14.
「お久しぶりですね、灰李サマ」
灰色の能面を指先でもてあそびながら、男が笑う。印象に残らない凡庸な顔。上質でありながら、奇抜な配色のスーツ。
廃れた洋館の一室を背景に、グレイは埃かぶった椅子へ身体を預けていた。一人分にはやや大きく、古めかしい感のある腰掛けは、まるで玉座のようにも見える。
天鵞絨の床はところどころ波打ち、腐りかけた窓枠を擦りきれた重厚なカーテンが覆う。
それらすべてが、水墨画のようなモノクロの世界で描かれている奇妙な空間。忘れもしない。『蒼氓の天秤』と初めて言葉を交わした、まさにその部屋だった。
グレイの正面に所在なくたたずんだまま、俺は、窓の外に浮かぶ路地の風景を眺めていた。水泡の浮かぶガラス面は、モザイク画のように現実を映しだす。不規則に移り変わる、ゆがんだ日常の一場面。
黒いロングヘアをその中に見つけて、どきり、と心臓が跳ねた。……あれ以来、夏生に会ったことは一度もない。
「試合は順調ですか」
投げかけられた言葉は、問いかけですらない、断定だった。そのことになんとなく気がささくれだって、無視を決めこんだ。
沈黙。灰色に染まった世界の中で、グレイの口角がゆったりと持ちあがる。
「九条冬也を味方につけたのは正解でしたね。あの兄妹には資質がある。人を惹きつけ、魅了し、惑わす、天賦の才だ。この試合において、これほどの武器は他にありません」
「……それが、なんだよ」
「輝かんばかりの素養の裏側にひそむ、淀んだ影。素晴らしい。絶妙なバランスだ。彼らの存在は人々を魅惑する。明るいばかりの光でない、その闇こそが最も蠱惑的なのです」
パン、パン、パン。規則的にくり返される、乾いた拍手の音。白手袋に覆われた両手が重なるたび、くぐもった音色が鼓膜を揺らす。
「灰李サマ。あなたもまた素晴らしい。『灰』に見合う中庸を貫く存在というのは、存外珍しいのですよ」
くつり、と喉をならして、グレイは天井をふり仰ぐ。
「素晴らしい。実に素晴らしい。まもなく試合は終わりを迎えることでしょう。いままでにない結末、いままでにない幕引きによって!」
高揚した口調で言い放った男は、ふと表情を引き締めて、視点を正面に戻した。
「さて、灰李サマ」
黒く底の見えないまなざしが、俺を射ぬく。唇はゆるやかな弧を描いたまま、グレイは尋ねた。
「契約内容の確認をご希望とのことでしたが、なにか、お気にかかる点でも?」
「……お前、何者なんだ」
「おや、以前申しあげたはずですが。『代理人』です」
表情の読めない男の顔をじっと見つめて、ため息を吐いた。冬也ならまだしも、心理戦なんて俺には無理だ。
「『蒼氓の天秤』は、傾いた」
「そうですね」
「試合が終わると言ったな」
「ええ。まもなく」
パチン。グレイが左手の指を鳴らすと、どこからともなく一枚の能面が現れでる。
「――いい色だ。惚れ惚れいたしますね」
顔の高さに浮かぶ『蒼氓の天秤』を撫でて、うっそりと呟かれた言葉に、寒気がした。
いったいどんな素材でできているのやら、想像もつかない奇妙な面。光沢のない表面は、いまやそのほとんどを灰色に侵食されていた。
かつて、その上では白と黒の二色が熾烈な争いをくり広げていた。互いに貪りあうように、せめぎ合い、まだらな紋様を描き続けていた。
今となっては、そんな痕跡はどこにもない。あっけないほどたやすく、『灰』は、他の二色を呑みこんだ。
はじめのうちこそ、微かな抵抗を見せた『黒』も、いつしか喰らわれるままに身を委ねていた。最後に残ったわずかな色味が、能面の端を孤独に泳いでいる。
「見ての通り、勝敗は明らかです。『蒼氓の天秤』はまもなく、あなたを勝者と断じるでしょう。――完全試合の成立と共に」
パーフェクトゲーム。実感の湧かないその言葉を、口の中でそっと転がす。
白でも黒でもない勝者。ゲームの枠から外れた規格外の展開を、無理やり決定づけるための圧倒的な終幕。それだけを、がむしゃらに求めてきた。
きっと、冬也が敵にまわっていたなら、こうも簡単な試合運びにはならなかっただろう。あいつが、夏生を抑え、自ら勝負を降りたからこそ、短時間でたどり着けたんだ。
わかってる。なんのために、ここまで来たのか。
冬也から託された願い。俺の望み。
栄光も名誉もどうだっていい。勝たなきゃいけないから勝った。定められた展開に従って、全速力で駆けぬけた。
――夏生を、救いたい。
幼いときから見守り続けてきた、大切な『妹』を解放するために。
握りしめた手のひらに、じりじりと汗がにじむ。
「はて。浮かぬ顔ですね、灰李サマ。喜ばしいことではありませんか。記念すべき『灰』の勝利。完全なる統一。そうそうまみえることではございません」
「御託はいい。……俺が、勝てば、天秤は望みを叶えるんだな」
「ええ、もちろん。すべては契約のままに」
グレイが何気なく手を振ると、『蒼氓の天秤』の姿が音もなく消える。そもそも本物であったのかさえ定かでないが、その扱いに違和感を抱いた。
……天秤は、この試合の主じゃないのか? いくら代理人っていったって、つまりグレイは配下だろう。
「戻せ」
「は?」
「一言一句、よく覚えておりますよ。灰李サマ。『戻してくれ……なにもかも、全部』――違いますか?」
黒く濁った瞳の奥で、よどんだ焔が揺れている。なにひとつ間違ってはいない。かつて望んだ、そのままの形がそこにある。なのに、どうして。
こんなにも、焦燥が胸を焦がすのか。
灰色の能面を身につけ、手指を組んだグレイが、クツクツとまた喉を震わせる。思わず一歩引いたとき、背後から壁が消失していることに気づいた。
振り返った先で、厚地のカーテンがほつれて闇に溶けた。広がる、果てない黒一色の海。
ぽつり、と浮かんだちいさな光の点が、やがて膨れあがり、そのなかで日常が揺れていた。真白い輝きに包まれる間際、グレイの声を聞いた。
「天秤は契約を違えません。必ずや、『望み』は叶えられましょう――」
警鐘は、いつまでも鳴り止まない。
*****




