62 中学三年修学旅行最終日深夜・風見百合子の決断
ナミーががたがた震えていた。
早く、着替えさせなくちゃ。
「ナミー、一度、お風呂場に行こう?」
隣でいびきをかきながら眠っているハルに聞こえないように、私は小さな声でささやいた。
浴衣姿で、足元が少してかっている。汗をかいたわけじゃない。原因はわかっている。
──そうだよね、シート、もってくるわけ、ないよね。
私はすばやくかばんから自分の着替えを取り出した。
「少しシャワー浴びた方がいいと思うんだ」
「そんなことできるわけないでしょ!」
とがった声で返事をするナミー。きっとパニックに陥りそうなのをこらえているに違いない。ナミーはもともと、そういう子だ。最初は自分がしたことを決して認めたがらない。きっとジュースをこぼしたとか、いろいろな言い訳をするに違いない。でも、その時期が過ぎてから、初めて泣く。きっと受け入れられないんだなと私は思う。
でも、確かにそう。今ぐっすり眠りつづけているハルが、目を覚ましてしまうかもしれない。
「でも、ぬれてたらまずいよね、先生のところに報告に行こうか」
「そんなこと、できるわけないじゃない!」
小声で、それでもきっとナミーは言い返した。
「そうか、そうだよね」
私も納得した。きっとそうなのだ。ナミーはどんなことがあっても認めたくないのだ。
十五歳、おねしょが直らない自分を。
私はすばやく、ナミーの浴衣と自分のとを取り替えた。ナミーも放心状態からだいぶ立ち直ったようで、
「私、私」
何度もつぶやいた。におっている。これだと確実にばれてしまうだろう。量も相当なものだ。それほど飲み物を取ったわけでもないのに。でも病気だからしかたないのだ。ナミーを責められない。
たとえばおもらし、これは途中で「トイレに行きます」と言わなかった自己責任。
だから私は同情しない。
だけど、おねしょは違う。
どんなに気を遣ったって、どんなに水を控えたって、やっちゃうときはやっちゃうのだ。
五年くらい病院に通っていたけど、それでもだめだってことは。
ナミーを責めるわけにはいかない。
だけど学校はそんなに甘くない。みんなナミーの自己管理がなってないからだとか、たらすなんて気持ち悪いとか、いろいろと悪口を言うに決まっている。
特に修学旅行四日目のおねしょ。これは言い訳が見つからない。
「なんとかするわよ、ナミー、とにかく私の言う通りにして」
ナミーはこくっとうなづき、下着とパットを持って、トイレに駆け込んだ。
──なんとかすると、言っても、どうしよう。
まずはかけ布団を重ねた。これはまずい。びっしょり。急いで処置しないとまずいんだけど、でもハルがいる以上大きな音は出せない。
──ハルにだけは知られたくないって言ってるもんね。
ハルは気持ちよさそうにおねむしている。
もし私ひとりだけだったら、ある程度ごまかせる。大急ぎでシーツをもみ洗いし乾かし、ぎりぎりまで乾かして、あとはジュースを思いっきりこぼす。その後で「先生ごめんなさーい」と言うのがセオリー。
あと、もうひとつの方法が、私とナミーとの入れ替わり。つまり、おねしょは私の仕業にするという方法。
私がやっちゃったってことで、直接先生のところに言いに行く。そうすればナミーは無傷で済む。私は生まれてこのかたおねしょもおもらしもやったことがないし、ちょっと説得力がないかもしれないけども、まあ最後の夜だしごめんなさいと泣いて謝ればなんとかなる。
「ナミー?」
着替えたナミーはうつむいて、しょんぼりと出てきた。ぐっしょり濡れたままの浴衣は私のに換えたので、見た目何があったとも思えないけれども。
「私ちゃんと、水控えたわよ。お茶も飲まなかったわよ。何もしなかったわよ!」
「わかってる、ナミー」
「私、ちゃんとしたのよ。きちんとしたのよ」
「ナミーは悪くないわよ」
あの日と同じだった。ナミーの家に初めて泊まりおしゃべりをした夜のこと、気がつくと床までしっとりぬれていた布団にびっくりして、慌てて起こした日のこと。目の前でお母さんにお尻を叩かれてたこと。泣きじゃくって、濡れたパジャマのままで「私ちゃんと、薬飲んだ、ちゃんと、私」言い訳していたナミー。
きっとつらいんだと思う。
きっとみじめなんだと思う。
私は学校でナミーのもっていたものを全部取り上げてしまったわけだし、さらにどんどんいろんなものを手に入れている。だけどナミーは最初からあれしかなかった。あの日、私は、すべてを受け入れる覚悟をした。
ナミーを守るって。
私が奪ってしまったものの代わり、ナミーに私が全部あげるって。
それに、私がおねしょしたって、周囲にはあきれられちゃうかもしれないけれども、仲良したちを失うことないから。男子たちには噂されちゃうかもしれないけど、それは仕方ない。うちのクラスの男子なんて興味ないし、ひらきなおっちゃえばいい。ネタにもできる。私のキャラクターなら大丈夫。
だけど、ナミーは無理だ。
ナミーの優等生雰囲気がくずれたら、あの子はまたすべてのものを失ってしまう。
おねしょ、なんて、絶対にしそうにないイメージ。
それがくずれたら何もなくしてしまう。好きな人も、何もかも。
どうしようか、さて。
「ナミー、先生たちには話して、ないんだよね」
恐る恐る尋ねた。
「何をよ!」
「おねしょのこと」
「あたりまえよ! とっくに直ったわよ! そんなの!」
ナミーが二年の宿泊研修の時に失敗しかけたのは知っている。違うクラスだったけど、真夜中にそっと私の部屋に来て相談してくれたから。でもそんな大事にはなりそうになかったので知らん振りして押入れに入れておけばいいとはなしておいた。
治ったんだと思ってた。
きっと気がゆるんでしまったんだろうな。
「なら、大丈夫よ」
「どうしてそんな無責任なこといえるのよ! あんたはいつだって大丈夫大丈夫って言ってるけど、大丈夫だったことなんて!」
気が立ってるんだ。ナミーは。落ち着かせなくちゃ。私はナミーの抱きしめている濡れた浴衣を受け取り、いつもの脳天気な顔をこしらえた。
「いざとなったら私がおねしょしちゃったことにすればいいし、乾かしておいて知らん振りしてもいいし。どっちがいい? ナミーのしたいようにすればいいよ」
この瞬間ナミーの顔にはほっとした表情が浮かんだ。
やはり、私がやるしかないよね。
「でも、そんな、できるわけないじゃない!」
「いい? ナミー? 今日はここで私とナミーがおしゃべりしていたことにするの。で、ベッドの中でしゃべっているうちに、いっしょにねちゃって、私がおねしょしたことにするの」
「そんな」
「でも、それしかないわよ。いい、ナミー、今から演技開始よ。おねしょしたのは私なの。なぐさめてるのはナミーなの。いい? 絶対に、そうするのよ」
ナミーは何も言わなかった。ただ呆然としたままだった。
「いい、行くわよ」
戸を出たところでぴくっと引いた。他のクラスの子たちがこっそりうろついている。
「まずい、隠れてて」
なんだろう、じゃま。
「出られない?」
「うん、出られない。もう少し様子を見ようか」
時計を見ると、今は二時半。
ナミーももじもじしながらそこに立っている。
「佐賀さん、起きてない?」
起きているわけがない。いきなりぱたっといびきが止まったかと思ったら、今度はまた大きな口をあけて「があっ」と唸る。戸を開ける時に聞こえたら、そっちの音で隣の部屋の子が目を覚ましそう。
「うん」
「私、やはりできない」
「じゃあどうするの?」
真っ正面から目を見つめて尋ねた。
「おねしょしたことばれたら、霧島くんに振られちゃうよ。それに」
もうひとつ、ぐさっとくることを言う。
「ナミー、ハルにも嫌われたらどうするの?」
しかし、動かない。こまった。何度かうろうろしようとしたのだけど、外には出られない。そうこうしているうちにだんだん時間は経って行く。
「ドリ、あのね」
遠慮がちにナミーが切り出したのはその時だった。
「知らん顔して、シーツだけどこかに隠せない、かな」
「え?」
「だって、乾かせば、大丈夫かなと思って」
真剣な顔をしている。
ちょっと待ってよ。もちろん乾かそうと思ったら洗面所にあるドライヤーで乾かせるかもしれないけれども。
「だめだよ、そんなことしたら。たいへんなことになるよ」
「シーツだけかくせばいいのかなとも思うんだけど」
ナミーは何度も言い募った。
「だって、そうしないとまずいもの。だって」
「ナミー無理だよ。汚したんだからしょうがないよ」
「だから生理だったってことにしたら? それでもだめかな? ねえ、だめかな」
全身震え出した。こんなに肩からがたがたロボットみたいに揺れ出したナミーを見たのは初めてだった。喉から搾り出すように、ハルが気づかないように、小さい声だけど、歯と歯がかちかち言っているようにも見えた。
ナミーは必死なのだ。
自分のおねしょがばれないようにするために、必死にいい方法を考えている。
私も真剣に考えているけれども、だけどどうしようもないよね。
ものがね、おしっこだからね。どうしようもないよね。
だってにおうし、ばれてしまう。それだったら早い段階でさっさと片付けてしまえばいい。
先生だってわかっているはずだ。
「わかった、大丈夫」
これは少し心配なのだけど、やるしかない。
私はすばやく計画を立てた。
「シーツをたたんでおいて、どこかに隠しておこうか」
──宿泊研修と同じように。
ぐっしょり濡れたシーツを畳み込み、すばやく私はベッドの下においた。
そこで隠す方法があるはず。
──大丈夫、あの時だってばれなかったんだから、今回だって。それにもし万が一ばれてしまったとしたらその時は、私が責任を取る。絶対、ナミーを守るから。
私が転校してきてから、ナミーは今まで持っていたものを全部、なくしてしまった。
仲良くしてくれた友だちも私が奪った形になってしまった。
決してそんなつもりなんてなかった、なんて言葉、言い訳になんてならない。
それは、私が一番よっくわかっている。
もう許してくれないかもしれないけど、私は償いをするために青大附属に入学した。
だから。
「ナミー、いいこと思いついた。いい? 私に任せて」
ハルは相変わらず口を開けたまま、ごうごう鼻を鳴らして眠っている。可愛く賢いハルにこんな秘密があるなんて最初はびっくりしたけど、そういうとこ、あったっていいよね。寝ている時はちょっとうるさいかな、って思ったけど、今ならかえってラッキーかもしれない。どうか、目が覚めませんように。




