59 中学二年・六月杉本梨南「手鏡のむこうに」
46 中学二年・六月 杉本梨南の「手鏡のむこうに」
1
西月先輩からいただいた黒地に金の絵柄がついた手鏡は、少し大きめだった。丸い鏡に柄が細く繋がっている。今時はやらない落ち着いた柄だけど、梨南の好みにはぴったり合っていた。
言葉を発しない西月先輩は、E組の教室にくるなりすぐ、梨南に袋ごと手渡した。
「ありがとうございます」
丁寧に頭を下げてお礼を言った。返事は返ってこなかったけれども、こっくり頷く姿は以前の先輩と変わらなかった。いただいたものはすぐその場で確認するのが礼儀だ。梨南は素早く紙包みを開くことにした。西月先輩はすぐに三年A組の教室へ戻ってしまうけれども、自分はまだここにいる。梨南なりの考えで、すぐに開けたほうがいいと判断したからだった。
──でも、どうしてなのかしら。
西月先輩を見送り、自分の授業の準備をしながら、静かな教室で梨南は思った。
──西月先輩、こういう感じの柄はお好きでないはずなのに。
普段から西月先輩の好みは明るくポップな感じのものが多かったような気がする。梨南のように重くしっとりした味わいの色合いは、「もう少し可愛い色の方が杉本さんには似合うよ!」とアドバイスされてしまうものだったし。でも梨南の好みを変えるつもりはさらさらなく、かといって西月先輩の趣味の悪さを否定する気もなく、なあなあにしておいた。女子に対しては、特に可愛がってくださる先輩にそんな失礼なことを言えるわけがない。梨南は納得する相手に対しては礼儀を守るのだから 。
──たぶん、私の好みを理解してくださったのね。
どんなに理解し合えない相手であったとしても、自分の主義を貫いていれば必ず理解してくれる相手と出会えるはずだ。いや、これは西月先輩のことを言っているわけではない。ただひとつの真理として、心に納めただけだった。
E組……にまわされてすでに二ヶ月が経った。
他の生徒たちに対しての説明は、「大学の授業を受けたり、特別に補助の必要な生徒に対しての放課後用クラス」ということだったけれども、梨南はすでに事実を知っている。
なにせ、わざわざ駒方先生が梨南の家まで足を運んで、逐一説明してくれたのだから。
それこそ、そんなことまで話さなくたっていいだろうにとあきれるくらいに。
白髪交じりの駒方先生が入ってきて、梨南ひとりしかいないのを確認して、穏やかに笑った。
「おや、いいもの持ってるねえ、どうした?」
すぐに目を留めたのは、箱に入ったままの鏡だった。少し大きめで机の上においたままにしていた。別に隠すべきものでもないし、青大附中は持ち物検査でさほど厳しいことも言われない。見せびらかすのも一興だ。梨南はあっさり答えた。
「はい、西月先輩から、修学旅行のお土産にいただきました」
「ほう、小春からかあ、どれどれ、見せてもらえないかな?」
薄形の箱の蓋を開けた。和紙に包まれた格好。一枚ずつ横に開き、まずはそのまま駒方先生の方へ立てて見せた。近づいてくる駒方先生は押し頂くように受け取り、鏡をじっくりと眺めた。
「梨南にはずいぶん地味だねえ、こういうのが好きかい?」
「はい。今時の下品な色合いや恥かしくなるようなデザインものに比べたらましです。気品があります」
「そうか、小春も梨南の好みをよく知っているんだね」
駒方先生は以前、美術担当をされていらした。定年退職後、なぜかE組担当のためにだけ講師として残っているという。裏を返すと梨南のような「普通の人たちには害を与える害獣」の飼育係といったところだろうか。今のところ、かの桧山先生相手のような戦いを挑む必要はないけれども、ただその裏の考えを読む必要は感じている。現在の二年B組二十九人を、梨南から守るためにという理由でこしらえたというE組だ。どんなに真実を訴えたところで、自分がこの世に存在しなくてもいいという扱いをされるのならば、受け入れるほかあるまい。頭を下げて嘘を飲み込まされるよりは、たとえ異人扱いされても自分のほしいものを求めればいいのだ。
「梨南はなあ、もう少し可愛い感じの方が、似合うと思うんだがなあ。せっかくいいものたくさん持っているのに、もったいないぞ」
「これが私のポリシーですから」
やはり、この先生も男なのだ。理解できないのだ。梨南の好みも、美学も、なにもかも。
駒方先生はもう一度鏡を丁寧に眺めた後、
「てっきり、上総が買ってきたんだと思ったよ」
かつての評価していた先輩の名を出した。
2
E組というクラスが、いわゆるやっかいものの寄せ集めに過ぎないと言うことを気づかなかった訳ではない。最初、優秀な生徒を集めるためのクラスなのだと思い込んで、嬉々として授業に出ようとしたところ、集まってきていたのは青大附中の授業についていけない人ばかりだった。もしくはほとんど話をしない生徒、もしくはずっと窓を眺めていて一日中過ごす人。しかも最初五人くらいいた生徒は、いつのまにかひとり、ふたりと減っていき、現在は梨南一人だけとなってしまった。別に彼らは退学したわけではなかったらしい。親の嘆願により、無理矢理自分のクラスに戻ったらしい。梨南もそれを望まないわけではなかった。唯一他の連中と違ったのは、両親が梨南をE組へ置くことを強く願っていたからだった。その点、両親を一生憎むことに決めるに値する結論だったし、もしそうするならば全てを憎んでも悔いはない。
「今日はどこから勉強するかな?」
「数学と理科は問題集を全て解きました」
駒方先生は美術の先生だから、いわゆる五教科の授業をパーフェクトに網羅しているわけではない。数学に関しては三年A組を受け持っている狩野先生がかなり丁寧に教えてくれる。また他の授業については、二年B組で「受けてもいい」ことになっている。どうやらその点だけは、担任の桧山先生が不承不承に受け入れたことらしい。本当は一切梨南をE組へ閉じ込めてしまい、他の生徒から引き離したくてならないのが見え見えなのだけど、そうできないのが一応教育としての立場。梨南なりにそのあたりは理解し、とことん利用することにしている。
どうせこの学校にいられるのはあと一年半なのだ。その間に自分なりにやりたいこと、勉強したいこと、見つけてさっさと公立のトップ校・青潟東高校に進めばいい。
──未練なんてない。
さんざん梨南を憎み、蹴飛ばし、全てを奪った青大附中に、愛情なんてかけらもない。
梨南はきっと唇を噛むと、丁寧に清書したノートを取り出した。
自分の味方になってくれるもの、それは一つ、成績だけだ。
成績だけは、嘘を言わない。自分を守ってくれるもの。
一時期信じても、すぐに裏切る人間たちとは違うのだから。
授業だけは受けさせてもらえる。それは「教育を受ける権利」だ。私立の青大附中に授業料を払っている以上、それはお約束だろう。しかし、桧山先生がのたまうには、
「一人のために二十九人の犠牲者が出ることは許されない」
のだそうだ。つまり、梨南ひとりが教室にいるだけで、二十九人のクラスメイトが迷惑するのだそうだ。空気がにごるのだそうだ。どうせ自分が評議委員から降ろされた段階で、無視すれば澄むことだろうにいったい桧山先生は梨南のどこが不愉快なのだろうか。その後釜を狙ったようにはるみが評議委員となり、わざとらしく「梨南ちゃん、言いたいことがあったら言ってね」と笑顔を向ける時、梨南はその場で首を締めてやりたくなる。押えているのはひとえに、あの人に嫌われたくないのと犯罪者になりたくないという、それだけだ。
──殺したい。
その気持ちを、口に出したらいけないのだろうか。
唯一の味方だった花森さんも、今は三味線の修行のため転校してしまった。
「佐賀さんと仲良くした方がいいよ」
「佐賀さんに逆らったら新井林に殺されるよ」
「もし、佐賀さんと仲良くしないんだったら、私たちも杉本さんと話できないよ」
他の女子たちの言葉が連なる。別にそれならばそれで構わない。自分の考えをまげるくらいなら、これきり一切口を利かずに過ごしたっていい。男子たち、はるみに頭を下げるくらいなら、その場で窓から飛び降りて死を選ぶ。四月から梨南は、裸のままの彫刻刀を身を守るため、持ち歩いていた。時代劇に出てくる腰元が、しっかりと懐剣を抱えているように。死を覚悟して、この日々を過ごすべし。
「梨南は勉強を一生懸命がんばるけどなあ、たまにはゆっくりと、話をしようよな」
何考えているんだろうこの先生は。ゆっくりと問題集を開き、ノートの採点を機械的に行なった後、駒方先生は梨南の前の机に腰をおろした。
「なんですか」
身構える。たとえどんなに優しい言葉をかけようとも、誰かさんのようにすぐ寝返りを打つのは見え見えだ。ずっと評議委員長にしてくれると信じていた立村先輩のように、いきなり評議から降ろすとか言い出すような相手ばかりだ。梨南が一度でも信じたら、相手はすぐに嫌いになる。好きでいてくれそうな振りをして、すぐに裏切る、いつものパターンだ。
特に駒方先生は、どこぞのカウンセラーさんと同じようなことを親へ説教していたではないか。
「毎朝梨南がお花を活けてくれるだろ? いい雰囲気だよ。ああいうことは得意なんだろう?」
「常識です」
厳密に言うと、今までは自宅でそういう風に玄関の花活けをしていた。しかし例の事件が起こった去年の冬から、両親は今まで梨南にやらせてくれていたことをすべて取り上げた。大好きだったオペラにも連れていってもらえなくなった。その代わりに毎日テレビ番組がえんえんと流され、わざとらしく母に引きずり出され似合わない下品なトレーナーやジーンズを押し付けられ、着るように強要される。そんなもの見るのもいやなので放置しておくと、今まで日常着にしていた上品なワンピースを全て取り上げられてしまった。「普通の女の子と同じこと」をしてもらわないと困る、のだそうだ。そんなことで簡単に根をあげる梨南ではなく、今度はさっさとその洋服を奪い返した。最後の手段はハンガーストライキだった。本当に死んだっていいと思っていた。自分に似合わない行為と格好をさせられるくらいならば。遺書も書いた。それが利いたらしく、洋服関連のことに関してはなんとか勝利を得た。
その復讐として、現在のE組への島流しとなってしまったらしい。
だから今は、親も全て敵なのだ。戦いは二十四時間、続くのだ。
「梨南はいつも、女の子らしく振舞っているからなあ、本当はみんな、大好きだって言いたいんじゃないか。ほんといつも思うぞ、もったいないなあとなあ。こんないい子をなあ」
白々しいお世辞は聞き飽きた。切り捨てた。
「男たちに頭を下げればいくらでも好きになってもらえるんでしょうが、そんなことするくらいなら、私は死にます」
筆箱の中の彫刻刀をちらっと見遣った。
「梨南が死んだら、先生は悲しいぞ。先生だけじゃあない。みんなが悲しむ……」
「万歳三唱することがわかってます。でもいやなものはいやです」
事実を言ったまでだ。少なくとも、新井林健吾は大喜びするだろう。桧山先生も一応は教師の顔をして葬式に出るだろうが、あとで祝杯をあげるのは目に見えている。女子たちもみな、泣いた振りをするだろうが、ほっとすることだろう。今の二年B組の様子を垣間見ればすぐにわかる。梨南が授業を受けにきた時と、出ていった時、ざわめきの質が全然違う。えらい人がきて猫かぶっている連中が、終わった途端「ふああ」と大きくざわめくのと同じのりだ。一瞬だって、梨南と一緒にいるのはいやなのだろう。お互い様だ。お互い、死ねばいいのにと感じあっている。今更どう思ったってしょうがない。
「いやいや、小春も、上総も、みんな悲しむと思うぞ」
「西月先輩はともかく、立村先輩は裏切り者です。信じません」
きっぱりと答えると、事実を認めざるを得なくなったのか、駒方先生は寂しそうにうなだれた。事実を否定できないことなんだから、しょうがない。
一時間目が終わった。この日はB組のロングホームルームということもあり、梨南は参加しないでほしい旨、桧山先生に言われていた。一応は二年B組の所属ではあるけれども、基本的にはE組の駒方先生管理で動くこと、と定められていた。本当にこういう学校の教育あっていいんだろうか。もし青潟市の教育委員会に訴えたらどうなっているだろう。かつて小学校六年の時、菊乃先生を吊るし上げようと努力した両親が、桧山先生に対してはびくびくしているのが梨南には納得行かない。それどころか梨南を精神的な問題を持つ生徒として扱うことにしたがっている事実がもっと許せない。あのカウンセラーとかいうおじさんは、梨南にひとつの病名をつけたらしく、その病名がなにやら大掛かりなものだったらしく、両親は一切従えなくなってしまったらしい。そんなことを信じ込むなんてどうかしている。本人が異常を感じていないのに、勝手に周りの人たちが騒ぎ出し、一つの箱に閉じ込めようとしているわけだ。違うと証明する手段は、今のところ一つしかない。学年トップの成績だけだ。
3
二時間目、この時間は数学だった。すでに自分で中学三年分の授業は終わらせていた。本当だったら立村先輩のように大学とまではいかなくとも、高校の授業を受けさせてもらえればいいのに、と思っていた。これも桧山先生によってブロックされている。曰く、「公立高校進学を予定している生徒に、高校の授業を受けさせるのはマイナスになる。むしろ、心身の乱れを取り除くほうに力を入れるべきだ」とのことだった。勘違いもいいところだ。もし梨南が青大附高へ進むことが可能だったら、また態度も変わったのだろうが、その辺はいたし方ない。数学の勉強は狩野先生に手伝ってもらって、参考書とプリントを用意してもらうことになっている。どちらにしても、二時間目は数学の授業だ。出なくていい。
煙草を吸いに出ていった駒方先生が戻ってくる前に、梨南は鏡を鞄へしまいなおした。
西月先輩の見立ててくれたこの手鏡、なぜか手にしっくりなじみ、抱き締めたくなる。
今まで西月先輩をはじめとする女子の先輩たちからいただいたプレゼントに、そういう気持ちを感じたことは一度もなかった。たぶん柄や雰囲気が合わなかったのだろう。清坂先輩の好みはやたらとギンガムチェックの赤い布を使ったものだし、西月先輩はピンクもの一辺倒だし、霧島先輩のは少し男子の好みそうな原色風だし、轟先輩は黒と紺とか、根本的に重たい色ばかりだ。どれも梨南の求める古風な風合いの色はなかった。同じパステルでも明るくなり過ぎない鶯色とか、オレンジ色というよりももう少し淡い橙色。柄も英語の恥かしくなるようなロゴの入っていないもの。横文字を画像として受け取るならまだしも、意味を理解して読むと幼稚園児の言葉みたいなもの、そういうのを持ち歩くこと自体、梨南の主義に反する。
これからうちに持って帰り、誰にも見せないようにしよう。
どうしても秘めたものにしておきたい衝動に駆られた。
ひとりでいることは苦痛でもなんでもなかった。
「梨南ちゃん」
かすかに戸が開き、声が聞こえた。聞きたくもない声だった。梨南は聞こえない振りをした。
「梨南ちゃん、聞こえてるのはわかるわ、入っていい?」
勝手に入ればいいことだ。この学校、他クラスの生徒が教室訪問することを禁じていない。
はるみが、静々とドアのノックをきちんと閉め、立ち止まり梨南がそちらを向くのを待っていた。
誰よりも憎く、そして殺してやりたい相手。
梨南は座ったまま、じっと見返した。こめかみに力を入れ、その目にきりきりと穴をあけてやるような音を耳に響くのを想像した。全く気づかないのか、はるみの口許には薄笑いすら浮かんでいる。
「駒方先生、まだいらしてない?」
「見ればわかることでしょう」
丁寧に答えた。うっかり余計なことを口走ると、桧山先生と新井林の二重攻撃を受けるはめとなる。以前と同じスタンスだったら堂々と立ち向かえたけれども、完全に梨南のことを無視されてしまっている以上、自分が自動的に悪役になってしまうことだけは避けたかった。
「じゃあ、待ってる」
うっとおしいにもほどがある。最大の裏切り者であるこの佐賀はるみ。かつて精一杯新井林を中心とするいじめっ子グループからかばってやり、納得行かないことはとことん口でやり返し、小学校の卒業式では蛆虫入れられた靴を脱がせてやろうとしたのに、すべてをかなぐり捨てて新井林の味方となった、許しがたい女子。今だに「梨南ちゃん」と「ちゃん」付けで呼び、親切な振りをしてさんざんいたぶりつくそうとする女子。一度はとことん友だちだと信じただけに、その反対の憎しみは一気にオセロの色を塗りつぶすと同じだった。もう二度と、白に戻る日はこないだろう。
髪の毛を男子受けするお団子に編み上げて梨南の席へ近づいてきた。そのまま梨南ははるみを睨みすえた。近づかせる気はなかったけれども、ここは学校だ、暴れてはなるまい。はるみは全く気にせずに、さっき駒方先生の腰掛けた机の前にすくっと立った。
「あのね、梨南ちゃん。聞いてると思うけど」
「用は私なの、それとも駒方先生なの」
「私、B組の評議委員として先に梨南ちゃんに話すわ。だから聞いてね」
評議委員。単語が鼓膜にぶつかるたび、梨南の喉元を何かが叩く。どんどんと。
「明日、水鳥中学の人たちが交流会の最終準備で学校にくる予定なの」
「そんなの関係ないでしょう」
聞きたくもない。
「本当は健吾も、評議の二年生のみんなも、梨南ちゃんには隠したほうがいいと言ってたけど、私はちゃんと話しておいた方がいいって思ったの」
はるみは耳もとのほつれ毛を直すようにして、もう一度梨南の瞳を柔らかく見つめた。
こうやって、梨南からすべてを奪い取り、からっぽにしてE組に押し付けた張本人が目の前にいる。本来ならば評議委員長として認められる自分の夢も、新井林健吾を土下座させて今までのことをざんげさせるという希望も、すべて、はるみによって。
「それ以上何か言いたいことあるわけなの」
聞きたくもない。
「それでね、一つだけ約束してほしいの」
「はるみなんかに約束する必要なんてないわ」
ちょうどそこへ、煙草の箱を片手に、駒方先生が戻ってきた。
「どうしたんだい、はるみ。そろそろ教室へ戻らないとまずいだろう?」
「先生、よかった。今、証人になっていただけますか?」
──証人?
耳を疑った。今、「証人」と言わなかっただろうか?
はるみは駒方先生の側に寄り添った。少し離れたので梨南は少し呼吸しやすくなった。かわりにぞわぞわと背中に走る、白い煙のような気配。これははるみのいつもの手だ。梨南を叩きのめしてまた、全てを奪おうとするための。一度はそれを信じて全て裏切られた。もう誰も、信じてはなるまい。弱くならない自分でありたい。
「明日の、水鳥中学の人たちとの最終打ち合わせのことなんですけど」
ここの部分だけをはるみは駒方先生に向けて言った。後、梨南に向かい合い、
「梨南ちゃん、絶対にその場所近辺に近づかないでほしいの」
──やはり、奪うんだ、すべてを。
梨南は唇をかみ締めた。身体の中に詰まった毒々しいものを全て、はるみの口に流し込み窒息死させてやりたい、そう思った。教室の中をすべて毒ガス一杯に充ちた状態にしたかった。毒ガスの部屋、そして自分も今、死にそうで死なないようなガス一杯の部屋にいる。
いくらガスを吸わせても死にそうにないはるみは、さわやかな微笑みのもとさらに告げた。
「このイベント、もし水鳥中学の人たちがいやだと言ったら、その場で終りになってしまうの。だから、梨南ちゃんには一切触れてほしくないの。評議委員みな、それが心配だって言ってるの。だから本当は、梨南ちゃんに内緒にしようって言ってたのよ。でもね」
はるみは少し首を傾げ、すぐにまっすぐに戻した。背を伸ばした。
「私、それはだめだと思ったの。梨南ちゃんに隠しても、もしばれた時に責められるのは水鳥中学の人たちだし、評議の先輩たちだと思うの。でも最初からちゃんとそういうことを、筋を通して話しておけば、梨南ちゃん決して迷惑をかけるようなことはしないと思うの。そうでしょう?」
「話はそれだけ?」
「だから、梨南ちゃん、約束してほしいの。先生の前で」
駒方先生は最初驚いた風に口を尖らせていたが、すぐ大きく頷いてはるみへ微笑んだ。やはりこの先生もグルなのだ。決して信じてはいけない。その証拠を発見したようなものだ。
「何を約束するわけ?」
「もし水鳥中学の人が来たとしても、決して顔を出さないでって。知らないふりしてって。お願い、評議委員会のためなの。今後の交流のためなの」
「誰がそういうこと、あんたに吹き込んだわけ」
「吹き込んでないわ。健吾は最後まで私じゃなくて自分が行くんだって言い張ったけど、でも」
──新井林が?
そうっと、心臓の音が掠れてしまうような気がした。
「健吾とだったら話し合いにならないと思うし、なによりも健吾、梨南ちゃんを絶対にいじめないって心に誓っているから、その誓いを破らせるようなことはしちゃだめだと思うの。だから、私が来たんです」
来たんです、の部分は明らかに駒方先生意識の口調だった。
「約束して。絶対に、水鳥中学の人たちに近づかないって。それ聞くまで私、帰らない」
一瞬、血まみれになったはるみを見たような気がした。もちろん気のせいだった。
はるみは目の前でふらふらしないでしっかりと立ったままだった。
「評議委員なんてもう関係ないから、知らないわ」
「だめ、お願い。そうしないともう評議委員会で交流会が出来なくなっちゃうのよ。立村先輩が全部責任を」
「私を裏切った人なんてどうでもいいからそんなこと」
「関崎さんにも迷惑がかかるのよ!」
声音、強く、響いた。
──関崎さん。
鞄の奥に、オーデコロンを染み込ませて、そっと畳んでおいている大切な手紙。
「関崎さん、本当は受験勉強が大変で、時間もないんだけどどうしても評議委員会のためにきて下さるって言うのよ! それを梨南ちゃんの行動で台無しにされたら、もう二度と関崎さんは交流会なんかに参加してくれないのよ」
はるみの勝ち誇った表情がゆれて映る。「関崎さん」その名を口にすればするほど、梨南の心が揺れるのを楽しんでいるかのように、はるみは声を強めて続ける。何を楽しくて、駒方先生の前で言い放つのか。何をしたくて、関崎さんの名前を出すのか。それだったら最初から、来るも来ないも教えなければいいのだ。偶然顔を合わせることはあるかもしれないが、それを責めることは互いにできないだろう。なぜそこまで偶然の出会いすらも、拒絶しようとするのだろう。異様なまで力の篭っているはるみの言葉に、梨南は堅く口を閉ざした。
──答える気、ないわ。
「梨南ちゃん、私、梨南ちゃんと一緒に卒業したいの」
「よくそんな嘘言えるわね」
「梨南ちゃん、これ以上問題起こして退学になってほしくないの。中学だけはせめていっしょにいたいの」
脳の中でくるくると、めまぐるしくバトンのように回りつづける、彫刻刀。
──私を救ってくれるのならば。
何度も心臓の鼓動と一緒に、まぶたの奥でまわる彫刻刀を操った。
「ほら、はるみ、あまり梨南をいじめたらだめだぞ。早く教室へ戻りなさい」
なだめるように駒方先生がはるみに話し掛けている。激しく止めることはない。つまり駒方先生もはるみの味方だという証明なのだ。この教室、二対一。誰も守ってくれる人はいない。いつか、遠い未来にあの人が全てを受け止めてくれる日が来るのは信じている。でも、あの人の姿はまだ、水鳥の方にしか見えない。全ての可能性をかけて、梨南が費やしているたった一つの夢。おちおちはるみに奪われるのはもうごめんだ。
「あんたに約束はしないけど、とっくの昔に私、立村先輩と約束してるから安心して」
言葉を口にするのもいまいましく、梨南はまっすぐに何も感じないように答えた。
「関崎さんが卒業するまで、私は一切あの人に会わないこと、約束しているから。立村先輩のいる間はそうするから。あんたたちの言うことは無視するけど、立村先輩との約束は、守るから」
はるみの表情が大きく膨らみ、笑顔で溢れた。
「よかった! やはり梨南ちゃん、わかってくれたのね」
「さっさと消えて」
梨南の言葉に気を悪くしたでもなく、はるみはにこやかなまま、駒方先生に一礼をしてE組の教室を出て行った。
4
◆
関崎乙彦という名を知ったのは、あの人を見つめてからずっと後のことだった。
──あの、俺も、うまく言えないけど。
何度もとちりながら、唇を振るわせるようにして、
──俺はあまり、女子にその、好意、もたれたことないから、だからあの。
両手をぎっちりとげんこつにしたまま、肩をこわばらせるようにして、
──だから、好意は嬉しい。嬉しいんだけど、でも、今は、そういうこと考えることできなくて、つまり、その。
一度も梨南から目をそらすことなく、とつとつと、
──俺、公立だから、どうしても、受験しなくてはならないから、それに。
学生服の黒い色が少してかっていた腕の部分。ふれたかった。
──俺のうち、貧乏だから、奨学金貰ってあの、青潟東に受からないとまずいから、だから本当にごめん。
あやまってくれなくたってよかった。梨南が青大附中で待っているのではなくて、青潟東に合格して追いかければいいだけのことなのだから。
──俺、君の気持ち、どうしても、こたえられない。ごめん、本当にごめん。
だからきちんと伝えたのだ。
── 私、関崎さんを追いかけて、青潟東に進学します。
と。
──今は好きになってもらわなくたっていいんです。青潟東で私のことを待っていてもらえればそれでいいです。
とも。
それがそんなにおかしいことだったのだろうか。
そんなに引き離されなくてはならないことだったのだろうか。
あの人をあきらめるなんてことをどうしてしなくてはならないのだろうか。
あの人はただ、梨南のことを知らないだけなのに。
初めて新井林よりも強く、新井林よりも頭がよく、新井林よりもずっと暖かい性格の男子と出会えた喜び。
どうしてみな、奪おうとするのだろう。
◆
はるみが出ていってから梨南は、狩野先生が用意してくれたプリントを三枚、机の上に広げた。何ごとも起こらなかったかのように振舞うのが梨南の美学だった。あのはるみの残り香を消すのに一番いいのは、やはり勉強だった。成績だけは、はるみにも新井林にも勝つことのできるたった一つのものさし。それを奪われないためにも、全力投球する。
「梨南、今日はよく耐えたな、えらいえらい」
「別に普通のことです。ああいう頭のおかしい人の言葉は相手にしないのが一番いいんです」
まだ心の奥には血のりの広がる光景が焼き付いていた。たったひとつの心の包帯。はるみが消える夢。口に出したら狂気と思われるから堅く閉じている蓋のようなもの。駒方先生はゆっくりと梨南の側に椅子を持ってきて座った。家庭教師だと、ほんとに思う。
「梨南、今みたいにしっかりと答えができれば、大丈夫だよ」 「いつも私そうしてますが、勘違いしないでください」
不愉快だ。駒方先生はいつも、梨南のことを子ども扱いにする。もともとこの先生は生徒のことをファーストネームで呼ぶくせがあり、立村先輩なんかはいつも怒っていた。その気持ちはわかる。嫌いな名前を第三者から呼ばれる嫌悪感をこの先生、気づいていないのだろうか。答えたくないと思うものの、答えないと礼儀に違反する。仕方なく答えるのみだ。
「今みたいに、はるみにきちんと接することができれば、あとはかんたんなんだよ」
「あんな屈辱を浴びせられるくらいなら死んだほうがましです」
「ほら、死ぬって言葉を使ったらみんなが悲しむよ」
ふざけるなと言いたいのを我慢した。梨南の美学は礼儀だ。どんなに失礼な振る舞いをされても、礼儀正しく芯の通った言葉遣いをしようと心がけている。だが、心の形に一番近い言葉は「死」でしかない以上、どのような表現も正しくないと思う。はるみを殺したい、ずたずたにして、血まみれにしてやりたい、そう思う心も押さえつけなくてはならないのだろうか。それとも駒方先生は、梨南の「死」という言葉を脅しと思っているのだろうか。いつも筆箱の中に、彫刻刀を持ち歩いている事実を知らないのだろうか。覚悟だということすらも。
「いいかい、梨南。はるみも、健吾も、そりゃあもちろんきついことをいう奴もいるだろう。でもそれはね、しょうがないんだ。梨南がふたりのことを嫌いだ、と思っている間はどうしてもみな、同じような気持ちになってしまうんだよ。だけど、もしな」
言葉を切ってやさしく梨南に微笑んだ。最初はこれで、梨南も騙されそうになったのだ。この先生こそ、まともなのだと信じられそうな気がした。大抵それは裏切られると覚悟しておけば間違うことはなかったし、その通りだった。
「もし、梨南がな、『いいよ、かまわないよ』と思うことができたとたん、きっとはるみも健吾も、他の梨南を傷つける人も、みな変わるんだ。人の心は鏡みたいなものだよ。ほら、さっきの、小春から貰った鏡、出してみてごらん?」
言われた通りに、鞄から取り出した。先生はじっとその鏡の柄を握り、窓辺に向けて空を映した。少し曇りがかった、重たい空が映っていた。
「ほら、今は雲が重たいだろう? 銀色の絵の具を使いたい気分だよなあ」
「青潟には梅雨がないですから」
冷たく言い放ってやった。
「でも、この中に青空を映したら、どうだろう? 空は青空だってことだよなあ」
「当たり前です。そんなこともわからないのですか」
「だったら、青空ばかり映してやったらどうだろうなあ。梨南、そりゃ、気持ちの中はどしゃぶりのことだってあるだろ? でもそれを鏡に映してしまったら、周りの人たちはみなどしゃぶりのいやあな気分になるわけだよ。でも、梨南が雨ではなくてもっと違うものを映してやれば、周りの人はみんな違う気持ちになってくれる。ほら、あそこの梨南が持ってきてくれた花束。きれいな百合だね。あの百合を映すと」
「百合に決まってます。あたりまえではないですか」
鏡の真ん中には、今朝梨南が活けたばかりの白い百合の花一輪、飾られていた。
「そうだろう、だから梨南も、百合の花を一輪、鏡に映してあげるようにすると、みんなも梨南のことを百合だと思うようになるんだよ」 「そんな非現実なことがあるわけありません」
きっぱりと答えた。
インフルエンザで入院した時にやってきた、うさんくさいカウンセラーのおじさんと同じことを言ったって、梨南は一切信用する気がない。
──自分が変われば、他の人も変わるんだよ。
ふざけるな、と追い出したかった。
あれだけ努力をして、あれだけ正しいことをしようとして、あれだけ常識のない人たちに説明をしようとして。
何度も繰り返した結果が、このざまか。
「私はそんなこと信じません。努力すればするほど、すべてを取り上げられたのが私のこれまでです。それならば当然、戦うのが筋でしょう」
まっすぐ、はっきり、梨南のいつも通りの言葉で答えた。
この言葉遣いが「頭おかしいんでないの」ということで、学校からも病院行きを勧められた原因だと、後日、聞いた。
「いやあ、梨南こんなにいい子なのに、みんなに黒百合だと思われているのが勿体無くて、先生、泣けるんだよなあ」
「黒い百合のどこがいけませんか」
はるみや新井林に頭を下げて、「ごめんなさい、私が悪かったの、もう一度友だちになってね」とでも言えば周りは喜ぶんだろうか。
気に入らないパステルカラーの下品なトレーナーとジーンズ姿で家の中を徘徊すれば、両親は満足するんだろうか。
どんなに憎いと思う気持ちすらも捨ててしまえば、楽になると勘違いしたことを言う大人たち。
黒百合を無理矢理脱色しようとして白い鉄砲百合にしようとする、やから。
「私は嫌われること恐れてません。平気です」
もう一度繰り返した。
「あいつらに頭を下げる時は、死ぬ時です」
それ以上顔を見るのもうっとおしくて、梨南はプリントに向かい、問題を解き始めた。
5
三時間目、四時間目はB組での授業だった。ノートと教科書を持って一番後ろの孤立した席につき、授業を聞く。 先生たちも心得てか、梨南を最初から存在しないような形で扱っている。どうやら先生たちの間でも、「杉本を不必要に刺激すると、他の二十九人の生徒たちに迷惑がかかる」ということで協定を組んでいるらしい。もちろん半分以上の勉強は自分で進めているし、時には三年の先輩に聞いたりもしているから全く困ることもないのだが。こんなんで本当に教育委員会に訴えられたら、どうするんだろうか。孤立した状態の中で冷静に計算している自分を見る。
つまり、害獣は消えたほうがいいのだ。
二十九人の生徒たちが傷つく代わりに、一人の生徒が見えないところで泣いても、平気なのが民主主義というものなのだ。
それならば、こちらもその形を利用させてもらおうと決めた。
──私は、ひとりでいい。馬鹿な男子や裏切り者の女子とは縁を切る。
時折、優しそうな笑顔で振りむくはるみに心の血のりを浴びせた後、梨南は教室を出た。給食はE組で食べることにしている。
給食を食べ終え、一人分の食器を食器置き場へ持っていった後、E組の教室に戻ると、狩野先生と立村先輩が教壇のところで何か話をしていた。修学旅行が終わったばかりで、他の三年生たちは日焼けしているのに立村先輩だけは生白いままだった。
「立村くん、この問題が解けるようになると、一ランク上へ行けますよ」
「わかりました」
肩越しに覗き込むのは礼儀知らずなので、気づくまで待つことにした。すぐに勘付いてくれた。
「杉本、しばらく」
「お久しぶりでございます」
九十度ふかぶかと礼をする。ついでに狩野先生にもする。狩野先生はやさしくこっくりと頷くと、
「杉本さんにはあとで、プリントの追加を渡しますから、職員室へ放課後来て下さいね」
かなり細くやせこけた姿を見送った。修学旅行で心身ともにストレスがたまったのではないだろうか。
見送る立村先輩の手には、小学三年生でも解けそうな文章題のプリントが数枚収まっていた。
本当は顔を見るのも腹が立つのだがしかたない、礼儀である。
「どなたかお待ちですか」
「うん、杉本を待ってた」
何を考えているのだろう評議委員長様。この人に騙されて一年間、梨南は評議委員長になるための修行をしていたはずだった。立村先輩も入学当初から梨南のことを可愛がってくれたし、ふたりで「おちうど」という喫茶店でおしるこをすすりつつ話をしたりしていたはずだった。それが一変、評議委員長を新井林に指名しただけではなく、わざわざ桧山先生のところへいって梨南をひきずり降ろそうとしたとは、人間として最低、侮辱するにもほどがあると言いたい。あえてそれを無視して話をするのは、ひとえに向こうの方からフレンドリーに話し掛けてくる以外の何ものでもない。どうやら立村先輩は、人に嫌悪されるという感情を理解できないらしい。梨南にとことん嫌われても関係ないというくらい、脳天気な性格らしい。なにが「俺だけは絶対に杉本のことを嫌いにならないから」なんだろうか。世の中の人間はすべて梨南の敵なのだから。全てを奪い取り、新井林とはるみに全てを与えてしまった張本人をどうやって許せというのだろう。
あのカウンセラーさんも「許してあげると楽になるんだよ」と勘違いしたことをのたまっておられたが、いいかげんにしてほしい。はるみと新井林を許したら、自分にちりひとつ残らなくなることを理解しているのだろうか。今の梨南には、憎しみをエネルギーに変えて戦う以外にすべがない。たったひとつ、関崎さんへの想いを白に、全ての人間に対する憎しみを黒に。「許し」てあとで痛い目に遭わされて、最後の一枚まで剥ぎ取られるくらいなら、死んだほうがましだ。
立村先輩はやたらともそもそと梨南の周りをうろついている。先日の修学旅行中また何かとんでもないことをやらかしたのだろうか。梨南が立村先輩を高く評価し、「男子としては唯一まともな人間」だと信じていた頃ならば、クラスのいざこざに巻き込まれても、清坂先輩とのお付き合いなんていう信じがたいことも、精一杯かばいたいと思えるだろう。かつての自分はそうだった。でも今は、またいつか裏切られてしまうであろう相手でしかない。西月先輩と天羽先輩のことだってそうだ。自分と関崎さんのことだってそうだ。いつか、もしかしたらまた、ずたずたに心を引き裂くかもしれない。血まみれになり、泣き喚く心の自分を見出すかもしれない。もう二度と、男子を信頼するなんてごめんだ。たったひとりの人を除いては。
「あのさ、杉本、明日の午後だけど、空いてるか?」
「何かあるのですか」
できるだけ冷静を装って返事をする。お下げ髪がかすかに耳もとで震えるのが感じられる。
「この日は悪いんだけどさ、ちょっとだけつきあってほしいんだ」
立村先輩の相変わらず不細工で脳天気な顔は、妙にゆがんでいた。一時期はまっとうに見ることもできた顔立ちなのに、どうしてか最近はだんだん崩れてきているように思えてならない。自分の美学概念が狂ってないとしたら、どうして清坂先輩のような女子がこんな不細工な男子を選んだのか、理解に苦しむのも当然だろう。
「ちょっとだけとは」
「うん、杉本には早い段階で話しておくつもりだったんだけどさ」
そこまで口にしたところで、立村先輩はふと、机の上に目を向けた。さっき給食を一緒にした西月先輩たちにも見せた鏡の箱、出しっぱなしにしていたのだった。
「あれ、気に入ったか?」
なにが「あれ」なのだろうか。西月先輩のプレゼントだというのに。何様のつもりなのか。
「ええ、大変気に入ってます」
立村先輩の瞳を一切逸らさぬように、梨南は答えた。全く逸らさず、優しい視線で持って見返す立村先輩はやはり、どこか、感覚がおかしいのだ。そうとしか思えない。梨南のことを一切嫌わない男子なんて、存在しては、いけないのだから。
「私の好みを完璧に理解してくださっている方が下さったものですから、大切にいたします。当然のことです」
「そうか、やっぱりそうか、よかった」
なにが良かったというのだ。立村先輩がくれたわけでもあるまいに。もし立村先輩が選んでくれたのだったら、当然お礼を言うだろうし、そのセンスをもう一度……そう、十一月以前と同じように……評価し、「男子としてまともな感覚の人」として受取るだろう。でもくれたのは西月先輩だ。西月先輩のこと、および女子の先輩たちのことを梨南は「センス以前の問題」として心から慕っているつもりだ。憎しみに閉じ込められた中で、女子の先輩たちだけは梨南を追い出そうとせずに、守ってくれようとしている。いや、守られなくてもなんとかなるし、激しい血しぶきを想像の画像に浮かべることができれば大抵耐えられることなのだけれども、女子の先輩たちの愛情を受け止めるだけの場所はしっかり心に用意しておいている。立村先輩のことも、かつてはちゃんと席を空けていたが、今は椅子をたたんでその辺に放置しているだけのことだ。
「たぶん、それがいいなと思ったんだよな」
また何をふ抜けたことをおっしゃっておられるのだろうか。もちろん立村先輩が梨南と同じ感覚の持ち主だということは知っているけれども。梨南が抗議の意味で無言でいる間、立村先輩はちらっと梨南の髪を撫でるように眺めた。
「話を戻します。まっすぐ見てください」
もう一度梨南ははっきり言い放った。
「なんで、明日、先輩なんぞとお付き合いせねばならないのでしょうか」
「いや、それはさ」
ぴんとひらめくものがある。
「明日、水鳥の方々がいらっしゃるからですか」
隠し事はしない。はるみと同じようなことを告げにきたのだったら、これ以上侮辱を受ける気はないので、さくっと切り捨てる。
立村先輩は言葉を失い、ただ黙っていた。
そうだ、この人は最後の最後で、梨南を裏切った。
たった一つ、欲しかった関崎さんへの道筋をも、すべて指きりで断ち切った。
◆
──杉本、いいか。関崎を今から呼ぶから、ひとつだけ約束してくれないかな。
──馬鹿にしないでください。何を約束するんですか。
──今、関崎が話をしたいと言って、外にいるんだ。その時何を言うかわからないけど、あいつはきちんと礼儀正しく話してくれる奴だから、杉本もそれに相応しい態度で受け取ってほしいんだ。
──立村先輩なんかに命令される筋合いはありません。
──いいから聞くんだ。その時にきちんと、話をして、向こうの望むことを考えてほしいんだ。命令なんかしない。それだけ、それだけできるか?
──人間同士の会話なのですから当たり前です!
──それなら、約束できるよな。もし関崎が受けられない、と言ったら、それが向こうの望むことなんだからな。ちゃんと、受け入れてほしいんだ。もう二度と会ってほしくない、そういわれたらそれが望むことなんだからさ。だけど、俺は杉本のこと嫌いにならないから、それだけは約束するよ。わかったか?
◆
幼稚園児でもあるまいし、指きりなんてさせられる羽目になるとは思わなかった。
三月のあの日。たったひとつ、握り締めていたものひとつを、無理矢理手放せと命令されることに、どれだけ耐えられるというのだろうか。あれから立村先輩は、関崎さんとふたりきりで話をさせてくれた。関崎さんは「現在のところは保留」と言ってくれたから、梨南も梨南なりに受け取って、また後でと解釈した。それをなぜ、責められるのだ?
新井林やはるみたちに無理矢理引き離されなくてはならないのだ。まだ何も始まっていないのに。関崎さんが梨南をたったひとり、受け止めてくれる人だとわかっているからこそ、邪魔するのだろうか。許せない。立村先輩も梨南は信用して裏切られた。今更のようにご機嫌とりするのだろうか。さりげなく関崎さんの情報を流してくれたり、今のように余計な話をしたりするのだろうか。
「杉本、どうしてそれ知ってる?」
「佐賀さんから聞きました。評議委員会で本当は隠しておきたいことだったらしいですね」
梨南は立村先輩に向かって言い放った。自分が毒ガスを撒き散らすのだったら、この場で全て吸い込んで即死してほしかった。この人にははるみに対するように血まみれの画像を重ねることはできない。また、かつて「まともな男子」と信じた記憶が蘇り消されてしまうから。関崎さんのかたちと重なるから。
「確かにそうだけど、でもなんでだ?」
「私に一切近づかないでくれと命令されました」
顔がひきつっている。頬がへこんだ。不細工な顔が一層崩れている。見苦しい。
その顔のまま梨南の前にかがみこむと、立村先輩は声を低くして尋ねた。
「それ、いつだ。修学旅行中か」
「ついさっき、二時間目の休み時間です」
胸がむかむかしてくる。結局ははるみの言い分を飲むしかなかった。飲んだのは一重に、立村先輩との約束。関崎さんに近づくな、とは言われなかったけれども、関崎さんの受験が終わるまでは一切言葉を発しないと約束したし心に誓った。だから、立村先輩を通して垣間見するだけではないか。それすらもはるみはやめろと言うのだ。
胸が詰まる。りりしい「ローエングリン」様の姿が蘇る。目の前の立村先輩を切り裂き、関崎さんの姿を側で見つめたい。手紙だけではなく、生身の姿であの人へ。
「関崎さんがご迷惑になるそうです。受験が終わるまでは私も会わないと決めてますし、その点は立村先輩とお約束しているはずです。でもなんででしょうか。その一方で立村先輩、私になんでこんなことさせようとするんですか!」
声が震えているのが、自分でもわかる。とどめようとする立村先輩の視線が痛い。
「私、先輩と約束したのに、なんで破らせようとするんですか! そこまで私を殺したいのですか」
「違う、違うよ、杉本、そういう意味じゃないよ、ただ」
「私からすべてを取り上げて、今度は最後のものまで奪おうとするのですか」
「あ、あのそれは、誤解を招く表現かと」
「知りません! 立村先輩をもう信用しないと決めてますから、もう知りません!」
できるだけ、声を大人にして席に戻るつもりだった。しつこく立村先輩は梨南の顔を見つめながら、
「ごめん、そうだよな。杉本は約束を決して破らないものな」
もう一度梨南に目を留め、机上の鏡を見つめ、出ていった。
6
鏡を包んだ薄紙の下に小さく折手紙が挟み込まれていた。西月先輩のメッセージカードらしかった。 さっきあけた時には気がつかなかった。
──これは、立村くんと私がふたりで割り勘で買ったものです。
私はちょっと杉本さんにはおばあさんっぽすぎると思ったんですが、立村くんが絶対この柄でないといやだと言ってきかなかったので、しかたなくそうしました。 あとで立村くんと会うことがあったら、さりげなくそのこと言ってあげてね。
誰もいないE組の教室で、梨南は鏡をもう一度取り出した。
ほたると水草の描かれた、金色の絵。
心にすうっと染みとおる。
抱き締めて、すべての毒を鏡の面に吸い込んでもらいたかった。
ブラウスを通じてかすかに感じる冷たい感覚は、一瞬だけ梨南を一年前の自分に戻してくれそうだった。
たったひとり、やっと自分を評価してくれる人だと思えた瞬間を、思い出させてくれそうだった。




