四 紅海と、海が隠しているもの
三日で、アレクサンドリアが遠くなった。
遠くなる、というのは距離の話だけではない。記憶の話でもある。街というのは離れてしまえば急速に薄れる。路地の匂いも、市場の声も、朝の光の色も、海に出て三日も経てばもう輪郭が怪しくなってくる。ヤスフはそれを悪いことだと思っていなかった。薄れない記憶を持ち歩くのは重すぎる。人間が旅をできるのは、忘れる能力があるからだとヤスフは思っていた。忘れられない人間は、たいてい旅の途中で止まる。止まったまま、どこかで朽ちる。
紅海は、機嫌の読めない海だった。
午前は凪いでいて、午後に突然怒る。怒ったかと思えば夜には拗ねて静まる。地中海の気性の良さとは全く違う、粘り気のある気難しさだった。ザイナブはその気分の変わり目をよく読んだ。風が変わる一刻前に帆の向きを変え、波が立つ前に船の角度を修正した。身体で覚えている動きだった。頭で考えている動きではなかった。何年もかけて海に教わった動きだった。
ヤスフはそれを見ながら、この女がどこで何を覚えてきたのかを考えた。アデン出身と言っていた。商人の家の生まれと言っていた。それだけが手持ちの情報で、あとは何もなかった。聞けば答えるかもしれなかった。しかし聞かなかった。聞かないのが、こういう階級というか族種の流儀だった。誰も言わないから流儀とは呼べないが、全員が自然にそうしていた。
ハジブは昼間も夜も、ほとんど動かなかった。
船の中央、積荷の束の上に座り、目を開けたまま動かないことがあった。眠っているのか起きているのか、ヤスフには判別できなかった。食事は少量しか取らなかった。水も人より飲まなかった。まるで必要な量が他の人間より少ないような、そういう生き方をしていた。疲れるだろうと思った。こういう生き方をしている人間は概して長生きしない。しかしハジブは長生きしていた。少なくとも、ヤスフが知っている限りでは。
煙子は、船に慣れるのが早かった。
最初の一日は船首に座ったまま動かなかった。二日目から、少しずつ船の中を歩き始めた。帆の綱を触り、積荷の布を指で撫で、船縁から身を乗り出して水面を覗いた。好奇心と慎重さが半分ずつある動き方だった。知らないものに触れるとき、この子供は必ず一度止まって、それから触れた。止まる時間は毎回同じくらいだった。計っているわけではないだろうが、そういう均一さがあった。
四日目の朝、煙子がザイナブの隣に来て座った。
ザイナブは舵を握ったまま、横目で子供を見た。追い払わなかった。そのまま舵を取り続けた。煙子はザイナブの手元を見ていた。舵の動かし方を、じっと見ていた。学ぼうとしている目だった。何かを盗もうとしている目だった。悪い意味ではなく、そういう目をしている子供というのがいる。見たものを全部自分の中に入れようとする目だ。
しばらくして、ザイナブが無言で舵から手を離した。
煙子の小さな手が、舵を握った。船がわずかに揺れた。煙子の肩が緊張で上がった。ザイナブが何かを言った。煙子には分からない言葉だったはずだが、声の質が伝わったようだった。肩が下がった。舵を握る手から、少しだけ力が抜けた。船の揺れが収まった。
ヤスフはそれを後ろから見ていた。
ザイナブがどういう気持ちであの子供に舵を渡したのか分からなかった。聞かなかった。ただ、ザイナブが何かを決めたのだということは分かった。この女は何かを決めるとき、顔ではなく背中に出る。肩甲骨の間あたりに、静かな決意が現れる。その日の朝から、ザイナブの背中はそういう背中をしていた。
五日目の夜、ハジブが口を開いた。
唐突だった。誰かに向けた言葉でもなさそうだった。海を見ながら、独り言のような声量で言った。
「板の文字は、一種類じゃない」
ヤスフは振り向いた。ザイナブも動いた。
「昼間の光で見ると分からん」ハジブは続けた。「だが月の光で見ると、二層になっている。表の文字の下に、別の文字が刻んである」
沈黙があった。波の音だけがあった。
「いつ気づいた」とヤスフは言った。
「アレクサンドリアを出る前の夜だ」
「なぜ言わなかった」
「言う必要がある段階ではなかった」
ヤスフは何か言おうとして、やめた。この男と言葉で争っても消耗するだけだということは、長い付き合いで学んでいた。学んでも腹は立つ。ただ、腹を立てても何も変わらないということも、同じくらいよく知っていた。
「下の文字は何だ」と代わりに聞いた。
ハジブはしばらく黙った。
「場所だ」とやがて言った。「どこかの場所を示している。ただ、その場所の名前が、今は存在しない名前で書かれている」
「今は存在しない」
「かつてあった場所の、かつての名前だ」ハジブは海に目を戻した。「あるいは、まだ存在するが別の名前に変わった場所か。どちらかは分からん」
「読めるのか」とザイナブが言った。初めて声に鋭さがあった。
「少しだけ」とハジブは答えた。「全部ではない」
「どこだ」
ハジブは答えなかった。今度の沈黙は長かった。答えたくないのか、答え方を探しているのか、ヤスフには判別できなかった。
煙子がいつの間にか起きていた。
毛布の中で目を開けて、ハジブを見ていた。ハジブは煙子を見なかった。しかし煙子がそこにいることは分かっているようだった。話の続きを聞かせるために話しているような、そういう間があった。
「インドより先だ」とハジブはやがて言った。「海の名前が変わる場所より、さらに先だ」
誰も何も言わなかった。
月が雲に入った。海が暗くなった。波の音だけが残った。ヤスフは板のことを考えた。表の文字と、その下に隠れた別の文字。重なり合った二つの言葉。片方は誰かに見せるためのもので、もう片方は誰かに隠すためのもの。あるいは、特定の誰かにだけ見せるためのものか。
月の光の下でだけ読める文字を刻んだ者は、読む者が夜にいることを知っていた。
それはどういう人間か。
ヤスフは煙子を見た。煙子はまだハジブを見ていた。ハジブは海を見ていた。三人の視線がそれぞれ別の方向を向いて、しかしどこかで繋がっているような夜だった。
「眠れ」とハジブは言った。誰に言ったのか分からなかった。
誰も眠らなかった。
雲が流れて、また月が出た。星が戻ってきた。東を指す星が、今夜も一番明るかった。ヤスフはその星を見た。昔、誰かにその星の名前を教わった。名前は忘れた。教わった相手の顔も忘れた。しかし星の位置だけは忘れなかった。必要なものだけが残る。人間の記憶はよくできている、とヤスフは思った。
思ってから、煙子が抱えている板のことを、また考えた。
表の文字と、隠れた文字。どちらが先に刻まれたのか。そしてなぜ、この子供がそれを持っているのか。子供がそれを持つように決めたのは誰で、どこで、何のために。
答えはまだ、海の先にあった。
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