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煙子-boy of the smoke-  作者: 神箭花飛麟


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8/12

七 嵐と、嵐の中でしか見えないもの

 嵐の予兆は、朝の空の色だった。


 東の水平線が、通常とは違う赤をしていた。血の赤ではなく、錆の赤だった。くすんだ、重い赤で、それを見たザイナブが無言で帆の向きを変え始めた。カマルッディン老人が海図を丸めて懐にしまった。説明は何もなかった。必要なかった。海を知っている人間は、言葉より先に身体が動く。


 ヤスフは煙子を見た。


 煙子は東の空を見ていた。あの赤を見ていた。その顔に、ヤスフが初めて見る表情があった。恐怖ではなかった。しかし恐怖に隣接した何かだった。知っている、という顔だった。この色を、この空を、以前に見たことがあるという顔だった。どこで見たのか。それを思い出そうとして、思い出せないでいるような顔だった。


 嵐は昼前に来た。



 最初は風だけだった。


 南から来る風で、温かく、しかし力が強かった。帆が限界まで膨らんで、ヤスフが綱を押さえるのに全力が要った。船が傾いた。積荷が動く音がした。ザイナブが何かを叫んだ。風に消えて聞こえなかったが、意味は分かった。帆を畳む、ということだった。


 二人で帆を畳んだ。


 それでも風は来た。波が高くなった。空が暗くなり、雨が来た。横から来る雨で、顔に当たると痛かった。ヤスフは綱にしがみついた。


 煙子がいなかった。


 気づいたのは、雨が本格的になってからだった。船首を見た。いなかった。積荷の陰を見た。いなかった。ヤスフは船全体に目を走らせた。


 船の中央、マストの根元にいた。


 マストに両腕を回して、しがみついていた。顔がマストに押し付けられていた。目を閉じていた。雨に打たれ、波に揺られ、全身で震えていた。震えが遠目にも分かるくらい、全力で震えていた。


 ヤスフはザイナブに舵を任せ、煙子のところへ行った。


 波が来るたびに足元が狂った。甲板が傾き、水が流れ込み、また傾いた。ヤスフは綱を掴みながら移動した。煙子のところまで辿り着いて、その腕を掴んだ。


 煙子が目を開けた。


 泣いていた。泣きながら震えていた。六日目の昼の泣き方とは全然違った。あれは静かな泣き方だったが、今のは声が出ていた。叫んでいるのに風に消えて聞こえないだけで、口は大きく開いていた。子供が本当に怖いときの泣き方だった。何かに助けを求めるのではなく、ただ怖いから泣く、という泣き方だった。


 ヤスフは煙子をマストから引き剥がし、自分の胸に引き付けた。


 片腕で煙子を抱え、もう片腕でマストを掴んだ。煙子はヤスフの衣をつかんだ。両手で、力いっぱいつかんだ。顔をヤスフの胸に押し付けた。震えが止まらなかった。


 波が来た。


 大きな波だった。船が大きく傾いて、水が甲板を流れた。ヤスフはマストを離さなかった。煙子を離さなかった。水が二人を叩いた。冷たかった。煙子の震えが一瞬止まり、また始まった。


「いい」とヤスフは叫んだ。風に消えた。もう一度叫んだ。「いい。大丈夫だ」


 通じないのは分かっていた。しかし叫ばずにいられなかった。


 嵐は二時間続いた。



 収まったのは、午後の半ばだった。


 急に収まった。来たときと同じくらい急に、風が弱まり、波が低くなり、雨が止んだ。空に光が戻ってきた。水を含んだ雲の間から、薄い光が差した。濡れた甲板が、その光を反射した。


 ヤスフはマストに背中を預けたまま、座り込んでいた。


 煙子はまだヤスフの衣を掴んでいた。気づいていないのかもしれなかった。掴んだまま、嵐が去った海を見ていた。波はまだ少し高かったが、もう怖い高さではなかった。空が、洗われたように青かった。嵐の後の空の青さは、ヤスフがこれまで見た中で最も正直な青だといつも思っていた。


「終わったぞ」とヤスフは言った。


 煙子は衣を掴んでいることに、そこで気づいたようだった。手を離した。それから少し考えて、またヤスフの方を見た。何かを言った。


 短い言葉だった。


 語尾がいつもと違った。硬くない語尾だった。柔らかく、低く終わる言葉だった。ヤスフには意味が分からなかった。しかし何となく、礼を言っているような気がした。あるいは、礼よりもっと単純な、ただ言いたかった何かかもしれなかった。


「どういたしまして」とヤスフは言った。アラビア語で言った。意味は通じないだろうと思いながら言った。


 煙子はその言葉を聞いて、小さく息を吐いた。緊張が抜ける音だった。


 それからしばらくして、おなかが鳴った。


 煙子のおなかが、派手に鳴った。嵐の静寂の中で、よく聞こえた。煙子は固まった。耳まで赤くなった。ヤスフを見た。ヤスフを見てから、別の方向を見た。気まずそうな、どこにも目を向けられないような顔をした。


 ヤスフは笑った。


 声を出して笑った。この旅で初めて笑った。久しぶりに笑ったから、どこかぎこちなかったかもしれなかったが、笑いは本物だった。


 煙子はヤスフが笑うのを見て、また赤くなった。今度は顔全体が赤くなった。それから、今度は自分も笑った。恥ずかしいのに笑ってしまう、という笑い方だった。六日目に見た歯の見える笑い方で、しかし今回はもっと困った顔が混じっていた。



 食事はザイナブが用意した。


 嵐の後の食事は質素だった。乾燥させた豆を水で戻したもので、味はほとんどなかったが、温かかった。煙子は受け取って、今度は確かめもせずに食べた。腹が減っていれば味は関係なかった。あっという間に食べ終えて、椀の底を指でなぞった。


 ザイナブが無言でもう一杯よそった。


 煙子は受け取って、今度は少し遅く食べた。食べながら、板を膝の上に出した。嵐の間も手放さなかったのだろう。濡れていたが、刻まれた文字は消えていなかった。木の深いところまで刻んであるからだと思った。


 カマルッディン老人が、食べ終えた煙子の隣に来て座った。


「板が濡れている」と老人は言った。


 煙子は老人を見た。


 老人は懐から布を出して、板を拭く動作をした。煙子は少し考えてから、板を渡した。老人は丁寧に、隅から隅まで水気を拭いた。それから板を光にかざした。嵐の後の傾いた光が、板の文字を照らした。


 老人の目が細くなった。


「ハジブ」と老人は呼んだ。


 ハジブが来た。嵐の間どこにいたのかヤスフには分からなかった。濡れていなかった。それ自体が不思議だったが、今は置いておいた。


 老人はハジブに板を渡した。ハジブは板を見た。老人が何かを言った。二人が短くやり取りをした。ヤスフには聞き取れない言語だった。


「何だ」とヤスフは言った。


 ハジブは板をヤスフに見せた。嵐の後の光の中で、板の表面に、いつもとは違うものが見えた。水に濡れたことで、木の表面の色が変わっていた。その色の変わり方が、文字の形をしていた。刻まれた文字ではなく、木の内側に染み込んだ、別の文字だった。


 三層目だった。


 煙子が立ち上がって、板を覗き込んだ。その目が、初めてヤスフの知らない動き方をした。認識の光だった。これを知っている、という目の光だった。


 煙子は板の三層目の文字を、指でなぞった。一字一字、丁寧になぞった。なぞりながら、小さな声で何かを言った。


 読んでいた。


 声は小さくて、風に半分持っていかれた。しかし読んでいることは分かった。この子供は、この文字が読めた。


 全員が静かになった。


 煙子は読み終えて、顔を上げた。全員を見た。それから一言だけ言った。


 ザイナブが息を呑んだ。


「何と言った」とヤスフはザイナブに聞いた。ザイナブが分かるということを、このとき初めて確信した。


 ザイナブはしばらく黙っていた。


「家に帰る」とザイナブはやがて言った。「そう言っている」


 海が凪いでいた。


 東の水平線に、雲が一つだけ残っていた。嵐の忘れ物のような雲だった。夕日がその雲を染めた。赤ではなかった。今度は錆でも血でもない、ただ穏やかな橙色だった。

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