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煙子-boy of the smoke-  作者: 神箭花飛麟


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2/12

一 名前を持たない男と、名前だけの男

 アレクサンドリアには何でもあった。


 象牙と、奴隷と、香辛料と、嘘と、神学論争と、三日で腸を腐らせる水と、百年経っても褪せない青のタイルと、十七の言語と、その言語の数だけある神と、神の数だけある裏切りと。要するに何でもあった。世界の臍というのは誇張だが、世界の下水溝というのも言い過ぎで、その中間のどこかに、この街はあった。少なくともヤスフはそう思っていた。もっとも彼は、どの街に着いてもだいたい似たようなことを思う男だったから、これはアレクサンドリアの評価というより、彼自身の世界観に近かった。


 子供を廃屋に残し、毛布を二枚重ねて寝かせ、水を手の届く場所に置いてから、ヤスフは表に出た。


 朝の市場は一日の中で最も正直だった。昼になれば商人たちは愛想を身につけ、夜になれば全員が嘘をつく。しかし朝だけは、誰もまだ仮面を探している最中だった。眠そうな顔で荷を広げ、欠伸をしながら値段を言い、釣り銭を間違える。ヤスフはそういう市場の方が好きだった。


 カリームの屋台は市場の東端にあった。


 表向きは香辛料の仲買だった。縦に長い木の棚に、色とりどりの粉と実と皮が並んでいた。サフランの黄、クローブの黒、コリアンダーの淡い緑。それ自体は本物だったが、カリームの本業は別にあった。情報を売っていた。欲しい者には香辛料より高く売れる商品だった。


 カリームは小太りで、陽気で、必要なときだけ陽気でなくなった。ヤスフが近づくと、量りを操作しながら目だけ動かし、周囲を確認した。それだけで二人の会話の準備は整った。


「子供か」と彼はヤスフの話を聞いて言った。「東の子供、木の板、煙の船。それだけか」


「それだけだ」


 カリームは干しイチジクを一つ口に入れた。噛みながら考えた。目が泳いでいるように見えて、実は泳いでいない。それがこの男の考える顔だった。


「三年前」と彼はやがて言った。「ホルムズ海峡を通った船乗りから聞いた話がある。海の向こうの、どこかの王国で、何かが起きたらしい」


「何か」


「分からんから何かと言っている」カリームは不服そうに言った。「ただ、その王国から人が消えた。大勢。一晩で。戦でも疫病でもなく、消えた。朝になったら、いなかった。そういう話だ」


「誰から聞いた」


「その船乗りはもういない。別の話で死んだ」カリームは肩をすくめた。「俺が売るのは話だけで、裏付けは売っていない」


 ヤスフは銅貨を一枚置いた。カリームは受け取らずに屋台の縁を指で叩いた。もう一枚置いた。カリームは今度は受け取り、仕事に戻った。


 廃屋に戻ると、子供が起きていた。


 毛布の上に座り、膝の上に木の板を置き、じっとそれを見ていた。ヤスフが入ってきても視線を上げなかった。昼の光の中で板を見ると、夜よりも複雑だった。地図のようにも、星図のようにも、あるいはまったく別の何かのようにも見えた。刻まれた線が光と影で表情を変え、見る角度によって全く違うものに見えた。


 ヤスフはしゃがんで、子供と目線の高さを合わせた。


「名前は」


 アラビア語で言い、ギリシャ語で言い、ペルシャ語で言い、それからヒンドゥスターニー語で言った。他にも二つ三つ、試せる言語は試した。


 子供はそのどれにも反応しなかった。


 しかし最後の言葉が空気に溶けたとき、子供はゆっくりと顔を上げた。黒い、暗い水の色をした目が、ヤスフを見た。それから口を開き、何かを言った。ヤスフには分からない言葉だったが、今度は最初の夜より少し長かった。文の形をしているようにも聞こえた。そして語尾が、また、あの響きで終わった。人の名前の語尾の響き。


 ヤスフはその音を口の中で繰り返した。タキ、タギ、タシ。どれも合っているような、全部外れているような。


 子供は、ヤスフが繰り返すのを聞いて、初めて表情を変えた。


 泣くのだと思った。違った。笑うのでもなかった。それはもっと静かな変化で、長い間張り詰めていた何かが、ほんの少しだけ緩んだような顔だった。見知らぬ場所で、一つだけ知っているものを見つけた者の顔だった。


 そのとき、裏口が開いた。


 足音は聞こえなかった。ただ気づいたら戸口に人が立っていた。細長い男だった。背が高く、肩幅が狭く、手足が長い。四十に届くかどうかという年で、顔の彫りが深く、どこの出かが判然としなかった。それは意図的な曖昧さで、ヤスフはそう確信していた。この男のそういうところを、かつて尊敬し、かつて憎み、今は諦めていた。


 ヤスフは心の中でこの男をハジブと呼んでいた。「隠す者」という意味のあだ名で、本人は知らない。本名もヤスフは知らない。出自も、母語も、なぜ今もこうして現れるのかも知らない。知っているのは、この男が現れるときは必ず何かが動くということだけだった。


 男は入ってきた。ヤスフを見た。子供を見た。木の板を見た。


 沈黙があった。


「厄介なものを拾ったな」とハジブは言った。アラビア語だったが、母語ではなかった。


「拾ったんじゃない」とヤスフは言った。「呼ばれた」


 ハジブはまた沈黙した。短く。それから外を振り返った。


「船の手配ができた」


「話が早い。どこへ行く気だ」


「東だ」とハジブは言った。「もっと東だ。お前が行ったことのない東だ」


 後ろにもう一人いた。


 女だった。年はヤスフと近い。褐色の肌、黒い目、堂々とした立ち方。商人の衣をまとっていたが、その下に何かを隠し持っている人間の重心をしていた。名乗らなかった。ハジブも紹介しなかった。二人の間に、説明を必要としない種類の緊張があった。


 女は子供を見た。子供は女を見た。


 それから子供は、また何かを言った。


 ハジブが、初めて、動揺した顔をした。


 女は一歩前に出て、子供の前にしゃがみ、子供と同じ言葉で何かを答えた。短い言葉だった。しかし子供の顔が、その言葉を受けて、また変わった。今度は緩むのではなく、引き締まった。何かを決めた者の顔だった。


「この子が言っていることが分かるのか」とヤスフはハジブに向いて言った。


 ハジブはしばらく答えなかった。


「分かる」とやがて言った。「ただ」


 そこで止まった。


「ただ、なんだ」


 ハジブは子供を見たまま、低く言った。


「分かれば良かったと言えるような話では、ない」


 外では驢馬が鳴き、誰かが笑い、波が石を叩いていた。世界は何も知らないように、今日も騒がしく続いていた。

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