22.
「にゃお」
「ん、こっちおいで」
みいが僕の後ろから部屋に入ってくるのに気付いたので、呼び寄せた。向日葵を刺繍しかけている布をその上に置きぱなっしにしている、小さな丸テーブルにコーヒーを置き、たまごサンドの封を縦に開ける。みいは僕の左側に陣取ったので、空いている左手で彼女の背中を撫でる。
忙しくなり始めた日々の、つかの間の休息。彼女を撫でながら、たまごサンドを右手で食べ、少し冷めて頃合いのコーヒーを一口飲むと、ふと一つ前の仕事を思い出す。
当時の仕事は、雇い主が自殺したことで消滅したが、サイフォンの使い方を教えてくれ、しかも自らが愛用していたそれを、新しい職場に旅立つ僕に与えてくれた元同僚は健在だ。彼は昔やっていた医者の仕事に戻ったそうだが、今頃どうしているだろうか。
時刻はまもなく、七時になろうとしている。本来僕たちが起きる時間だ。彼もまた、今起きたばかりだろうか。ふと、彼の声が聞きたくなった。
ダイニングと繋がる扉は開けたままにしてある、その方を見ると、相変わらず二人が説明書とにらめっこしながら工作を続けている。僕はマイク付きの有線イヤホンを取り、携帯電話に差し込んで、彼のそれに掛けた。
『おはよー! 水戸ちゃん、お久しぶり!』
朝の忙しい時間帯である、電話に出ないことも想像されたが、その元同僚は、ほんの五秒ほどで出た。しかし、どうしてこの男は、いつまでも僕を旧姓で呼ぶのだろうか。呼びやすいからなのだろうか。
「ん、おはよ。朝早くから失礼」
『いいよー、オレ、とっくに起きてるし。ていうか、どうしたの、急に』
「いや、ついさっき、君からもらったサイフォンで、コーヒー淹れてたら、君の顔を思い出したから。それだけ」
『それだけ、って、何かあれじゃん、昔の彼女を思い出したみたいな感じじゃん』
「僕にそんな情緒があると思うか」
『しっつれーい』
相変わらず、朝から騒がしい男である。今日も元気なのだろう。
『それで、仕事はどう? 上手くいってる?』
「まあ、それなりに。いい職場だとは思ってる。待遇もいいし」
『それなら良かったじゃん。ずっとそこで働けば?』
「それは分からない。またいい仕事があれば、変えるかもしれないし」
「えー、案外今の仕事が天職かもよ? こっちから、今、顔見えないけどさ、元気そうにしてるなーってのが声で分かるし」
「君は超能力者か」
『それはこっちの台詞だしー』
「……失礼。で、そっちはどうなんだ」
そうだ、聞きたいのはその話である。僕は彼のことが心配なのであった。紆余曲折あって辞めざるを得なかった仕事に、再び復帰したのだ、色々と引きずってはいないだろうか。
『割と上手くやってるよー。やっぱり、右手は上手く動かないからさ、手術は簡単なものしかできないけど、一応、本来の得意分野だから、できる範囲でちょくちょくやってるよ。いつもクソ兄貴が執刀医で、オレはもう、助手しかできないけど。その代わり、手術がない時は、小児科とか、画像診断とかを手伝ってるよ。オレが医学部出たときとは色々変わってるし、まだまだ勉強中だけど』
彼は相変わらず、機嫌のよい声で話す。問題が起きているようなことは、どうやらなさそうだ。
「上手くいってるようだな」
『まあねー。やっぱり、人間関係が面倒くさかった大阪の病院より、こっちの方が気楽かな。皆、オレの事情知ってるし、無理のない範囲で仕事させてもらってるし』
「そうか。じゃあ、復帰して正解だったか」
僕は何の悪意もなく、もう一度、彼の選択が正しかったと伝えた。彼に、自分の仕事に、もっと自信を持ってもらいたかったから。だが、その後、一瞬、すらすらと答えていた彼の応答に、間があった。
「……まあ、ある意味、ね」
「……どういうことだ」
僕はすかさず突っ込んだ。引き籠もっていたこともあるという彼のことだ、悩みがあるというなら、聞き出しておきたい。
すると、電話口の向こうから、ぴしゃり、という音が聞こえてきた。
『水戸ちゃん、水戸ちゃんを信用して言うけど、これから言うことは、誰にも言わないでね』
急に深刻な感じの声になる。あの音は、部屋の扉でも閉めた音だったのだろうか。
「僕で良かったら」
『えっとね……』
彼が僕に告げた言葉は、あまりにも予想外のことだった。予想外、だったが、最近、身の回りで予想外の事が起きすぎている僕は、逆に冷静になっていった。
「……分かった。今引き受けてる仕事が終わったら、そっちに行く」
『おう、約束な。それまでは頑張るから。――あ、そろそろ行かないと怪しまれる』
「ん。じゃあ、とりあえず」
『おう、また連絡するからな』
電話を切る。僕はもう一つのたまごサンドを手に取る。口にしたコーヒーは、彼が教えてくれた店の豆をずっと使い続けている。
――ああ、これも運命ですか、神様。
クリスチャンでもないのに、僕はいつしか覚えたように、手を胸の前で動かして十字を切った。




