第146章 五月病の季節 魔王の攪乱 146-1 飲み過ぎた午後のビール
「ふう、今年もあの季節がやってきたな」
俺はリビングのソファの上で寛ぎながら、いつものようにビールを飲んでいた。
今日のビールグラスは格好をつけたような奴ではなくて、少々ラッパ型に口の広がったタイプの、さして工夫もない、ちゃちな代物だ。
ビールを美味しく泡立ててくれるような素敵グラスではない。
確か、昔家にあった安物のコップがこんな感じの奴だった。
ビールも量産メーカーの出している普通のプレミアムビールで、ここぞというような特別な奴じゃあない。
最近は外国の高級な奴とか地ビールなんかに凝っていたのだが。
なんというかもう「適当適当」とか言いたいような感じの気分なのだ。
人間、気を抜いていないと駄目な時もあるのさ、と言い訳しつつ。
「そうねー。
今年は大丈夫なのじゃないかしら。
割と平穏な年だったもの。
父も発病しないんじゃないかしら」
「ふふ、あの御義母様が、祭りがやれなくてがっかりするんじゃねえの」
「最近は、あなたの御蔭で何かにつけイベントも多いから、どうかしらね。
以前は五月病が一番熱の入る御祭りだったのよ」
神聖なるロスを祀る正月のロス感謝祭の祭りとかじゃなくて?
まあ、それもこの国らしいと言えば、実にそれらしい話なのだが。
それになんといっても五月病大祭の方が楽しいしな。
「ふあ~あ。
それにしても気の抜ける季節だねえ。
子供の日も終わった事だし、どこかへ気合の入った遠足でもやろうかな」
「そうね。
地球なんかどう?」
「地球か、ああ何もかもが懐かしい」
「何を言っているの。
地球なんて、しょっちゅう遊びに行ったり買い物しに行ったりしているじゃない」
「いや、こういうのは様式美というか慣用句というのか、そういう物でね」
さすがのシルにも、この昭和アニメネタは通じなかったか。
四十年物の熟成されたネタだものなあ。
あの御狐二人組にはちゃんと通じるのだが。
空中庭園について学ぶ授業で放映したしな。
ああ、そっち方面では連中の師匠であるらしい葵ちゃんにも当然通じる。
丁度、今だらんとソファにもたれているので、そういう台詞を吐くのにピッタリの態勢なのだ。
今も思い出す、最終回のあの名場面。
だが何だろう。
その時突然何かが起こったというか、むしろ起こるというよりも無くなったというのか。
何かの底が抜けるような、それこそ泡立っていたビールが瞬間的に気が抜けてしまうかのような、そんな妙竹林な感覚に襲われた。
「はて?」
俺は手に持ったビールを見たが、特に気は抜けていない。
いや、もちろん比喩的な表現なので、本当にビールの気が抜けてしまっていたわけではないのだが。
俺は首を捻りつつも残りのビールを飲み干した。
「どうかして?」
「あ、いや別に」
俺も首を捻りつつ、ビールの御代わりを頼もうと思い、テーブルの上にあった呼び鈴を振ろうとして手を伸ばし、そのまま固まった。
取りかけだった呼び鈴を取り落とし、それは涼やかな音を立てて床に転がっていき、俺の意思を代弁するかのようにビールの御代わりを呼ぶ調べを告げてくれた。
「何だろう、この感覚は」
今まで経験した事がない、何かこう不思議な感覚に囚われてしまった。
夜勤で睡眠不足なのに残業し過ぎてハイになってしまった感覚とも違う。
地球で神の時間に突入して、全知の知覚に囚われていた時の不思議な時間とも、また違う。
おそらくは夜中に仮死状態になってしまっていて、朝起きた時に体内時間や生体記録が完全にリセットされ時間の感覚が無くなってしまっていた、あのボヤっとした感覚とも違う。
セブンスセンスの、あの忙しい衝動が到来して全身を内から揺さぶるような、あの強烈な感覚とも違う。
またセブンスセンスの御知らせが、頭の中を白抜きの二重鍵括弧付きで通り過ぎていく緊急な感覚とも違う。
真昼間、疲れてボーっとしている時に、まるで白昼夢のように起きる極超近未来予知夢とも異なる。
千里眼を使って、遥か遠くの光景を、頭の中でモノクロのぼやけた印象にまとめようとしている時のあの感覚とも違う。
オーラを視ようと、特別な目線でオーラ視を試みているような感覚とも違う。
単に眩暈がしているわけでもない。
何がなんだかわからない、そんな奇妙な感覚。
フィアの作った異様なフィールドにいる時とか、織原のスキルに閉じ込められたような感覚でもないし、ファルやレインの祝福とも異なる。
もちろん、俺の精霊の鎧や祝福の輪が醸し出す、あの不思議な雰囲気とも違う。
この異世界へ紛れ込んだ時の感覚でもないし、あのイコマが俺のスキルを作ってくれていた時のあの感じでもない。
夢の中にいる感じでもないし、もしかしたらまだ未体験である幽体離脱という奴だろうか。
いや、そういう感じでもなさそうだ。
それはむしろ、イコマの奴が魔法PCを作ってくれていた時の方が近い感覚だろう。
夢の中で夢魔に連れていかれそうになって危機一髪だった時の、あのリアルな感触でもない。
帝国のAランク試験で強烈なアンデッドに呪われたような、あの感じでもない。
アドミンから無幻の花弁を食らった時のようでもない。
「なんだろう。
あれ? なんだか意識がボヤけてきたような。
ああ、この感じは」
そうだ。
病気、何かの病気っていう感じかな、これは。
しかし、この俺が?
少々の事では病気なんかにかかるはずはない、エナジーに満ちた状態である今のこの俺が。
俺はあらん限りの回復魔法を自分にかけてみたが、もちろん何の効果もない。
もう、ただただ首を捻っているだけだ。
そして、そう間を置かずに厨房の使用人さんがビールの御代わりを持ってやってきてくれたのであるが、何故か彼はそれを御盆ごと床に取り落としてしまった。
いつもの彼ならば、このような粗相は絶対に有り得ない事なのだが。
「おいおい、何をやっているんだよ。
ビールが勿体ないじゃないか」
だが、その言葉は口に出る事はなかった。
何故なら、俺はとても幸せだったからだ。
ああ、俺だけがこんなにも幸せでいいものだろうか。
否、皆にもこの幸せを分けてやらなくては。
「だ、旦那様」
使用人である彼は息を飲んで、俺の事を見つめていた。
嫌だな、君。
そんなに見つめられたら照れるじゃないか。
「あ、あなた?」
そしてシルもソファから立ち上がって、やはり息を飲んで俺を見つめていた。
「嫌だな、マイハニー。
そんなに見つめちゃ。
どうして、そんな顔をしているんだい?
さあ、一緒に幸せになろうよ」
だが、どうやらそれも言葉にはなっていないようだった。
そして彼女は静かに後ずさった。
俺は、自分でも抑え込めないほどの溢れんばかりの笑顔で、大きく両手を広げ、最愛の彼女に向かって優しくそれを笑顔ごと差し出した。
「奥様、これは」
「ええ。
あなた、ついにやっちゃったのね。
この世界の五月病を」




