十 島と、島が覚えていること
今思えば、子ってつくから煙子は女の子に思われそうだけど普通に10歳ぐらいの男の子です。
島があった。
夜明けに近づくにつれて、それが雲でないことが分かってきた。低く、横に長く、緑が濃かった。カマルッディン老人は海図を出して、何度も見比べて、それから首を振った。書かれていない、という意味だった。書かれていない島は、誰も来ない島か、誰かが来てほしくない島か、どちらかだとヤスフは思った。
煙子が船首に立って、島を見ていた。
いつもの、記録するような目の動き方ではなかった。もっと内側に向いた目だった。見ているのではなく、思い出そうとしているような目だった。板を胸に抱えて、眉間に皺を寄せて、島の輪郭をなぞるように視線を動かしていた。
「寄るか」とヤスフはザイナブに言った。
「水が残り少ない」とザイナブは言った。「どのみち寄る必要がある」
ハジブは何も言わなかった。反対もしなかった。それが賛成と同じ意味だということを、ヤスフはもう知っていた。
島に近づくにつれて、匂いが変わった。
濃い緑の匂いと、湿った土の匂いと、何かの花の匂いが混じっていた。名前の知らない花だった。甘くはなかった。しかし嫌な匂いでもなかった。誰も来ない場所の匂いというのがあるとすれば、こういう匂いだとヤスフは思った。手が入っていない匂い。人間に整えられていない匂い。
船を浅瀬に留めて、小舟で上陸した。
砂浜は白く、足が沈んだ。煙子は砂浜に足をつけた瞬間に止まった。下を見た。足の下の砂を見た。それから足で砂を掘るような動作をした。砂が湿っていた。水が近くにある証拠だった。カマルッディン老人が頷いた。
内陸へ少し入ると、小さな流れがあった。
岩の間から湧いている水で、澄んでいた。ザイナブが水を汲み始めた。老人が手伝った。ヤスフは周囲を見た。人の痕跡がないか確かめる習慣だった。
あった。
流れの近くに、石が積んであった。自然に積まれた形ではなかった。誰かが意図して積んだ形だった。高さは膝ほどで、てっぺんに平たい石が一枚乗っていた。祠か、墓標か、あるいは単なる目印か。表面に何かが刻んであった。
煙子が走ってきた。
走ってきて、石の前にしゃがんだ。刻まれた文字を見た。板を取り出して、見比べた。見比べながら、小さな声で何かを言い始めた。読んでいた。石の文字を、声に出して読んでいた。
全員が煙子の周りに集まった。
煙子は読み続けた。長かった。短い文字列に見えたが、読み解くのに時間がかかっていた。時々止まった。止まってから板を見て、また続けた。板が補助になっていた。辞書のように使っていた。
読み終えて、顔を上げた。
ヤスフを見た。ザイナブを見た。それからハジブを見た。ハジブを見たのは、珍しかった。この子供がハジブをまっすぐ見たのは、初めてだった。
ハジブが一歩前に出た。
煙子は板を持ったまま立ち上がり、ハジブに何かを言った。長くはなかった。短い、はっきりした言葉だった。
ハジブは動かなかった。
「何と言った」とヤスフはザイナブに聞いた。
ザイナブは少し間を置いた。
「ここに来たことがある、と言っている」とザイナブは言った。「昔、この島に来た。石を積んだのは自分の一族だ、と」
沈黙があった。波の音だけが続いた。
「いつの話だ」とヤスフは言った。
「聞いてみる」ザイナブは煙子に向かって何かを言った。煙子の言葉をザイナブが部分的に理解できること、あるいはどちらかが少しずつ相手の言葉を覚えてきていることを、ヤスフはこの旅の途中から感じていた。二人の間の距離が、言葉の上でも縮まっていた。
煙子はザイナブの問いに答えた。
ザイナブはしばらく考えてから言った。「自分が生まれる前の話だ、と言っている。一族がここを通った記録が、板に書いてある、と」
ヤスフは板を見た。三層の文字を持つ板。月の光で見える文字、水に濡れると見える文字、そして表の文字。その全てが、この子供の一族の記録だとすれば。
カマルッディン老人が石に近づいて、刻まれた文字を観察した。
「古い」と老人は言った。「百年より前だ。もっと前かもしれん。しかしきちんと残っている。この石の質が良いからだ。意図して選んでいる」
「石を選んで積んだ者は、百年後もここが残ることを知っていた」とハジブが言った。
「あるいは、百年後に誰かに読んでほしかった」とヤスフは言った。
煙子はまた石の前にしゃがんだ。
今度は読まなかった。ただ見ていた。指で、刻まれた文字の一つをなぞった。老人が板を拭いたときと同じ動作だった。丁寧に、ゆっくりと。指先で文字の形を確かめるように。
その手が、小さく震えていた。
泣いているのかと思った。違った。泣いていなかった。ただ、震えていた。こらえているのではなく、震えそのものだった。感情が大きすぎて、出口が見つからない者の震え方だった。
ヤスフは何もしなかった。隣にしゃがんだ。それだけだった。
しばらくして、煙子は立ち上がった。
島の内側を指差した。まだ先があると言っていた。行こうと言っていた。ヤスフは立ち上がり、ザイナブを見た。ザイナブは頷いた。老人はもう歩き始めていた。
ハジブだけが動かなかった。
島の入口の方を見ていた。来た方向を見ていた。ヤスフも同じ方向を見た。何もなかった。船があって、海があって、水平線があった。
「どうした」
「何でもない」とハジブは言った。そう言いながら、まだ同じ方向を見ていた。
「何でもなくない顔だ」
ハジブはそこで初めてヤスフの方を向いた。
「アデンを出るときから」とハジブは静かに言った。「後ろに何かいる気がする」
ヤスフは水平線を見た。何もなかった。しかし何もないということは、何もないということと、同じではなかった。
「マンスールか」
「分からん」ハジブは言った。「ただ、気配がある」
風が来た。島の内側から吹いてくる風で、緑と花と湿った土の匂いがした。煙子がこちらを振り返って、早く来いというように手を動かした。子供が大人を急かすときの、少し遠慮のない動き方だった。
ヤスフはハジブに言った。
「行こう。止まっていても来るものは来る」
ハジブは少しだけ間を置いて、歩き始めた。
島の内側へ入るにつれて、緑が濃くなった。足元に根が張り出していた。鳥の声がした。名前を知らない鳥の、聞いたことのない声だった。煙子はその声を聞いて、また立ち止まった。
空を見上げた。
鳥は見えなかった。声だけがあった。煙子はしばらく声を聞いていた。その顔に、今朝の島を見たときとは違う表情があった。さっきは思い出そうとする顔だった。今は、思い出した顔だった。
煙子が小さく言った。
言葉ではなかった。音だった。鳥の声を、そのまま口にしたような音だった。
するとその鳥が答えた。
木の向こうから、同じ音で答えた。煙子がまた言った。鳥がまた答えた。それが何度か続いた。
誰も何も言わなかった。
ヤスフはただ聞いていた。子供と鳥が、誰にも分からない言葉で話していた。あるいは話してはいなかったが、何かを交わしていた。この島が覚えていた何かを、鳥がこの子供に渡していた。そういう時間だった。
やがて鳥の声が止んだ。
煙子は空から目を下ろした。板を見た。それからまっすぐ前を見た。
歩き始めた。
迷いのない歩き方だった。この島を知っている者の歩き方だった。
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