二 船と、船を使わない理由
女の名前はザイナブといった。
少なくとも、そう名乗った。信じるかどうかはヤスフが決めることで、女は気にしていないようだった。ハジブに連れられて現れる人間が本名を使うわけがないことは、ヤスフには最初から分かっていた。名前というのはこういう場所では道具だった。使い捨ての、安い道具。
ザイナブはアデン出身だと言った。商人の家の生まれで、十二の時から海を渡っていると言った。それだけ言って、あとは黙った。補足も説明もしなかった。必要なことだけ言って必要以上は言わない人間の喋り方だった。ヤスフには好感が持てた。
子供が言った言葉について、ハジブもザイナブも詳しくは話さなかった。
ヤスフは一度だけ聞いた。二度は聞かなかった。それがこの三人の間の、まだ誰も口にしていない規則だった。
その夜、四人は廃屋に泊まった。
ハジブは壁際に座ったまま眠らなかった。ザイナブは入口の近くに横になり、しかし眠っているのか起きているのか分からなかった。子供は毛布にくるまり、板を腹の上に乗せたまま、静かに寝息を立てた。ヤスフだけが天井の穴から星を見ていた。穴から見える星は三つで、三つとも知っている星だった。航海で使う星だった。
東を指す星が、一番明るかった。
翌朝、船を見に行った。
港の外れの、人があまり来ない桟橋に、ハジブが手配した船は繋いであった。中型の商船で、外洋を渡るには小さく、川を遡るには大きかった。帆は古く、縫い合わせた跡が何箇所もあった。しかし船底はしっかりしていた。ヤスフが踏んで確かめると、きちんと答えが返ってきた。生きている木の感触だった。
「船頭は」とヤスフは聞いた。
「お前だ」とハジブは言った。
「俺は船頭じゃない」
「なれる」
「なれるとなるは違う」
ハジブは答えなかった。
ザイナブが言った。「私が操れる。インド洋は知っている。ホルムズより先は案内人が要るが、それは現地で探す」
ヤスフはザイナブを見た。嘘をついている顔ではなかった。ただ、嘘をついている顔をしていない人間が最も巧みに嘘をつくことも、ヤスフは知っていた。
桟橋に座って、ヤスフは海を見た。
アレクサンドリアの海は、この時間、鈍い銀色をしていた。光が足りていない色だった。美しいとは思わなかったが、嫌いでもなかった。この色の海を、ヤスフはもう何年見ているだろう。数えたことはなかった。数える必要を感じたことがなかった。
子供が隣に来て座った。
ヤスフは驚かなかった。音がしなかったのに隣に人が座っている、という感覚には、昨夜からもう慣れていた。この子供は物音を立てない。靴を履いていないからではなく、もともとそういう動き方をしていた。生まれつきか、あるいは教えられたか。
子供は海を見た。ヤスフと同じ方向を見た。
しばらく沈黙が続いた。
それからヤスフは試しに言った。ゆっくりと、区切りながら。
「お前の国は、東にあるのか」
言葉は分からないはずだった。しかし子供は、東、という発音に反応した。体の向きが、わずかに変わった。頭が、海の向こうへ、傾いた。
それで十分だった。
ヤスフは立ち上がり、船の縄を確かめた。結び目は悪くなかった。誰かが丁寧に仕事をしていた。
「出るのはいつだ」と後ろのハジブに言った。
「潮が変わる前に」
「今夜か」
「明後日の夜明けだ」緊張のない声でハジブは言った。「それまでに積荷を揃える。表向きは香辛料の交易船だ」
「積荷を用意する金はどこから出た」
ハジブは答えなかった。
ヤスフはもう一度だけ聞いた。「どこから出た」
「出どころを知りたいか」とハジブは言った。「知れば、船に乗らない理由ができるかもしれんぞ」
ヤスフはしばらく考えた。
考えてから言った。「そうか」
それだけ言って、船に乗り込んだ。
板張りの甲板を踏むと、足の裏から波の動きが伝わってきた。うねりは穏やかだった。海の機嫌が良い日だった。
子供がまた隣にいた。
いつ乗り込んだのか、ヤスフは分からなかった。音がしなかった。ただそこにいた。小さな手が、船縁の木をしっかりと掴んでいた。
東を見ていた。
ヤスフも東を見た。水平線の向こうに何があるか、今は何も見えなかった。見えないということは、まだ知らないということで、知らないということは、まだそこへ行っていないということだった。
悪くない理由だと、ヤスフは思った。
旅に出るのに、これ以上の理由は要らなかった。
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