七 嵐と、嵐の中でしか見えないもの
嵐の予兆は、朝の空の色だった。
東の水平線が、通常とは違う赤をしていた。血の赤ではなく、錆の赤だった。くすんだ、重い赤で、それを見たザイナブが無言で帆の向きを変え始めた。カマルッディン老人が海図を丸めて懐にしまった。説明は何もなかった。必要なかった。海を知っている人間は、言葉より先に身体が動く。
ヤスフは煙子を見た。
煙子は東の空を見ていた。あの赤を見ていた。その顔に、ヤスフが初めて見る表情があった。恐怖ではなかった。しかし恐怖に隣接した何かだった。知っている、という顔だった。この色を、この空を、以前に見たことがあるという顔だった。どこで見たのか。それを思い出そうとして、思い出せないでいるような顔だった。
嵐は昼前に来た。
最初は風だけだった。
南から来る風で、温かく、しかし力が強かった。帆が限界まで膨らんで、ヤスフが綱を押さえるのに全力が要った。船が傾いた。積荷が動く音がした。ザイナブが何かを叫んだ。風に消えて聞こえなかったが、意味は分かった。帆を畳む、ということだった。
二人で帆を畳んだ。
それでも風は来た。波が高くなった。空が暗くなり、雨が来た。横から来る雨で、顔に当たると痛かった。ヤスフは綱にしがみついた。
煙子がいなかった。
気づいたのは、雨が本格的になってからだった。船首を見た。いなかった。積荷の陰を見た。いなかった。ヤスフは船全体に目を走らせた。
船の中央、マストの根元にいた。
マストに両腕を回して、しがみついていた。顔がマストに押し付けられていた。目を閉じていた。雨に打たれ、波に揺られ、全身で震えていた。震えが遠目にも分かるくらい、全力で震えていた。
ヤスフはザイナブに舵を任せ、煙子のところへ行った。
波が来るたびに足元が狂った。甲板が傾き、水が流れ込み、また傾いた。ヤスフは綱を掴みながら移動した。煙子のところまで辿り着いて、その腕を掴んだ。
煙子が目を開けた。
泣いていた。泣きながら震えていた。六日目の昼の泣き方とは全然違った。あれは静かな泣き方だったが、今のは声が出ていた。叫んでいるのに風に消えて聞こえないだけで、口は大きく開いていた。子供が本当に怖いときの泣き方だった。何かに助けを求めるのではなく、ただ怖いから泣く、という泣き方だった。
ヤスフは煙子をマストから引き剥がし、自分の胸に引き付けた。
片腕で煙子を抱え、もう片腕でマストを掴んだ。煙子はヤスフの衣をつかんだ。両手で、力いっぱいつかんだ。顔をヤスフの胸に押し付けた。震えが止まらなかった。
波が来た。
大きな波だった。船が大きく傾いて、水が甲板を流れた。ヤスフはマストを離さなかった。煙子を離さなかった。水が二人を叩いた。冷たかった。煙子の震えが一瞬止まり、また始まった。
「いい」とヤスフは叫んだ。風に消えた。もう一度叫んだ。「いい。大丈夫だ」
通じないのは分かっていた。しかし叫ばずにいられなかった。
嵐は二時間続いた。
収まったのは、午後の半ばだった。
急に収まった。来たときと同じくらい急に、風が弱まり、波が低くなり、雨が止んだ。空に光が戻ってきた。水を含んだ雲の間から、薄い光が差した。濡れた甲板が、その光を反射した。
ヤスフはマストに背中を預けたまま、座り込んでいた。
煙子はまだヤスフの衣を掴んでいた。気づいていないのかもしれなかった。掴んだまま、嵐が去った海を見ていた。波はまだ少し高かったが、もう怖い高さではなかった。空が、洗われたように青かった。嵐の後の空の青さは、ヤスフがこれまで見た中で最も正直な青だといつも思っていた。
「終わったぞ」とヤスフは言った。
煙子は衣を掴んでいることに、そこで気づいたようだった。手を離した。それから少し考えて、またヤスフの方を見た。何かを言った。
短い言葉だった。
語尾がいつもと違った。硬くない語尾だった。柔らかく、低く終わる言葉だった。ヤスフには意味が分からなかった。しかし何となく、礼を言っているような気がした。あるいは、礼よりもっと単純な、ただ言いたかった何かかもしれなかった。
「どういたしまして」とヤスフは言った。アラビア語で言った。意味は通じないだろうと思いながら言った。
煙子はその言葉を聞いて、小さく息を吐いた。緊張が抜ける音だった。
それからしばらくして、おなかが鳴った。
煙子のおなかが、派手に鳴った。嵐の静寂の中で、よく聞こえた。煙子は固まった。耳まで赤くなった。ヤスフを見た。ヤスフを見てから、別の方向を見た。気まずそうな、どこにも目を向けられないような顔をした。
ヤスフは笑った。
声を出して笑った。この旅で初めて笑った。久しぶりに笑ったから、どこかぎこちなかったかもしれなかったが、笑いは本物だった。
煙子はヤスフが笑うのを見て、また赤くなった。今度は顔全体が赤くなった。それから、今度は自分も笑った。恥ずかしいのに笑ってしまう、という笑い方だった。六日目に見た歯の見える笑い方で、しかし今回はもっと困った顔が混じっていた。
食事はザイナブが用意した。
嵐の後の食事は質素だった。乾燥させた豆を水で戻したもので、味はほとんどなかったが、温かかった。煙子は受け取って、今度は確かめもせずに食べた。腹が減っていれば味は関係なかった。あっという間に食べ終えて、椀の底を指でなぞった。
ザイナブが無言でもう一杯よそった。
煙子は受け取って、今度は少し遅く食べた。食べながら、板を膝の上に出した。嵐の間も手放さなかったのだろう。濡れていたが、刻まれた文字は消えていなかった。木の深いところまで刻んであるからだと思った。
カマルッディン老人が、食べ終えた煙子の隣に来て座った。
「板が濡れている」と老人は言った。
煙子は老人を見た。
老人は懐から布を出して、板を拭く動作をした。煙子は少し考えてから、板を渡した。老人は丁寧に、隅から隅まで水気を拭いた。それから板を光にかざした。嵐の後の傾いた光が、板の文字を照らした。
老人の目が細くなった。
「ハジブ」と老人は呼んだ。
ハジブが来た。嵐の間どこにいたのかヤスフには分からなかった。濡れていなかった。それ自体が不思議だったが、今は置いておいた。
老人はハジブに板を渡した。ハジブは板を見た。老人が何かを言った。二人が短くやり取りをした。ヤスフには聞き取れない言語だった。
「何だ」とヤスフは言った。
ハジブは板をヤスフに見せた。嵐の後の光の中で、板の表面に、いつもとは違うものが見えた。水に濡れたことで、木の表面の色が変わっていた。その色の変わり方が、文字の形をしていた。刻まれた文字ではなく、木の内側に染み込んだ、別の文字だった。
三層目だった。
煙子が立ち上がって、板を覗き込んだ。その目が、初めてヤスフの知らない動き方をした。認識の光だった。これを知っている、という目の光だった。
煙子は板の三層目の文字を、指でなぞった。一字一字、丁寧になぞった。なぞりながら、小さな声で何かを言った。
読んでいた。
声は小さくて、風に半分持っていかれた。しかし読んでいることは分かった。この子供は、この文字が読めた。
全員が静かになった。
煙子は読み終えて、顔を上げた。全員を見た。それから一言だけ言った。
ザイナブが息を呑んだ。
「何と言った」とヤスフはザイナブに聞いた。ザイナブが分かるということを、このとき初めて確信した。
ザイナブはしばらく黙っていた。
「家に帰る」とザイナブはやがて言った。「そう言っている」
海が凪いでいた。
東の水平線に、雲が一つだけ残っていた。嵐の忘れ物のような雲だった。夕日がその雲を染めた。赤ではなかった。今度は錆でも血でもない、ただ穏やかな橙色だった。
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