三 出発と、出発しない者
明後日の夜明けは、霧の中から来た。
港全体が白く煙っていた。煙子、とヤスフは思った。それから自分が子供をそう呼び始めていることに気づいた。いつからかは分からない。気づいたときにはそうなっていた。名前というのはそういうものかもしれなかった。誰かが誰かに与えるのではなく、気づいたときにはそこにある。子供はその名前を知らない。知らないまま、その名前で呼ばれていた。世の中にはそういうことが多い、とヤスフは思った。思ってから、自分のことを考えた。ヤスフという名前も、本名ではなかった。
積荷は前夜のうちに積み終わっていた。
表向きはコショウとシナモンと、上等の綿布が数反。どれも東へ行く船が西から運ぶものとしては自然だった。不自然なところが一つもなかった。それ自体が不自然だった。ハジブの仕事は細かすぎるほど細かかった。こういう仕事の細かさは、長い経験から来るか、あるいは強い恐怖から来るか、どちらかだとヤスフは思っていた。ハジブの場合はおそらく両方だった。
夜明け前に、カリームが来た。
頼んでいないのに来た。それ自体が珍しいことだった。カリームは呼ばれなければ動かない男だった。自分から動くときは、よほどのことがある時だった。彼は桟橋の端に立ち、積荷を眺め、船を眺め、それから煙子を眺めた。煙子は甲板の船首近くにしゃがんで、板を水平に持ち、水面の方へ向けていた。何かを測っているような仕草だった。
「その子供」とカリームはヤスフに言った。「あちこちで話が出ている」
「昨日今日来た子供の話がどこから出る」
「知らん」カリームは首を振った。「だが出ている。市場の東端から西端まで、半日で広まった。東から流れてきた子供が、例の板を持っているという話だ」
ヤスフは黙った。
「例の、とはどういう意味だ」
「だから」カリームは言いにくそうに言った。「板に心当たりがある者がいるということだ。会ったことはないが名前だけは聞いたことがある、という程度の者が。この街に少なくとも三人はいる」
「三人」
「今朝の時点での話だ。増えているかもしれん」
ヤスフはハジブを見た。ハジブは聞いていた。表情は動いていなかった。それが既に表情だった。
「出る時間を早める」とハジブは言った。
「霧が出ている」とザイナブが言った。「視界が利かん」
「霧の中でしか出られない理由が、今できた」
ザイナブは一秒だけ考えた。それから動き始めた。迷う動作が一切なかった。決めたら動く人間の、気持ちのいい動き方だった。
カリームはヤスフの腕を掴んだ。
「一つだけ言っておく」と彼は言った。声が低かった。陽気が全部消えていた。「三人のうちの一人は商人じゃない。この街に何年もいるが、誰も何を売っているか知らない。そういう男だ。名前はマンスールという。昨夜からお前たちの廃屋の周りをうろついている」
「昨夜から」
「だから俺は今ここにいる」
ヤスフはカリームの目を見た。嘘をついている目ではなかった。この男が嘘をつくときは目が笑う。今は笑っていなかった。
「なぜそこまでする」とヤスフは言った。「俺はお前の客じゃなくなる」
カリームは肩をすくめた。「お前が生きて戻れば、また客になる。俺はそういう商売をしている」
それだけ言って、カリームは踵を返した。霧の中に、小太りの背中が消えた。
縄を解き、棹で桟橋を押した。
船が動いた。
霧の中を、ゆっくりと、音を立てずに進んだ。ザイナブが舵を取り、ヤスフが帆の具合を見た。風は弱かったが、向きは良かった。東寄りの風だった。霧はむしろ好都合だった。港を出るまでは誰にも見えない。見えないということは、追えないということだった。
しばらくして、桟橋の方向から人の気配がした。
霧の中だったから見えなかった。しかし確かに誰かがそこにいた。立っていた。ただ立って、こちらを見ていた。足音も声もなかった。ただ視線だけがあった。
ヤスフはその方向を見た。
霧は何も見せなかった。
煙子は船首にいた。霧の中を正面から見ていた。何も見えないはずだった。それでも見ていた。板は胸に抱えていた。両腕でしっかりと、大事なものを持つ子供の抱え方で。
ヤスフは子供の横に立った。
霧が顔に当たった。冷たく、湿っていた。
「怖くないか」と聞いた。言葉が通じないのは分かっていた。それでも聞いた。聞かずにいられなかったわけではなく、ただ、誰かに言っておきたかっただけかもしれなかった。
煙子は答えなかった。しばらくして、一言だけ言った。
ヤスフには分からない言葉だったが、語尾の響きは今までと違った。疑問ではなく断言の音だった。柔らかくも、しかし揺れていない音だった。何かを既に決めた者の声だった。
港の灯がいくつか霧に滲み、それからゆっくりと消えた。アレクサンドリアが、見えなくなった。
ヤスフは振り返らなかった。
後ろに何があるかは知っていた。知っていても帰れない場所が人間には幾つかある。理由は様々だが、ヤスフの場合は単純だった。帰る理由が、なかった。前に何があるかを、まだ知らなかった。知らない方に顔を向けておくのが、彼の長年の習慣だった。そうしないと、どこへも行けなかった。
帆が風を受けた。
船が、加速した。
霧の中を、東へ向かって。
桟橋に残った人影が、もしそこにいたとすれば、もう見えなかった。霧がすべてを均等に、白く、塗り潰していた。マンスールという名前を、ヤスフは口の中で一度だけ繰り返した。それから忘れた。今は要らない名前だった。いつか要る日が来るかどうかは、その日になってから考えればいい。
それがヤスフの、もう一つの習慣だった。
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