九 東の果てと、果てに果てはないこと
コーリカットを出たのは、翌朝だった。
商人の家の子供たちが桟橋まで見送りに来た。煙子は船に乗り込んでから、振り返った。振り返って、手を上げた。見送りに来た子供たちも手を上げた。それだけだった。言葉は何もなかった。言葉がなくても十分だった。船が動き始めると、煙子は前を向いた。振り返らなかった。ヤスフと同じ習慣を、この子供はいつの間にか持っていた。
カマルッディン老人の海図が、コーリカットを境に変わった。
それより西の海図は何度も継ぎ足された古いものだったが、東側は紙が新しかった。書き込みが少なかった。余白が多かった。余白の多い海図というのは、知らないことが多い海図だということだった。老人はその海図を、西側より丁寧に扱った。丁寧に扱うものは、たいてい、不確かなものだった。
煙子が老人の海図を覗き込んだ。
老人は止めなかった。煙子は海図の東側を、指でなぞった。なぞりながら、何かを探すような目をしていた。ここだ、という場所を探していた。指が止まった。止まった場所に、老人の書き込みはなかった。何もない余白だった。煙子はその余白を、しばらく押さえていた。
老人はそれを黙って見ていた。
ヤスフも見ていた。
煙子が指を離した。何も言わなかった。板を抱えて、船首の方へ歩いていった。老人はヤスフを見た。ヤスフも老人を見た。言葉はなかった。しかし二人の間で、同じことが確認された。目的地は、海図の余白の中にあった。
その日の午後、ハジブが珍しく甲板の端に来て座った。
海を見ていた。いつも船の内側にいる男が、外を向いていた。それだけで何か違った空気があった。ヤスフは隣に座った。しばらく二人で海を見た。
「マンスールのことを話す」とハジブは言った。
唐突だった。しかしハジブの話は常に唐突だった。準備を与えない。それが意図的なのか習慣なのか、ヤスフにはまだ分からなかった。
「聞く」とヤスフは言った。
「マンスールは板のことを知っている」ハジブは海を見たまま言った。「知っているというより、探していた。長い間、探していた」
「なぜ探していた」
「板に書かれた場所に、あるものがあるからだ」
「あるものとは」
ハジブは少しだけ間を置いた。
「王国の記録だ」とハジブは言った。「三年前に消えた王国の、全ての記録だ。誰が生まれ、誰が死に、誰が何をしたか。何百年分もの記録が、その場所に保管されている」
ヤスフは黙った。
「それがなぜそれほど価値がある」
「記録がある者は、正統性を持てる」ハジブは静かに言った。「その王国の後継を名乗れる。土地を取り戻せる。あるいは別の国を作れる。記録というのは、剣よりも長く、金よりも重い場合がある」
「マンスールはその王国の後継を名乗ろうとしているのか」
「マンスール自身は違う」ハジブは首を振った。「マンスールは誰かに頼まれている。誰かが、その記録を手に入れたがっている。あるいは、誰にも手に入れさせたくない者がいる。どちらかはまだ分からん」
ヤスフは煙子を見た。煙子は船首で、海を見ていた。風で髪が解けかけていた。ザイナブが結んだ紐が、緩んでいた。
「この子供は」とヤスフは言った。「その王国の人間か」
「分からん」
「本当に分からんのか」
ハジブは初めてヤスフの方を向いた。
「本当に分からん」ともう一度言った。「ただ、板を持っている。板の文字を読める。それだけが分かっていることだ」
沈黙があった。インド洋の風が来た。温かく、湿った風だった。コーリカットより東の風は、また少し違う匂いがした。陸の匂いではなく、どこかに陸があることの予感のような匂いだった。
その夜、煙子が夢を見た。
うなされていた。小さな声で何かを言いながら、体を丸めて、毛布を掴んでいた。ヤスフが気づいて、肩を軽く揺らした。煙子は目を開けた。夢の中からまだ抜け出しきっていない目をしていた。どこにいるか分からない目だった。
ヤスフは煙子の目が戻ってくるまで、そこにいた。
煙子は少しずつ今に戻ってきた。甲板を見て、星を見て、ヤスフを見た。それから長く息を吐いた。子供が悪夢から覚めたときの、安堵と残滓が混じった息の吐き方だった。
「眠れるか」とヤスフは聞いた。
煙子は少し考えてから、頷いた。頷き方がはっきりしていなかった。眠れると言いたいが、まだ少し怖い、という頷き方だった。
ヤスフは煙子の隣に横になった。
星を見た。インド洋の東側の星は、また少し並びが変わっていた。知っている星が減り、知らない星が増えていた。東へ行くほど、夜空が変わっていった。それは当たり前のことだったが、実際に経験するたびに少し驚いた。星まで変わる、と思った。
煙子がまた眠り始めるのを、ヤスフは聞いていた。
寝息が深くなった。今度は夢を見ていないようだった。穏やかな寝息だった。子供の寝息というのは、大人のそれとは違う音がする。もっと無防備で、もっと信頼に満ちた音がする。その信頼が誰に向けられているかなど、眠っている間は考えないのだろうと思った。
目の前の星が、ゆっくり動いていた。
船が進んでいるからだった。星が動いているのではなく、こちらが動いていた。いつもそうだった。動いているのはいつも自分の方で、世界は静止していた。それでも星は動いて見えた。見え方というのは、現実とは関係がなかった。
東の水平線に、かすかな陸の影があった。
島か、岬か、あるいは雲か。ヤスフには判別できなかった。カマルッディン老人の海図には何も書かれていない場所だった。しかし確かに、何かがあった。
煙子の寝息が続いていた。
板が、煙子の胸の上で、静かに光を受けていた。星の光だった。月はまだ出ていなかった。水に濡らしてもいなかった。それでも板は、この暗さの中で、何かを主張しているように見えた。
気のせいかもしれなかった。
ヤスフはそう思いながら、目を閉じなかった。
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