序 海の果ての煙
煙が見えたのは、夜明け前のことだった。
アレクサンドリアの港は、まだ眠っていた。荷役の男たちは波止場の石畳に転がり、魚売りの老婆は籠を抱えたまま壁にもたれ、番犬すら鼻先を前脚に埋めて動かない。潮の匂いと腐った果実の匂いと、どこかで焚かれた香木の煙が、夜の澱んだ空気の中で層をなしていた。
だが沖を見ていた男だけは、起きていた。
男の名をここでは仮にヤスフと呼ぼう。本名は別にあったが、その名を口にする者はもうこの港には一人もいなかった。三十をいくつか過ぎた頃合いで、日焼けした顔に深い皺が刻まれ、左の耳たぶが半分ない。失った経緯を尋ねた者はこれまで何人かいたが、満足のいく答えを得た者はいなかった。
ヤスフは防波堤の突端に腰を下ろし、両脚を石の縁からぶらりと垂らし、水平線をじっと見ていた。手には何も持っていなかった。飲みかけの酒杯すら置いてきていた。
煙は細かった。糸ほどの細さで、しかし確かにそこにあった。水平線よりわずかに手前、夜と海の境目が曖昧になるあたりから、空へ向かって真っ直ぐに立ち上っている。風がないから揺れない。ただそこに在る、というように。
難破船か、とヤスフは思った。
だが難破した船が出す煙というのは、ああいう煙ではない。助けを求める煙はもっと横に広がり、焦りと絶望の色をしている。あの煙は違う。静かすぎる。まるで誰かが、見せようとして焚いているような煙だった。
誰かが。
自分に向けて。
その考えが頭をよぎった瞬間、ヤスフは立ち上がっていた。理由を言葉にする前に身体が動いた。それが長年の習慣だった。考えてから動く人間は、概して長生きしない。少なくとも、彼が生きてきた場所ではそうだった。
港の外れに、昼間は帆の修繕をして糊口をしのいでいるコプト人の老人がいた。小舟を一艘持っていて、頼めば貸してくれる。余分な質問をしない代わりに、余分な金を要求する。悪い取引ではなかった。
ヤスフが老人を揺り起こすと、老人は片目だけ開けて金額を言った。ヤスフは言われた金額の半分を懐から出して老人の膝の上に置いた。残りは戻ったときに、という意味だった。老人はまた目を閉じた。
夜の海は黒かった。オールを漕ぐたびに水面が割れ、暗い光がそこから零れるようだった。ヤスフは無心に漕いだ。背中で街が遠ざかっていった。アレクサンドリアの灯が、一つ、また一つと闇に溶けた。
煙はまだあった。近づくにつれて、それが確かに意図を持って焚かれていることが分かってきた。燃えているのは船ではなく、小さな鉄の器か何かだろう。かすかに香の匂いがした。異国の、嗅いだことのない香だった。
やがて暗がりの中に、船の輪郭が浮かび上がってきた。
小さな船だった。商船でも軍船でもない。外洋を渡ってきたにしては貧相で、しかしそのわりに奇妙なほど損傷がなかった。帆は畳まれ、船は漂うともなく漂っていた。甲板に人影は見えない。
ヤスフは舟を横づけにして、立ち上がり、船縁を掴んだ。
甲板に上がると、鉄の小器が船首近くに置かれ、その中で何かが静かに燃えていた。煙はそこから来ていた。器の周りに、小さな石が円を描くように並べられていた。
そして石の円の中心に、一人の人間が横たわっていた。
子供だった。
いや、子供かどうかも、最初はよく分からなかった。まるで別の時代から切り取られてきたような、奇妙な衣をまとっていた。顔は小さく、肌の色は見たことのない色をしていた。東か、もっと東か。ヤスフが知っている東の果てよりも、さらに向こうから来た者のような。
ヤスフがしゃがんで顔を近づけると、その目が開いた。
黒い目だった。しかし黒というより、暗い水の色をしていた。その目が、ヤスフを見た。見た、というより、確認した、という感じだった。ずっと待っていた相手がようやく来た、とでもいうように。
子供は、ヤスフの知らない言葉で何かを言った。
言葉は分からなかった。だが最後の一音だけは、どこかで聞いた覚えがあった。
それは人の名前の、語尾の響きだった。
ヤスフはしばらくその目を見つめ、それから空を見上げた。東の空が、ごく薄く、白み始めていた。長い旅の始まりがいつもそうであるように、何の前触れもなく、静かに。
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