8-4:影の神エルゲオン
くだんのダイアウルフは、洞窟の小部屋で力なく横たわっていた。刃物によって生じたと思しき、深い刺し傷——それが彼の負った唯一の怪我であり、致命傷でもあった。脇腹から流れ出る真っ赤な血が、彼の毛皮のおよそ半分を濡らしている。その血は洞窟の床まで到達し、真下の血だまりを絶えず上塗りしていた。
二人の同僚の命を奪った、憎き狼が目の前にいる。だが、その瀕死の体からは、かつての異様な雰囲気を感じ取ることはできなかった。神としての威厳はすっかり消え失せ、代わりに漂うのは、終わりの時を待つ気だるげな空気だけだった。
この狼は死ぬつもりでいたのだ——クロトールは、ヤンクログの止血されていない、生々しい傷口を見ながらそう思った。傷を負った瞬間から、あるいはそれよりずっと前から生きることを捨てていた。そして今、彼が求めるのは治療ではなく、安らかな死だけだ。
「ひどい怪我だろう? 当人は何も言わないが、苦しいに違いないのだ」
エルゲオンは、意識を失いつつあるヤンクログに目をやり、言った。
「助けてくれるか? 別に奇跡を起こして欲しいわけじゃない。ただ痛みを取り除くだけでいいのだ」
ミアは背負っていた荷物を降ろすと、慣れた手つきで道具一式を広げた。薬草、すり鉢、瓶入りの水——彼女の動きには一切無駄がなかった。
「誰か、手を貸してくれませんか?」
作業を始める直前、ミアが皆を見回して尋ねた。
「ヤンクログの体の大きさを考慮すると、わたし一人で全ての過程をこなすことはできません。手助けが必要です」
すると、ここでエイレナが突然顔色を変え、クロトールに声をかけた。
「クロトール、ここはわたしたちだけでやる。お前は何もしなくていい」
彼女はクロトールとヤンクログの間にある因縁について、しっかり覚えていたのだった。
クロトールは、彼女の気遣いをありがたく感じた。同時に、同僚の無念を思えば、何もしないのが最善だろうと考えた。この状況で自分を責める者はいない。ヤンクログの苦しみなど知ったことではないと、そっぽを向いて待っていればいいのだ。そんな思いが頭の中に去来する。だが——
「いや、私も手伝うさ」
胸につかえる迷いを打ち払うようにクロトールは言った。
「その方が早く終わるだろう? 手遅れになる前に始めた方がいい」
「いいのか、爺さん? だって、あんたとヤンクログは——」
フェリックスが念押しに尋ねたが、クロトールは考えを変えなかった。迷っている時間はない。こうしている間にも、ヤンクログは死に近づいている。自分が協力しなければ、おそらく間に合わないだろう。
薬を作るには、粉末をさらに細かくし、水に溶かす必要がある。クロトールは、粉末を水に混ぜる工程を担った。ミアから手渡されたいくつかの素材を、器に少しずつ加えていく。
自分はなぜこんなことをしているのだろう——クロトールは薬の材料を混ぜながら、自らに問いかけた。同僚の命を奪ったダイアウルフに、毒ではなく慈悲を与えようとしているなんて。奴に襲われた時、ロナスとファリオンは苦痛を伴って死んだ。それなのに、この狼には痛みを和らげる薬が与えられようとしている。
やめようと思えばいつでもやめられる。気に食わないならそうしてもいいはずだ。だが、クロトールはそれでも手を動かし続けた。その理由は、最初自分でも分からなかったが、やがてこれはヤンクログのためではなく、自分のための行いであることに気がついた。
目の前で横たわるヤンクログを見ても、憐れとは思わない。奴の結末は自業自得、因果応報だ。自分は奴のようにはならない。怒りに我を忘れるような真似はしない。それを示すために、今、こうしているのだと。
やがて強力な痛み止めができあがると、ミアは、ヤンクログの開きかけた口に薬を流し込んだ。途中、狼の重い上顎が下に落ちかけたが、仲間たちが手を貸したおかげで、薬はこぼれることなく胃に届いた。
時間が経つにつれ、ヤンクログの呼吸は緩慢かつ穏やかになっていった。このままいけば呼吸はいずれ停止し、安らかな最期を迎えるだろう。クロトールはそう思いながら、事の成り行きを見守っていた。
だがその最中、予想外の出来事が起きた。狼のまぶたが突然大きく見開かれ、瞳に光が宿った。死の直前になって、ヤンクログが意識を取り戻したのだ。
その変化に真っ先に気づいたエルゲオンが、たまらずといった様子で彼に歩み寄った。
「ヤンクログ……!」
ヤンクログは首をかすかに動かして、旧友の呼びかけに応えてみせた。それから彼は、自分を取り囲む人間たちを順に眺め、最終的にエイレナの姿を凝視した。
「<永遠の夜明け>か——」
ヤンクログのそのつぶやきは、呼吸と同じくらいゆっくりだった。その後、彼は思うように動かない口を動かして、最期の言葉を遺した。
「あの怪物を、ドラゴンを殺せ。あれを生かしておけば森は焼かれ、神々は食われるだろう」
エイレナは息をのみ、何かを言おうとして口を開きかけたが、遅かった。<森の民>が信仰する気高き神ヤンクログは、目を濁らせ、二度と動かなかった。
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