80-1 ついに来たその日
「ついに、ついに、この日が来てしまった。
Xデーが!」
「あなた、落ち着いて」
こう書くと、まるで本人達がしている話のようだが、実は俺とシルのしている会話だ。
そう、ついに「アレ」が誕生する時がやってきてしまったのだ。
葵ちゃんの御腹の中にいる奴が!
他人の子供をアレ呼ばわりとは失礼千万にもほどがあるが、俺には赤ん坊にトラウマがあるのだ。
そう、我らがレオンの時にな。
あれは思い出しただけでも眩暈がしそうだ。
今度の子も大変ヤバい奴なのに決まっている。
俺の脳内では既にそのように、大宇宙の記録アカシックレコードの如くに刻まれているのだ。
うちはまだなのだが、その時は明らかに魔王ジュニアが生まれてくるのは間違いないところだろう。
だが、もっかの問題は、山本夫妻のところの子が一体どれだけの能力を持って生まれてくるのかなのだ。
只の普通の赤ん坊が生まれてくるとは非常に考え辛い。
そいつに与えられた精霊の加護の数だけを考えても眩暈がしてくる。
あまりの多さに途中で数えるのを止めにしたからな。
山本さんと来た日には、それはもう無邪気なもので本当に只の父親気分なのだ。
あの人の場合は、いつもの事なのだが。
「園長先生、井上さん。
とうとう私の子供、生まれてきちゃうんですよ!
ああ、私なんかが父親になっていいのかなあ。
生まれてきたら、きっと物凄く可愛いだろうなあ。
あ、うちも歳の離れた兄弟とかがいたもんで、赤ん坊の世話とかは全然大丈夫なんですけどね、いやあ。
ああ、どうしようか」
これはアントニオ以上の親馬鹿になるかもしれん。
これっぽっちも何の心配もしていないようだ。
こっちは痩せ細るほど心配してるというのに~。
王族専用の産院では今まさに出産が始まろうとしている。
それ自体に関しては、まったく心配などしていない。
当の葵ちゃんなどは実に落ち着いたものだ。
「じゃ、ちょっと行ってきますねー」
などと今からコンビニへお買い物にいってきますみたいな感じで、大きな御腹を揺すりながら付き添いの人と一緒に自分の足で歩いて、そそくさと産室へ行ってしまった。
手には御爺ちゃんの御山で頂いた霊験灼かな安産祈願の御守りを握り締めて。
落ち着かないのが山本さんの方なのだ。
この世界では、男が出産に立ち会うなど、とんでもない事とされているらしい。
武め、ちゃんとそういうところも伝統として稀人式を残しておけよな。
そこのうろうろしっぱなしの熊を誰かなんとかしてくれ。
産室からは、葵ちゃんの呻き声と「プーッシュ、プーッシュ」みたいな感じの声が聞こえてくる。
この世界でも「ロン、ロン」、つまり押せ押せと言っているようだ。
押せと言う言葉を聞くと、ビルの間に渡された電流の流れる鉄骨を思い浮かべてしまう俺は、少し何かに毒されているのだろうか。
「オギャアー」
あ、ついに生まれたか。
意外と普通の出産だったな。
まあいいか、何も無いなら無いで。
そして俺はホッと……しなかった。
「きゃあああー」
産室から思いっきり悲鳴が劈いたので。
これは!
葵ちゃんの声では……ないな。
母子に何かあったというよりも、何か未知との遭遇みたいなニュアンスが伝わってくる。
「葵ー!!」
駆け込もうとする山本さんを、俺はしっかりと押しとどめた。
さすがにここは一呼吸置いた方がいいシーンだろう。
「何をするんです、園長先生。
離してくれ、葵が、葵が」
「落ち着けよ、山本さん。
子供は無事に生まれたようだ。
ちゃんと立派な泣き声が聞こえただろう。
王家の出産に立ち会うような、魔法持ちの素晴らしい助産婦さんが一緒にいるんだから、葵ちゃんの身に何かあったわけではないだろう。
そんな緊迫した気配はしない。
だが、あの中で何かが起こったのだ。
俺は中を覗くのが怖いな。
そして、その原因は!
さっき生まれたばかりの、あんたんところの赤ん坊に決まっているんだから」
山本さんは目を見開いて俺を見ると、次の瞬間に大憤慨した。
「あんた、一体何を言うんだ。
そんな訳がないだろう。
うちの子に限って!」
はああ。
まあ、親なんて大体こんなものか。
「わかった。
もう止めない。
今すぐ自分の目で直接確かめてくればいいさ」
グッドラック、パパさん!
俺がHP3200万による拘束を解いたので、慌てて飛び込んでいった山本さんであったのだが、次の瞬間にパニックした彼の声が聞こえて来た。
「うわわわわ」
かなり動揺した様子の山本さんの声だ。
だから言わんこっちゃない。
こういう時は闇雲に行動すべきではないのだ。
心ある忠告を無下に無視するから、ああいう事になる。
まあ自分の女房子供の話で、初子なんだから無理もないんだけど。
どれ、仕方がないので俺も赤ん坊様の御尊顔を窺ってくるとするか。
あまり気は進まんのだがな。
そして、おっかなびっくりで産室に入った次の瞬間に、またもや悲鳴のようなものを聞いた。
「うおおー、なんじゃこりゃあ~」
あはは、俺の声だったわ。
それは空中に浮かんでいた大きな白い物だった。
少なくとも俺の眼には赤ん坊に見えない。
葵ちゃんも出産の疲れさえも忘れたかの如くに半分体を起こして、体にかけられていた毛布の裾を握り締めながら口を半開きにしたまま固まっていた。
このシルエットは、たぶん女性……だよな?
白い産着のような物に包まれて、白光する霊的な物質に体を覆われているようだ。
その物体は大人サイズなのだが、ちゃんと産着のようなもので包まれているような感じだ。
そう見えるだけなのかもしれないが。
何か雰囲気はファルス的な感じがするが、完全に人型をしている。
美しい女性のような雰囲気だが、全体に白っぽくて髪も白く耀いている。
おそらく白髪などではない。
「なあ、葵ちゃん。
この子の名前は?」
「へ?」
「だから、そこに浮いている君の赤ん坊の名前はと聞いているんだ」
葵ちゃんは、その「赤ん坊」をマジマジと見た後、しばらくドングリ眼で口を半開きにしていたが、すぐに再起動した。
「こ、これが?
私の?
え、えっと。
女の子なら瑠衣、ルイです」
「そうか。
瑠衣、よーしよし。
怖い事はないから、そこから降りようねー。
ここは御母さんの御腹の中ではない外の世界だよ。
ようこそ、赤ちゃん。
このアスベータの世界へ」
俺はそう言って、その子を軽く抱いて宥めた。
優しく魔力を注いで、祝福の力を放つ。
するとその子は、みるみるうちに小さくなっていき、俺の腕の中にすっぽりと収まり大声で泣き出した。
「あれえ」
山本さんも、やっとこさ再起動した。
「心配ない。
これは正真正銘アンタの娘だよ、山本さん。
安心出来る母親の胎内から、いきなり外の世界に出されたので心細かったのだろう。
ファルスが膨らんで精霊の森を守るように、体を霊的物質の鎧で自分の体を覆って守っていたようだ。
鎧で覆うというか、本人の体が半ば鎧化していたような感じだったんだが。
胎児の頃から事あるごとに精霊の加護が沢山付けられているし、俺やファルから祝福の力を受けていたせいで霊的な成分が多いせいだろう」
「は、はあ」
あ、山本さんは話についてこれていないな。
無理もない。
この人、この世界のおかしな話に殆ど関わってこなかったからな。
「そういや、済まないな。
父親であるあなたよりも先に、他人の俺がこの子を抱いちまった。
そら」
俺は、まず順番として葵ちゃんの隣にベビーを寝かせてやった。
彼女は赤ん坊を優しく抱き上げると笑顔で話しかけた。
「ふふ、ちょっとびっくりしちゃったけど、ようこそ私の可愛い娘。
私があなたの御母さんよ。
瑠衣、無事に生まれてきてくれてありがとうね」
赤ん坊は、さっきの霊的防御現象で体の汚れは綺麗に吹き飛んだようで、産湯に浸かる事すらなく、それはもう全身がピカピカになっている。
臍の緒さえも吹き飛んでいるようだ。
山本さんも、おっかなびっくりで近づいて、母親に抱かれて胎内で聴きなれた心音に安心したものか泣き止んだ赤ちゃんと葵ちゃんをしばらく見つめていたが、やがて満面の笑顔を貼り付けて言った。
「瑠衣、瑠衣。
俺の可愛い娘!
葵、よく頑張ったな!
ああ、嬉しい~!」
それから娘を抱き上げて、やや気色の悪い笑顔をふんだんに御披露する三十路男の雄叫びが、産室中の人々の鼓膜を打ったのであった。




