ここは一種の神仙空間であると表現してもいいのかもしれない。
いやこれは、いずれは大司祭になる資質でさえあるのではないのか。
いずれは。
それは一種の悟りの世界?
沙羅双樹の木の下で入滅し、体も心も煩悩から解き放たれた無余依涅槃の道へと進むのか。
いや、それとも釈迦が菩提樹の元で悟りを開いた有余依涅槃の世界そのものであったか。
彼女フィアにとって涅槃、ニルヴァーナなどはわざわざ実践目的とする必要などないのだ。
ただ、そうあるだけでいい。
そのような稀なる資質を、生まれ持って持ち合わせている。
生まれながらにして持ち合わせた釈迦クラスの資質に加え、全ての他人を涅槃へと導く事が出来る稀有な存在なのかもしれない。
生きながら、生まれながらに、さして意識する事なくその世界に到達する超越者。
そんな境地に立ち入った大神官によって幼い頃より教育を施された王などがいたとしたら、この世界はどのように変わるのだろうか。
織原はそんな可能性に思いを馳せ、思わず身震いに襲われたが、今彼はそれどころじゃないのだ。
「今日は絶対に帰るぞ。
明日はバレンタインデーなんだからな!」
そう、あの子からチョコを貰わなくては。
それは、ちょっと中二病っぽい感じの子で、異世界に興味津々といった感じで話しかけてくるのだ。
当然のようにクラスで一人浮いていた織原に、特に用がなくても敬語なしで話しかけてきてくれるのは、あの子だけだった。
「織原先輩!
明日はチョコあげるからね!」
「おい、西田。
先輩はやめろよ!」
それは織原が一番気にしている事なのだ。
知っていて、わざとそうして弄ってくる。
やや茶色っぽい色合いの、悪戯っぽい感じの眼が彼の顔を覗き込んで笑う。
そうされると思わずドキっとしてしまう。
「まあまあ、いいじゃない。
先輩は他にチョコをくれる人なんていなそうだしさ」
今朝はそんな、聞きようによっては甘い会話を交わしていたというのに。
「ええい!
ぜってー、今日中に日本へ帰るぞ!」
「へえ、西田ちゃんからチョコを貰うために?」
「なんで沖田ちゃんがそんな事を知っているんだよっ!」
「私は、あなたの監視役ですから。
ドヤ~」
「う、あれをこいつに見られていたのかあ」
思わず、ちょっと頭を抱えたくなる気分の織原。
「もうわかった。
いいから、俺の部屋は覗くんじゃないぞ?」
「それと若い男の子の発電力の調査もリポートしておかないといけませんね!」
「てめえ! こっら~」
「ふっふっふ。
捕まえられるものなら捕まえてごらあん。
そーれ、お尻ペンペン」
「にゃろうっ」
だが異世界のスーパー・ゴーレムが、所詮は人並みの体力しか持たない日本の高校生男子に捕まるはずがない。
謎空間で織原と沖田ちゃんが永遠に追いつく事のない不毛な追いかけっこをしている間に、フィアは着々とチョコの製作に失敗しつつあった。
何故か一緒に来てしまった、チョコ材料に作業台、そしてチョコ魔物フリーク達。
そして自然の成り行きで、ここでもチョコ作りを始めるフィア。
「むう、ちっとも上手くいかないなあ」
「お前は本当に手際がよくない。
分量も間違えているし、何故人の説明通りに作らないのか。
と言っていますよ」
斉藤ちゃんの通訳に、唸るばかりのフィア。
それを見て、このままだとこの空間から自力で出られそうにないなと溜め息をつく織原。
「くそ、あれこれやったが、なかなか出られないな。
本当にどうなっていられるんだろう。
お、そうだ。
おい、フィア。
ちょっとチョコを作るのをやめろ」
「えー、なんですかあ。
頑張らないと、バレンタインデーが終わってしまうじゃないですか。
待っていてね、あたしのベル御兄ちゃん」
蕩けるような瞳で恋を語る大神官(見習い)。
「いいから!
ちょっと聞くが、お前は仕事の時にどんな感じで精神を統一というか集中というかをやっているんだ?」
「そりゃあ、こんな感じですよ」
そう言うやいなや、フィアは軽く眼を閉じ、その場で座禅を組んだ。
(この世界でも、こういうスタイルになるんだなあ)
思わず妙な事に感心する織原。
だが、その後が実にいけなかったのだ。




