60 中学二年秋 佐賀はるみ「ゆらぎの予感」
47 中学二年・秋 佐賀はるみ「ゆらぎの予感」
1
轟先輩が私に声をかけてきた。
「佐賀さん、悪いんだけど、コピーの手伝いしてもらえないかなあ」
干し柿を顔にしたような轟先輩の様子は、私が一学年下だと思えないくらい腰が低かった。前からこの先輩は、下級生にもそうだった。みんなから馬鹿にされていることを気づいているのだろうか、とふと思った。
「わかりました。お手伝いします」
たまたま教室には私しかいなかった。他の三年女子先輩たちは、私の顔を見るのも不愉快なようでさっさと出ていってしまった。二年の女子たちも、習い事とか塾とかそれなりの理由をつけていったし、私は健吾を待っていたからどうしても残らなくてはならなかったわけだったし。
轟先輩だけがなぜか、大量のコピー用紙を抱えている。
「ありがとう、助かる。明日までに製本しておかないとまずいんだけど、私ひとりじゃあ、ねえ」
珍しいことだなって思う。いつもだったら評議委員会関連の資料は三年の先輩たちがどんどんこしらえてしまうはずだった。下級生評議たちの出番はほとんどない、とも聞いていた。だから先輩たちが修学旅行に出かけている間、こっそりと話を煮詰めなくてはならなかった。ある程度形をこしらえておいて、先輩たちに「このやり方でやりたいんですがいいですか」と提示しなくてはならなかった。健吾がどうしてもひとりでやりたがったこともあって、私はただ黙って話を聞いていただけだった。でも、私たちの言うことを先輩たちが聞いてくれるとは最初から思っていない。あっさり退けられてしまうだろう。健吾はそのあたりに気づいていない。
「どのくらい作るんですか」
「そうだね、だいたい五十部くらいかなあ」
それならたいしたことない。私は轟先輩の猫背姿を追いかけながら、襟元のリボンをぴんと伸ばした。さっき鏡で自分の全身をチェックした。乱れは、ない。
2
コピー室に入り、轟先輩はコピー機のカバーを取り外した。うちの学校にはコピー機が五台備え付けられていて、先生の許可さえあれば無制限で書類を複写することができる。
「大丈夫、ちゃんと許可証貰ってるから」
轟先輩は私の問いにすぐ答え、胸ポケットの生徒手帳に挟んだ「許可証」を出した。
以前はあまりうるさい規則なんてなかったと聞いている。あまりにもコピーの量が増えすぎたので先生たちがうるさくチェックを入れるようになり、百枚以上刷る場合は必ず「許可証」を貰わなくてはならなくなった。もっとも私と健吾が共同でこしらえている「青大附属スポーツ」……週一回の割合で掲載している学内スポーツ紙……については、暗黙の了解でそれほど問題はなかった。
「最近はやだよねえ。細かいことばっかりいろいろ言われてねえ。佐賀さんもそう思うことない?」
「いえ、別に。私、これが普通だと思っていますから」
下手なことを口にすると、危険だと評議委員会の中ではいつも気を遣っていた。私なりの防御策だった。いくら私を守ってくれる王子様が傍らにいたとしても、その剣が鋼でないことを知っている。私も懐剣を取り出せるようにしておきたかった。
「そうなんだあ、じゃあこれを五十枚ずつ上からコピーして、机にどんどん並べていってもらえないかなあ」 間延びした言い方で、轟先輩は前歯をしゅうしゅう言わせた。この先輩は、子どもの頃に歯の矯正をしてもらわなかったらしくて、歯並びが信じられないくらい乱れている。ふつう歯というと、前からずらっと並んでいるのがふつうなんだけど、轟先輩の場合笑うと前歯二枚が唇からはみ出し、脇の牙にあたる部分がでこぼこに引っ込んでいる。しゃべる時、その隙間から不気味な音がする。先輩自身は気がついているのだろうか。ただでさえそれで不気味がられていることを。もともと轟先輩は他の女子たちからも、陰でさんざん笑われているのを私は何度も耳にしている。女子としては成績がかなり良くて、噂では将来司法試験を目指すそうだ。自立できる仕事をしたいそうだ。なんとなく納得する。
私は一枚ずつ言われる通りにコピー機の透明な板部分へ紙をセットした。
「あ、そっち向きじゃない、横向きにするの」
「すみません」
間違えた振りをした。先輩たちと何かをする時は、時々弱いところを見せると、ほんの少しやりやすくしてくれるのがいつものパターンだった。誰も自分より下の存在がいると思い込みたいのだろう。私も同じかもしれない。
轟先輩はとりたてて何も感じないようで、私がコピーした紙束を丁寧に並べていき、二つ折りにまとめはじめた。十枚ずつ揃えて指の腹で折り目をこすり、ぱぱぱっと広げて、今度は生徒手帳を取り出しごしごしと一枚ずつ手押ししていた。相当時間かかりそうだ。
──健吾に連絡いれておいたほういいかも。
鞄は置きっぱなし。私が教室に残っていることくらいはわかるだろうけど。
最近は健吾も次期評議委員長になるための勉強が忙しいらしく、私とは去年ほど一緒に歩く機会も少なくなった。それはそれで気にならない。健吾自身はかなり落ち着かない様子だった。たまにふたりっきりになる時は、突然信じられないような行動を取ろうとする。どういうこと?と問われると、口に出せないようなことをだった。健吾がやきもちやきなのは今更でもないけれど、していいことと悪いことがあるんじゃないのではと、私は思う。
──「おしおき」の続きをするだなんて、言われたくないな。
だいたい十枚くらい刷った。まだ大量に残っているようだった。こんなにこしらえて本当に必要なんだろうか。轟先輩も、三年先輩たちに好かれていない私よりも、他の女子に頼めばよかったのに。
ドアがいきなり開いた。
「すごいな、もうここまで刷ったんだ」
立村先輩が立っていた。六月のだいぶ熱い時期に、長そでのシャツとネクタイを隙なく着付けて、鞄を抱えてちらっと私を見た。一礼すると、かすかに笑って机の前にかがみこんだ。
「佐賀さん、どうもありがとう。助かるよ」
平和そうなな口調だった。
3
立村先輩は机の側に畳まれていたパイプ椅子を引っ張り出し、座り込んだ。手伝おうと言わないのはどうも、先輩らしくなかった。私も立村先輩と直接話をするようになったのは半年くらいだけれども、大抵の場合すぐに、「あ、これは俺やるよ、いいよいいよ」とかいって仕事を取ってしまう癖の持ち主だ。なのに今は、轟先輩の手伝いなんて一切せずに楽しそうに眺めている。せっかくだったら紙を折るなりなんなりしてくれればいいのに。私だったらそう頼むだろう。それとも、清坂先輩との関係もあってあまり私の手伝いをするのはよろしくないと思っているのだろうか。立村先輩が私のことをあまり快く思っていないのは重々承知だけども、それ以上に私に君の悪い親切をしてくださるのはもっと気持ち悪い。
理由は、あるから、疑問ではないのだけど。
「轟さん、早いよなあ。どうしてそうぱっぱと作業が進むんだ?」
「こういうのしか私、取りえないから」
「そんなことないよ、十分過ぎるよ。俺なんてこれ何時間やったってたぶん終わらないよ」
両腕をテーブルにぺたっとくっつけ、浮き輪をかかえるような格好で立村先輩は机にうつぶした。修学旅行が終りまだ一週間も経っていないのに、なんだか先輩たちの人間関係が微妙に変化している。私だけだろうか。健吾は全然気がついていないみたいだけど、たとえば轟先輩と立村先輩との間に流れる気安い雰囲気とか、清坂先輩に対してさりげなく椅子を勧めたり通路側を歩いたりとかして守っているようすとか。もともと立村先輩はレディー・ファーストをモットーとする人だから決して珍しいことではないのかもしれないけれども、かすかにその色合いが空色から夕焼け色に染まった風な雰囲気が漂っている。
「轟さん、俺も手伝おうか」
「いいよ、立村くん、それだったら半分、佐賀さんと一緒にコピーの手伝いしてもらえないかなあ。そっちの方を進めてくれると助かるんだ」
「わかった。そうだな。五台もあるんだよな」
──それは余計なお世話かもしれない。
「いいです、先輩、私がすべてやります」
本心を見抜かれていなければ、たぶん当然の返事。轟先輩は返してきた。
「委員長をこき使ってあげなさいよ」
いびつな柔らかい空気が揺れる。
立村先輩は私の隣のコピー機から、緑色のカバーをはがした。きっとこちらはほとんど使用したことがなかったのだろう。埃が溜まっていた。電源を入れるとぎしぎしと機械が身体を整えるような音がした。しばらく使用されていなかったのだろう。
「音がずいぶんうるさいよな」
「はい」
会話が聞き取れないほどの大きさだったことを、私はあえて言わなかった。
「じゃあ半分、プリント貸してもらえないかな」
「はい」
ゆっくりと開きながら、立村先輩は横にぴたりと原稿を合わせ、慎重に枚数ボタンを選んでいた。B4の大きさで舌を出しつづけるコピー機に、何か話し掛けていたように見えた。
4
立村先輩イコール、梨南ちゃんの王子様。それ以上の関心はなかった。
一年の頃から梨南ちゃんのことを可愛がって、暇さえあるといろいろ話し掛け、さんざん酷い言葉をぶつけられてもいつも笑顔で梨南ちゃんの姿を探す人。評議委員会に入ってみてさらに思ったのは、梨南ちゃんに一番相応しい人。イコール、私とは全く共通点を見つけられない人。
ある程度私も、健吾から立村先輩という人がいかに風変わりであるかを聞いてはいた。なにせ、あの梨南ちゃんを懐かせるすべを持っている人なのだ。もっとすごいのは、梨南ちゃんがさんざんわがままを言って困らせても、それを楽しんでいるようなところが見え隠れする。私も八年間梨南ちゃんとつきあってきたけれど、最後まで彼女の行動を「楽しい」と思うことはできなかった。いや、もちろん友情らしいものとして認識はしてきたのかもしれないけれど、ある時期を境にそれが単なる勘違いであることに気づいてからは、もう二度と理解できない感情として捕らえるようになった。あの感覚を、プラスの方向で受け取る人がいること自体私には信じられなかった。
健吾も理解できないと言う。私の味方をしてくれる人はみなそうなのかもしれない。
はっきりしているのは、立村先輩が決して私と共感しあうことはないということだけだった。
全部コピーが終り、轟先輩が手際よく間に五十冊分のコピー本を束ね、あとはホチキスで留めるところまで差し掛かった時だった。すっとんきょうな声を上げた。
「ごめん、もうひとつ忘れてたわ」
「どうした?」
頭を抱える轟先輩。だんごむしっぽく見えた。
「表紙、忘れてたわよ、悪いけど教室に戻って持ってくるから」
「持ってきてくれるか?」
もちろん、もちろん、といった風に轟先輩は頷いた。
小走りに教室から出て行くのを立村先輩は黙って見送っていた。轟先輩のことをあんな風に見つめる人ではなかったと思う。なにかきっと、あったのだろう。覚えておいたほうがいいかもしれない。
これでお役ごめんというところだろうか。私は立村先輩の顔を見上げて尋ねた。
「私は、どうすればいいですか」
もういいよ、先にお帰り、みたいな言葉を期待していたのは認める。
たぶんいつもの立村先輩だったらそう言ってくれただろう。 私と一秒だって顔を合わせていたいとは思っていないはずだから。
「少し、いいかな。誰もいないしな」
口許をかすかにゆらすような笑みをもらすと、立村先輩は机にもたれた。コピー機のカバーをかけて、そのまま両手を置いた。立村先輩を背にする格好になっていた。なんとなくじっくり顔を見るのには抵抗があった。梨南ちゃんがわめくほど、立村先輩は不細工でもないし、むしろ整っている方に属すると思う。ただ、整いすぎて人間っぽく感じられず、あっちに言ってと言いたくなるような顔立ちというのもある。立村先輩はその系統だった。
「もし用事がないのでしたら帰ってよろしいですか」
「少しだけいいかな。あまり時間はかかんないから」
静かだけど、鍵をかちりと落としたような口調だった。
「この前の交流会準備の時のことだけど、確認しておきたいんだけどさ」
もう立村先輩は、笑みを浮かべていなかった。生身の人間なんだけど、少女漫画のキャラクターと同じような冷たい雰囲気が、白いシャツと生白い顔からゆらぎ、浮かんでいた。
「なんで、杉本にああいうこと言ったのか、それを聞きたかったんだ」
「ああいうことって、なんですか」
口にしながら、とうとう来たか、そう覚悟していた。
「関崎に会うな、と言ったんだろう? 評議委員会の名前を出して」
5
「申しわけありませんでした」
早いところ謝っておいたほうがあとあと面倒でないだろう。私は素直に頭を下げた。
「謝る必要はないよ。評議委員会で起こったことは俺が責任取ることになっているから、本当のことを知りたいだけなんだ」
立村先輩の口調は穏やかだった。
「新井林にも確認したんだが、あいつ、自分が悪いと一方的に言い募るだけでさ、らちがあかなかったんだ。それで他の二年に聞いて初めて、佐賀さんの話が出てきたというわけなんだ。それ、本当だろう?」
「はい、そのとおりです」
本当のことを言えば、隠すこともないのだ。確かに私は梨南ちゃんに向けて、「学内に関崎さんが来ても、決して追いかけたりしないで」というニュアンスのことを話したけれども、ちゃんと証人として駒方先生を置いたし、とりたてて梨南ちゃんも騒ぎ立てることはなかったし、無事に合同交流会最終打ち合わせは終了したしで、めでたしめでたしのはずだった。この点においては、私の失策ではないと考えている。二年評議全員の意見として、「なんとしても杉本から水鳥中学生徒会の皆様をお守りしなくては!」という総意があって、そのために一番近かった私が話を持ちかけた、ただそれだけのことだ。もし他の先生たちに意見を聞いたとしても、それほど問題があるとは言われなかっただろう。評議委員会に関係のない人たちが、茶々をいれても迷惑だし、特に梨南ちゃんには前科がある。本当は健吾が直接、梨南ちゃんに話をするつもりだったらしいけれども、それは私が止めた。どんなに健吾が言葉を選んだとしても、今までの流れ上けんか腰にどうしてもなるだろうし、梨南ちゃんも健吾に対してだけは感情的になってしまわないとも限らない。また、その時に健吾がついうっかりと口走ったことを逆手に取られて「いじめないでけんかに勝つと言い張った奴がまたいじめをするとはね!」とせせら笑われたりしたら男の面子が立たないだろう。このあたりも考慮して、私が行動したというそれだけのことだ。
三年の先輩に話をしたら、すぐに却下されるのは目に見えている。特に立村先輩の梨南ちゃんびいきは誰もが知っている。でもそのひいきの引き倒しで結局、梨南ちゃんにはろくなことが起こらなかったのもまた事実。
「杉本はもう評議委員会には関係ないんだから、会う会わないを口出しするのは間違いじゃないかと思うんだけど、どう思う」
「いえ、梨南ちゃんは一度人を好きになったら、何をするかわかりません。八年間一緒にいた私がそう考えたんです」
私はゆっくりと言葉を選んだ。たぶんすぐ轟先輩が戻ってくるだろう。その時にあまりにも険悪な雰囲気となっていたら、絶対怪しまれるだろう。今のところ女子の先輩たちにその事情はばれていないらしい。梨南ちゃんにしては珍しく告げ口もほとんどしなかったらしい。もちろん言い訳はしようと思えばいくらでもできるが面倒なことを遠ざけるにこしたことはない。
「立村先輩も、だから一度は、梨南ちゃんを関崎さんから引き離そうとしたんではないですか?」
思い切って口にしてみた。
「私もそれの方がお互いにいいと考えたからです」
「それはどうして?」
「迷惑をかけてしまい、せっかくの交流会がだめになったら、私の方が悔しいからです」
思わず失言してしまった。これは、禁句だ。慌てて取り繕う。
「私は評議委員になって、毎日が本当に楽しいんです。交流会の準備もそうですけれども、いろいろなことを自分たちの手で作り出していくことがこんなに面白いって思ったのは初めてでした。立村先輩、私はずっと今まで、人にかばわれる立場でいました。でも、評議委員会ではかばわれないで、自分自身の意見を口にして、すぐにそれが取り上げられる、そんな面白さを知ることができたんです」
優等生っぽいお言葉をつらつらと並べた。本当の部分が八十パーセント。その一部には不純物が混じっていることも自覚済みだ。まっすぐ水鳥の街に繋がっていることも、ある一軒の書店へと糸が伸びていることも。
「他の人たちは知りません。でも、この交流会を成功させて、どうしても私、これからどんどん繋げていきたいってそう思うんです。それを、梨南ちゃんのような後先考えない行動をする人に壊されてしまうのだけは、どうしてもいやでした。友だちとしてもそうです。先輩ご存知ですか。梨南ちゃん、こんど問題を起こしたら、無条件で退学になるという噂を聞いています。E組でも面倒見切れない場合は公立に出すという話も噂として流れています。そうなったらもう、誰もかばいようがないんです。私、できることは精いっぱいやっておきたいんです」
一方的にまくし立ててしまった私。こういう姿を健吾の前では見せたことがない。あえて隠すようにしている。知っているのは、水鳥のあの人だけだ。私の隠れた、もうひとつの顔を教えてくれた人。
「そう考えてくれるのは、ありがたいよ。佐賀さん、たださ」
一通り聞いてくれた後、立村先輩は無表情で問い返してきた。
「杉本が傷ついている可能性というのは、考えなかったのかなって思ったんだ」
「考えました。もちろん、じっくりと考えました。でも」
私はかみ締めておいた答えを、ゆっくりと答えた。
「本当のことをきちんと言ってあげるのが、友だちとして、当然のことだと思ったんです」
──友だち?
一瞬迷いが走った。すぐに打ち消した。言葉が飛行機雲みたいに少し途切れた。
「先輩、私も梨南ちゃんに対して残酷なことをしているというのは認めます」
ここで少し、低めておいたほうがいいだろう。私は扉に視線をやりたいのをがまんしつつ、呼吸を整えた。
「私がもし梨南ちゃんと同じ立場だったら、きっと関崎さんに会いたいだろうし、ほんの少しでも顔を見たいというのは当然だと思います。もし梨南ちゃんがふつうの人だったら、きっと会わせてあげてました」
──ふつうの人。
心に隙間なく埋めこまれる言葉。
立村先輩はぴくりともせずに聞いていた。
「梨南ちゃんがもし関崎さんと会ったとしたら、きっと露骨に愛情表現をして、大変なことになるのは目に見えています」
「大変なことってなんだ」
「新井林くんと同じようなことになる可能性です」
どこまで話しておけばいいのだろうか。以前立村先輩に、何かの折りに話したことがあるけれども、男子は忘れっぽいからきっと覚えていないだろう。繰り返しておくことにした。
「立村先輩は梨南ちゃんのことを良くご存知ですけれど、小学校時代のことはあまり知らないのではないかと思うのですが」
「噂だけだな、それと本人の自己申告」
「梨南ちゃんは、一度人を好きになると、酷いことをたくさんして確認しようとするんです。こうしても、ああしても、決して逃げないんだって確認したいみたいなんです。私はそれ、早い段階で気づいていたのでそう思うことができましたけど、関崎さんが同じように思ってくれる可能性は少ないと思うんです」
「確かにな」 言葉すくなに相槌を返す立村先輩。
「わかってくれる人同士だったらいいんですけど、全く知らない人に同じようなことをされたら交流会が台無しになってしまいます。口で言ってわかる人ならいいですけれど、梨南ちゃんには通じないんです。説得してもだめなんです。梨南ちゃんに一番いいのは、命令することなんです。大人の人をきちんと間に挟んで、ぐうの音も出ないようなところで正論で説明するのが一番いいんです。そうしたら」
言葉を切った。少し立村先輩の目が釣りあがっているように見えたからだった。
「梨南ちゃんは、私の言うこと決して聞きません。馬鹿にしている人のことは決して言うこと聞かないんです。でも、大人の人とか、納得する人とか、あと約束したことについてはすぐに頷いてくれます。廊下の右側を歩くとか、お箸は右手で持つとか。規則が大好きなんです梨南ちゃんって。だからちゃんとこちらから、こうしなくてはいけないという規則を決めてあげると、文句言いながらもすぐにやってくれるんです」
「それでか」
「はい。だから、駒方先生の前でちゃんと説明しました。関崎さんが迷惑だし、これ以上問題起こしたら梨南ちゃんも退学になるし、いいことなんて何もないのだから、やめてくださいって」
「それで納得したのか」
「はい、前もって立村先輩が梨南ちゃんとお約束してくださってましたから、楽でした」
立村先輩は黙って目の前の畳んだコピー紙を一枚とって、すかして見た。
「約束って」
「梨南ちゃんが言ってました。立村先輩と約束したって。ちゃんと関崎さんとは学校にいる間、決して会わないって。理不尽な約束でも、梨南ちゃんは一度結んだら、絶対に破りません」
立村先輩は大きく頷いた。
「杉本は約束を守るからな」
6
「じゃあもうひとつ聞くけど、佐賀さん」
立ち上がりパイプ椅子を畳むと、立村先輩は私の方に近づいてきた。まだカバーをかけていないもう一台のコピー機に片手をかけ、じっと私を見つめた。思わず私も髪の毛に手を当ててしまった。どうしようかな、って思った時につい出てしまうくせだった。
「率直に言って、杉本をどうすれば、一番いいと思うかな。俺も正直なところ、女子の気持ちがよくわからないし、その辺佐賀さんがもし、杉本を守る立場だったとしたらどうしてたと思う? 評議委員会という立場を別として」
「評議委員会という立場?」
言われている意味がわからず、私は問い返した。立村先輩は目を伏せてうんうんと頷き、またしっかりと顔を上げた。
「ずっと前にさ、佐賀さん言ってただろ。杉本は赤ちゃんだから、同類の子たちと一緒に置いておいたほうがいいとかさ。結果的に今の杉本の扱いは、佐賀さんの言う通りになったわけだよな」
この先輩、思ったよりも頭がいい人かもしれない。私は用心深く顔を見返した。もちろん笑みを絶やさないように。
「梨南ちゃんが変わんないとわからないことだと思います」
「そうだな」
短く切って、質問の方向を変更してきた。
「じゃあ質問変えようか。もし佐賀さんが、杉本の性格を直すことができるとしたら、どういう風にやる?」
「梨南ちゃんの性格を、直すんですか?」
「かなり迷惑かけられたらしいと聞いてるからな。佐賀さんだったら経験上いろいろ言えるかなと思ってさ」
「あの、ええと」
どもりながら言葉を捜した。いったい何を目的でこんなことを聞いてくるんだろう。お気に入りの梨南ちゃんを傷つけられたから? それとも先輩としてのプライドから? 単純に梨南ちゃんの扱いについて悩んでいるから? どちらでもないのだろうか。立村先輩は言葉を発する口許だけ動かし、じっとコピー機に張り付いたままだった。人間に戻らない、銅像のままだった。
「あの、ありのままの梨南ちゃんでいいのよって、言います」
あたりさわりのない言葉で、そして、一番逃げ場のある言葉。奇麗事をまずは口にした。
「ありのままの杉本?」
「はい、だって、梨南ちゃんは、いつもなれない自分にばかりなろうとして、傷ついてます」
違う、もっと違う意味がある。立村先輩の銅像状態はまだ一切変わらなかった。
「なれない自分にばかり、って何になろうとしてるんだ?」
「うまくいえないんですけど、梨南ちゃんは新井林くんと同等の人間になりたくて、ならないんだって思うんです」
「新井林と同じ?」
立村先輩の言葉は反復するだけ、意味が伝わってこない。焦った。
「はい、梨南ちゃんは新井林くんより上の人以外、好きになれないんです」
秘めておきたかったことなのに、喉元に指をぐいと突き刺されたみたいに、脅されて吐き出してしまっている。
「新井林以上の人以外って?」
「はい、梨南ちゃんがなぜ、関崎さんを好きになったかっていうと、新井林くんに関崎さんが持久走で勝ったからなんです」
──なんで言ってしまったんだろう。
私だけが勘付いた秘密。
八年間梨南ちゃんを観つづけてきた私だから理解できる、たったひとつの秘密。
立村先輩はやっと人間にもどったらしく、こっくりと頷いた。
「けど、新井林くんを始めとする人たちは、梨南ちゃんが好きになれないんです。だから、関崎さんもきっと、好きになれないんだと思います。梨南ちゃんを好きになれる人は、きっと新井林くんたちからすると軽蔑されるような人であって、それでもいいんだってこと梨南ちゃんが納得しない限り、きっと無理なんだって思います」
言葉はすらすら出たように聞こえただろう。立村先輩の表情に和らぎが浮かんだのはたぶんその通りだからかも。私が今、心に秘めていた言葉を吐き出したことに、気がついているのだろうか。
──なんで立村先輩なんかに。
胸一杯、悔しさが溢れてきた。飲み込み、必死にこらえた。吐き出せれば楽なのに、健吾ではだめだった。私のことを理解していると思い込んでいる健吾、本当の私を健吾は知らない。健吾よりずっと、遠くを見通して、梨南ちゃんをどうすれば一番迷惑にならないで済むかを処理できる自分を知らない。知られてはいけない。私は健吾にとって、守らなくてはならないかけがえのない恋人なのだろう。おしゃかさまの掌から飛び出したくてならない孫悟空のように、言葉だけが一気に溢れた。とめどなく。
立村先輩はしばらく考え込んだ後、「ありがとう」と答えてくれた。
「佐賀さんのおかげで、だいたい事情が把握できた。でもそのことはまだ、杉本に言わないでくれないか。佐賀さんにとばっちりがくるとまずいから、俺が折を見て話す。それと、前から言おうと思っていたんだけどさ。佐川とのことは、今の段階では新井林に言わない。その点は安心してもらっていいから」
すうっと、背中に冷えたものが走る。
首を締め付けられたような苦しさ。立村先輩はまだ私を見据えたままだった。もちろん柔らかい表情のままだけど、口許には明らかにかちりとした硬いものを見た。梨南ちゃんのことを話す時、見つめる時、いつもそう言う口もとをしていた。梨南ちゃんのためならば人を殴ることもできる人だったっけ。忘れていた。梨南ちゃんのためだったら、濡れ衣をかけられても平気な人なのだ。
轟先輩の戻ってくる気配はしなかった。私は自分が追い詰められていることに、いまさらながら気がついた。
──なぜ、そう問い詰めるんだろう?
当り障りのないように言葉を返せばいいはずなのに。
そうできるのが私なのに。
どうすればいいんだろう。
立村先輩は微動だにしなかった。うまく言えないけれど、先輩の身体周りから立つ空気が全く揺れていなかった。部屋の湿気か、それとも匂いか、わからない。服の揺れも呼吸の時に動く喉も、なにひとつ動いていないように見えた。私以外の誰もが、息をしない無機物化したかようだった。だんだん凍り付いていきそうだった。もう少しで、夏なのに。喉が詰まって、言葉がうまくでなかった。
「言ってもいいです。私」
知らず知らずのうちに湧き出る私の負けん気。どうして知らん振りできなくなったのだろう。健吾の前では決して顔を出さないのに、どうして立村先輩や梨南ちゃん、あの人の前ではするんと出てしまうのだろう。自分がコントロールできない強気な私。
「もし先輩が、新井林くんにそのことを話されたとしても、私は困りませんから」
立村先輩は少し驚いた風だった。私がもう少しおどおどすると思っていたのかもしれない。もしかしたら梨南ちゃんだったらそうしてたかもしれない。かつての私だったら泣きそうになっていたかもしれない。でも、もう私は梨南ちゃんが横取りした席を奪え返した自分。もう怖いものはなにもない。
「学校を退学させられるようなことをしたなら、私も反省します。他校の生徒と殴り合いのけんかをするとかだったらまた問題になるかもしれませんが、私、梨南ちゃんのように恋愛だけが全てではありませんから、もし知られても平気です」
少しはす向かいとなり立村先輩は数秒黙っていた。私の眼を探るように見つめた後、
「俺も去年の段階で退学食らっていてもおかしくない立場だけどさ、ばれたらばれたでその時だと思っているけどな」
「もしおっしゃりたいんでしたら、どうぞご自由になさっていただいて結構です」
ささやかな笑顔だけは忘れなかった。どんなに心が震えていても、両足をつけたまますっくと立ち、微笑むこと。それが私の懐剣。
「わかった、もう戻っていいよ。ありがとう」
全身力がすうっと抜けていき、あやうく足が震えそうになった。なんであの立村先輩の前で、ふらふらしてしまうのか自分がわからなくていらだたしかった。立村先輩は扉を開けて廊下を覗き込み、
「轟さんが戻ってきたみたいだし、あとはいいよ」
解放してくれた。
7
健吾はバスケの練習が長引いているらしく、もう少し待っているようにとのお達しがあった。
ここでさっさと理由をつけて帰ってもいいのだけれども、あのことを言われた以上もう少し様子を見た方がいいとも思った。
なんで私は、あの立村先輩に対してあそこまでびくついてしまったのか、理由がわからなかった。
単なる梨南ちゃんの王子様で、評議委員長で、でも評価は今ひとつで、私自身も健吾より下のランクの人だと認識していた人。
たまたま、私の窮地を見られてしまったという程度のことだ。
──もし、健吾に知られたらどうするんだろう?
想像してみる。立村先輩があの人……水鳥中学の佐川さん……と私の付き合いを知っているのは明白だ。佐川さんが裏で一生懸命手を回してくれたおかげで、今のところ誰にもばれないで済んでいる。立村先輩は確かに私と佐川さんが会っていることを気づいていたようだけど、たまたま別の身代わりの人が出てきてくれたおかげで健吾にも怪しまれず、かえって情報源として重宝がられている。佐川さんにも彼女がいて、私にも彼氏がいて、ただたまたま水鳥中学生徒会とのルートができたということ。健吾と佐川さんとの繋がりを受け持つ私。立村先輩が関崎さんを通じて繋がっているのとは別ルートで手を回すことができたというそれだけだ。だからこそ、梨南ちゃんを引き離すという荒業も私ではなく健吾の方から発案できたわけだった。
──なんで隠しとおせなかったんだろう。
立村先輩にかまをかけられた時、「またそんな嘘言うんですか! いいかげんにしてください!」とどうして言い返せなかったのか。
それができない私ではないはずだった。
最初から、覚悟はしていたはずだった。逃げ場のない場所をしっかりと見られてしまった三月のあの日、もしも健吾に知られてしまったらどうすればいいんだろうと最初はおびえていた。なのに、四月以降自分の中で確実に変化が起こってきている。目の前の巨大な壁を、指先でつんとつついたとたんがらがら崩れた瞬間を、私は確かに見た。梨南ちゃんも、健吾も、すべては張子の虎。私が恐れるには足らない、七年間かけられていた魔法を、私は自分で解いた。 きっかけは梨南ちゃんの本性を見出した時だった。
今まではずっと梨南ちゃんに復讐されるのが怖かった。私の大好きな服の色も、可愛い文房具の形も、エレクトーンの音色も、「くだらない」と見下される理由がどうしてもわからなかった。なんで健吾に逆らわなくてはならないのか、どうして男子が馬鹿に見えるのか、私には理解できなかった。それでもあわせないと、もっと大きなものに噛み付かれる恐怖に取り付かれていた。
でも卒業式の予行演習の時、無意識に自分の本能通り、私は梨南ちゃんを捨てた。
梨南ちゃんは「裏切った」と言ったけどその通りだった。
予想通りの復讐が怒涛のように降ってきた。今までの私だったら、恐怖で動けなくなっているはずだった。クラスの女子たちから無視されることも、梨南ちゃんに嫌われることも、本当だったら恐ろしいことのはずだった。味方は健吾だけのはずだった。なのに、心地よく過ごしている自分がいた。どうせ嫌われてしまったのならばしかたない。そう思って言いたいことを言ったりしていただけなのに、だんだん自分の周りに味方が増えてきて、そっと守ってくれるようになったのはなぜなのだろうか。気がつけば、もう梨南ちゃんが生まれたばかりの子猫にしか見えなくなっていた。嫌われたら自分がゼロになる。そう思い込んでおびえていた相手が、実は劣等感の塊で何もできない、全てを持つ私に嫉妬していた人間であることを理解した。
評議委員という場所。 本当は私が入っていくに相応しい場所だった。
梨南ちゃんは確かに頭がいい。成績はいい。でも、それだけだ。
お母さんが「あの子は施設の、成長の少し遅れている子とそっくりだから」と呟いていた。たくさんそういうタイプの子たちを見てきたお母さんの言葉を当時の私は理解できなかった。でも同じことを、今の私は感じている。梨南ちゃんは本当のこというと、自分で周りを仕切るよりも、同じようなタイプの子たちの中でそっと真綿に包まれて守られている方が向いている子なのだ。そして、私は本当のことならば、梨南ちゃんと関わることなく、遠めで眺めていればいい。そういうはずだった。
なのに梨南ちゃんは、私と健吾のもともといた場所に、どうしても割り込みたいと願った。
私の座っている椅子を奪い取ろうとした。
ピアノをどうしても上手に覚えることができなくて挫折したから、エレクトーンをマスターできた私に対して嫉妬した。それだけのこと。
可愛らしい文房具を持つことをお父さんお母さんに許されず、しかたなく自分の持っている真面目な格好のものを正当化したい、それだけのこと。
要は梨南ちゃんが、もといた場所に戻って、その場所と周りの人々に相応しい行いをしていれば、すべてが丸く収まる、それだけのことだ。
どんなに健吾に好きになってほしいとねだっても、梨南ちゃんによってくるのは同じような嫌われ者の男子たちばかりだった。「ありのままの梨南ちゃん」を好きになってくれるのは、みんなから遠ざけられるタイプの男子ばかりだ。それでいいんじゃないかと私は思えるのだけれども、梨南ちゃんにそれは耐えられないらしい。私はちっともいいと思わないけれど、梨南ちゃんが楽しければそういう男子を選べばよい。たとえば立村先輩のようにしつこく面倒を見てくれる人だっているわけだ。私はちっとも立村先輩なんてかっこいいなんて思わないけれど、人の好みはそれぞれだ。ああいうタイプが向いていると思えば、手を伸ばせばいい。無理に健吾を振り向かせようとして、永遠に嫌われつづけるよりは楽なのに。
関崎さんを好きなのは、健吾が評価してくれるから。
立村先輩を受け入れないのは、健吾が見下しているから。
そうだ、健吾をすべてのものさしとして生きている梨南ちゃんにとって、自分なんてちっともない。
私は健吾の机にそっと片手を置いた。
必死に守ってくれたことは感謝している。こんなに大切にして貰えて、私は満足するべきなのだろう。評議委員会に入らなければ、きっといい子のはるみで十分満足できたのだろう。おしとやかで、それでいて大人しい子。今まで私に与えられた今までの称号。
もしかしたら、佐川さんのことを知られてしまうかもしれないし、その時は直接恨みを受けることも覚悟しなくてはならない。
怖くなかった。
明日のエレクトーンお稽古帰り道、駅前の書店に寄る約束をしている。今度の交流会について、裏の打ち合わせをひそかに進めるつもりだった。佐川さんはきっと、私に本当の答えを導きだしてくれるだろう。
──あの人に、相談しなくては。
健吾が駆け込んできた教室の扉に手を振りながら、私はこれからのことについて相談すべきことを整理しはじめた。立村先輩が私にゆさぶりをかけてきたことについて、一番的確な答えを出してくれるのはあの人しかいないと、私は知っているから。そう、たとえあの人の成績がトップクラスでなくても、工業高校に進学予定だとしても、梨南ちゃんとは違う、気にならない。
健吾は、私のものさしではない。私は、私のものさしで選ぶ。
──梨南ちゃんとは、違う。




