第1章 旅の始まり
天の底が抜けたかのような豪雨の夜。ひとりの男がアークム村の寺院の門を叩いた。男は、ずぶ濡れであることはもちろん、体中に明らかに戦闘によるものと思われる無数の創傷、火傷を負っていた。男はただちに院内に運び入れられ、僧侶たちの治癒魔法を施されることとなった。が、傷はすでに致命傷に達しているほど深く、懸命の治癒魔法の甲斐もなく男は息絶えてしまった。これだけの深傷を負いながらも、寺院の門前まで辿り着けたこと自体が奇跡と言えた。
男は鎖帷子を着込み、長剣と小型盾を携えた戦士だった。身分を証明するようなものは何も所持していなかったが、懐に一葉の書簡を忍ばせていた。そこに施された封蠟の紋章を見て、僧長は目を見張った。それは、ここ、ソルスタロン連邦国の首都、セントリーア州国王家の紋章に相違なかったためだ。叩き付ける雨が懐にまで浸透していたのだろう。書簡の宛名はインクが滲んで読み取り不可能であった。
男の亡骸を手厚く葬るよう僧侶たちに命じてから、僧長は書簡を両手で持ったまま立ち尽くした。セントリーア王家の封蠟がされた書簡。それは、ソルスタロン連邦国の最西、ロングウィ州国のさらに奥地、この田舎村の小さな寺院を預かる僧長の手には、明らかに余る代物だったためだ。
「死んだ男が何者であれ、これはこのままセントリーアに届けねばならない」
翌朝、僧長はその任務に就かせるべく、ひとりの僧侶を呼び出した。
「委細、承知いたしました」
アークム村の寺院に所属する僧侶、エリィは、僧長に恭しく頭を下げて、書簡をセントリーア州国へと届ける任務を承諾した。
「よろしく頼むぞ。お前であれば、何の心配もなく任せられる」僧長は頷いてから、「長旅になるだろう。あと何人か連れていくがよい。選抜はお前に――」
「いえ」エリィは頭を上げると、僧長の言葉を遮り、「ただでさえ寺院は多忙なのです。これ以上人手を割くわけにはいきません」
「その心遣いはありがたいが、さすがにお前ひとりというわけには……」
エリィの言葉は真実だった。田舎の州国であるロングウィの、さらに奥地である、このアークム村には、警備騎士団の分署は未だ配署されておらず、寺院が委託という形で警備騎士団の仕事を兼務している。アークムの寺院は通常の寺院としての機能の他に、警備騎士団として防犯、治安維持の仕事も抱えているのだった。だが、そのためもあり、アークムの寺院に所属する僧侶たちは戦闘力に秀でたものが多い。中でもエリィはトップクラスの能力を誇り、今回、僧長が危険な長旅に彼女を指名したのも頷ける話だった。
「そうだ」と、エリィは、「あの男を連れて行きましょう」
「あいつをか? しかし、寺院としての仕事に部外者を巻き込むことになるのでは……」
「いい機会ではありませんか。あの穀潰しにも少しは働いてもらわないと。そうだ、セントリーアに着いて用が済んだら、あの男を置いて私ひとりで帰ってきますよ。いいやっかい払いも出来ます」
「そ、それは……」
「いい考えでしょう。それに……」
「何だ?」
「あの男、腕だけは確かですから。承知していただけますよね?」
「あ、ああ……」
エリィに半ば押し切られる形で僧長が首肯すると、「ありがとうございます」とエリィは微笑んだ。背筋を伸ばしてまっすぐに立つと、五フィート半(約百七十センチ)に届く、女性としては高めの身長を持つ彼女は、老境の半ばに到達した僧長の目を若干見下ろす形になる。「では」とエリィは一礼してから、肩に掛かる程度にまで伸ばされた赤毛の髪をなびかせて踵を返した。
「エリィ」彼女の背中を僧長が呼び止めた。振り向いたエリィに、「くれぐれも書簡を開いてはならぬぞ。我らごときが関与する問題ではない。無事にセントリーアへ届けさえすれば、それでよいのだ」
「承知しております」
エリィは上着の懐に――僧長から託された書簡が入っている懐に――手を当て、生地越しに封筒の感触を確かめた。
寺院の建物を出たエリィは、掃除をしていた若い僧侶を呼び止めて、
「あの穀潰しは?」
「ああ、ストラグルですか」
「そんな名前だったな」
「朝食を食べたあと、どこかへ行きましたよ。たぶん、前庭じゃないですか? 食事のあとはいつもあそこで寝ていますから」
「ありがとう」
エリィは前庭へと足を向けた。
寺院前庭の芝生の上に、ひとりの男が寝そべっていた。時折吹き付ける風が茶色い髪をゆらす。芝生を踏む足音が近づいてくると、男はゆっくりとまぶたを開いた。
「おい」頭上から声が浴びせられる。腰に手を当てたエリィが見下ろし、男の顔に影を作っていた。
「仕事をやる」
エリィの声が続いた。
「仕事?」
「ああ。お前がここに転がり込んできて、もうひと月くらいになるな。行き場のない浪人戦士とはいえ、いつまでもタダ飯食ってるだけじゃあ、お前も心苦しいだろう」
「いや、全然」
「少しは苦しがれ。とにかく、立つんだ」
エリィに促されて、男は立ち上がる。六フィート(約百八十センチ)に達する長身のこの男、ストラグルと相対しては、さすがのエリィも視線を上げる姿勢となる。
「で」男は、耳が露出した程度の長くない髪に手を入れて、わしゃわしゃと掻くと、「仕事って、何?」
「お使いだ」
「お使い、ね。どちらまで?」
「セントリーアだ。すぐに支度をしろ」
「そうか、セントリーア……って、おい! 冗談だろ!」
「いたって真面目だが?」
寺院に向かって立ち去ろうとしたエリィは振り向く。
「いやいや。このド田舎からセントリーアまでったら、馬でも片道、三日……いや、下手したら四日はかかるぞ。まあ、場所にもよるが」
「首都のセントリアネスだ」
「なら、四日は確実だ」
「そうだ。だから、早く支度をしろ。庶務に言えば、お前の荷物を用意してくれるから。出発は三時課の鐘が鳴る時分(約午前九時)。正門前に集合だ」
「……なんだよ」
男は、手を振りながら歩き去るエリィの背中を見送って嘆息した。
「しようがねぇな……」
服についた芝生を払っていると、
「おーい! ストラグル!」
声が掛けられた。正門をくぐってきた少年のものだった。その隣にも、もう少し年下の少年がいて手を振っている。
「おう」男、ストラグルも笑顔を見せて手を振り返して、「朝のお祈りか」
「うん。ねえ、また今度、剣を教えてよ!」
「ああ」
二人の少年は、追いついてきた母親に連れられて寺院のほうへ歩いて行った。
庶務に寄り旅立ちの支度を済ませたストラグルは、その足で倉庫に向かった。壁に立てかけてある長短二本の剣を手に取り、鞘から一本ずつ引き抜いて銀色に輝く刀身を眺める。毎日の彼自身の手入れにより、その輝きにはいささかの衰えもない。剣の具合を確かめたストラグルは次に、剣の隣に置かれた箱を開け、中に入っている脛当て、手甲、胸当てといった軽装の鎧を装備していく。全て、彼がこの寺院に転がり込んで来たときに身につけていたものだ。剣同様、手入れを怠ることのなかったそれら防具を身につけ終えると、両前腕手甲の上からさらに小型の盾を装備した。最後に、二本の剣を通した革ベルトをたすき掛けに固定、背中に剣を背負う形とした。長剣、小剣の二本持ち。盾は手甲直付け型の小型のものを使用し、手持ちの盾は持たない。全身鎧にはせず、急所だけを保護する最低限の守りで素早く動く。これが彼――ストラグルの戦闘スタイルだった。
ストラグルが門前に向かっている途中で、三時課の鐘が鳴った。門前には、二頭の馬とともにすでにエリィが待ち構えており、見送りの僧長他、数名の僧侶たちも集まっていた。
エリィも鎧を着込み、装備万端整えている。鎧こそストラグルと同じような軽装だが、彼女は馬の横に中型の盾を、その反対側には、彼女の――僧侶の使用する武器、槌矛を提げている。二.五フィート(約七十五センチ)程度の長さの鉄棒の先端に、三角形の鉄片が放射状に生やされており、長い棒を突き刺した果実のようにも見える。彼女ら僧侶は、教義により戦いにおいて刃物の使用が禁じられているため、こういった打撃武器を用いるのだ。
ストラグルも剣を差した革ベルトと、両前腕の盾を外して馬にくくりつける。二人の馬には、その他にも水、食料を入れた革袋がいくつも提げられていた。エリィとストラグルが鐙に足を掛けて馬に跨ると、
「頼むぞ、二人とも」
僧長が声を掛けた。エリィは、「お任せ下さい」と頭を下げ、ストラグルは、「任せときな爺さん――」と言った直後、「いてっ!」エリィに鎧で守られていない腿の裏を蹴られていた。
見送りの僧たちに手を振って、二人は寺院の門を出た。
「二人とも馬があてがわれるなんて、豪勢だな」と馬上からストラグルが、「俺はまた、てっきりロバ一頭に荷物をくくり付けて、徒歩の旅になるのかと思ってたぜ」
「馬に余裕があったからな」
併走するエリィも馬上から答える。
「それとも、馬を使うような急ぎの用事だったりして――」
「夜までには、マール村近くの宿駅に着けるだろう。今日はそこで一泊して、明日の早いうちに州境のチェスターに入ろう」
ストラグルの言葉に被せるようにエリィは言うと、手綱を引いて馬の速度を一段階上げた。
「待てって」
ストラグルもそれに追従する。僧侶と戦士、二人を乗せた二頭の馬は林に囲まれた村道を疾駆し、村や町同士を繋ぐ街道を目指した。
街道に出てしばらく馬を走らせた二人は、昼食を兼ねて休憩をとっていた。荷物を下ろした馬にも、街道沿いに生えている草を食ませている。近くには馬に水を飲ませるのにちょうどよい小川も流れていた。
「なあ」エリィが声を掛け、「お前の名前って、本名なのか?」
「どうしてだ?」
先に食事を済ませて、草の上に寝転がっているストラグルが顔を向けた。
「だって、足掻くなんて名前、普通つけないだろ」
「うちは普通じゃなかったの」
その話題には乗り気でないのか、ストラグルは寝返りをうってエリィに背中を向けた。
「どうしてうちに転がり込んできたんだ?」
エリィは話題を変えてきた。
「……ちょっと、野垂れ死ぬ寸前だったんで。いいところに寺院があったって思って」ここでストラグルは上半身だけを捻って顔を向けると、「感謝してるぜ」
「まあ、困っている人を助けるのも寺院の大事な仕事だからな。うちに来る前は、どこにいたんだ?」
「色々。転々としてた」
「冒険者?」
「俺がそんなふうに見えるか?」
「まあ、見えないな……じゃあ、傭兵?」
「そんなところ」
「ふーん……あの時分、この近くで傭兵ってなると……お前、もしかして、イーサで起きた戦いに参加してたのか?」
ソルスタロン連邦の西の隣国、イーサ王国では、数ヶ月前に内乱が起きていた。国王に対して複数の領主が謀反を企てたのだ。国内の主立った領主が皆内乱側に加わったため、現王を追い落として革命なるかと見られたが、ソルスタロンも含めた隣国の調停介入があり、流血は最小限に抑えられたまま戦いは終結した。現国王は、内乱側の提示したいくつかの要望を呑む条件で、現体制を存続することとなった。内乱が起きたのは、ひとえに王の政への怠慢が原因だった。領主たちに対する締め付けばかりをきつくして、王としての責任を満足に果たさない現王への反感が爆発しての謀反だったのだ。
「……ああ」ストラグルはぶっきらぼうにだが、自身がイーサの戦いに参加していたことを認めた。
「そうなんだ。で、どっち側だったの? 王国側? 革命側?」
「どっちでもいいだろ」
ストラグルは再びエリィに背中を向けてしまった。エリィも、その話題を続けることはやめ、
「最近、多いそうだな。そういった内乱。平和が続きすぎてるからだ、なんて話もあるけれど、平和なのはいいことじゃないか、なあ」
「俺みたいな傭兵は食いっぱぐれるけどな」
「別の仕事をすればいいじゃないか。それこそ冒険者とか」
「パーティ組んで、みんな仲良く、お手々繋いで地下迷宮探検か?」
それを聞くとエリィは吹きだして、
「お前、冒険者に妙な偏見を持ってるんじゃないか? あれはあれで過酷な商売だと聞くぞ。命を危険に晒して地下迷宮に潜っても、お宝はもう別の冒険者が持っていったあとでした。なんてこともざらにあるらしい。首尾よくお宝にありつけたとしても、全員で平等に分配が基本だからな。パーティの人数が多い方が成功率、生還率も高まるけれど、その分ひとり頭の取り分も減るしな。
お宝探し以外に、魔獣、魔物退治なんて危険な仕事を受けるやつらもいるそうじゃないか。まあ、今はそういう仕事はめっきり減ったそうだけれどな。うちの僧長が現役の時代は凄かったらしいぞ。あちこちに未踏の地下迷宮がごろごろしていて、ちょっと人里離れたらもう、魔獣や魔物がうようよ跋扈してたって。魔物だけじゃなくて、野盗もごろごろ。こんなド田舎の街道でさえ、護衛を付けないで商隊が通るなんてことはあり得なかったって話だ。おまけに、邪神復活を企む悪い魔法使いなんてやつがいたりして、言い方は変かもしれないけれど、活気のある時代だったんだな。良くも悪くも」
「ま、冒険者なんて、俺の柄じゃないってこと」
「そうだな。お前、チーム行動とか苦手そうだもんな」
「否定はしないよ」
「歳は、いくつ?」
エリィはさらに話題を変えてきた。が、それにも乗る気はないのか、ストラグルは変わらず背中を向けたまま、「忘れた」と素っ気ない返事を返すだけだった。
「見た感じだと……二十五、六ってところだな」
ストラグルは何も返さない。図星をついたのかもしれない。
「私と同じくらいだな」
「そうなの?」
ごろり、とストラグルは百八十度体を転がしてエリィに正対すると、じっと顔を見つめてきた。
「何だよ」
「見えないな。もっと下かと思ってた」
「そう?」
エリィの顔が若干ほころぶ。
「本当だって」とストラグルは、「俺はまた、二十くらいかと」
「そう? それくらいに見える?」
エリィの頬に赤みが増した。
「見えるって。だって、小娘のくせに生意気だなって思ってたから。性格もきついし――ぐわっ!」
ストラグルはエリィのブーツの底を顔面に受けた。




