汝、偽るなかれ
自分とメーガン以外を閉め出した撞球室で、ジョーカーは冷たい目をしていた。
こういう時の彼には、誰も近づかない。日頃、物腰穏やか、王子らしい振る舞いを心がけているが、オスカー・J・ドラクロワをよく知る人物は、皆こう言う。
あれは仮面だ。本当の彼は、冷たい氷のような人間。
ただ唯一、その氷を溶かす相手がいる。
「貴方がたの望みは分かっています」
「……望み、ですか?」
ジョーカーは窓際に立ち、闇に染まるクレーヴァー領を見つめる。まとう空気があまりにも冷たくて、メーガンは息苦しさのようなものを感じていた。
「側妃になりたいのでしょう?」
「…………」
あまりにもお粗末な芝居ではあるが、目撃者もいる。嘘であれ真実であれ、噂と言うものは驚く程の速さで、挙句、尾ひれは何枚も付いてしまう。
ジョーカー自身は、そんな噂屁でも無いが、王子と言う肩書きがある。責任だとか、そういう話になるのだろう。伯爵家の望む通りの展開だ。
「いいですよ。貴女を側妃に迎えても」
「え……」
断られると思っていたのだろう。当然だ。
だが、ジョーカーが口にしたのは正反対の答え。
「側妃に迎えても良い。そう言ったんです」
「…………」
「喜ばないんですか? 貴女の――ご両親も望んでいる」
ようやく、ジョーカーがメーガンを見た。
その瞳があまりにも冷たくて、メーガンは息を呑む。
こんな目を向けられたのは、はじめただ。見つめているだけで、凍ってしまいそう。
「ただし、期待はしないことですね」
「どういう……意味ですか?」
「私は貴女を愛さない」
ジョーカーは、ハッキリとそう告げた。
「妻以外の女に触れるなんて……おぞましい」
嫌悪感をあらわにしたジョーカーに、メーガンの視線が迷う。
どこを見ればいいのか、分からない。目の前のジョーカーは怖くて直視できないし、かといって助けを求める相手もいない。自分で、自分の心を口に出すしかないのだ。
「貴女が欲しいのは、側妃の座だ。欲しいならあげますよ。ただ、誰も貴女を歓迎しない」
責任を取れと言うのなら、取るだろう。ジョーカーは王子だ。
その地位に見合った生き方をする。
だが、ジョーカーがメーガンを愛する日は永遠に来ないだろう。側妃の地位を得ても、彼女はヴァールハイト王国の誰にも歓迎されない。
ジョーカー自身が、望んで迎え入れるわけではないのだ。与えられるのは側妃の地位と、それに見合った屋敷、使用人、お金。
けれど、彼女の人生は虚しいものになる。外側だけを取り繕って、中身は空っぽ。
「で、殿下、私はただ……」
「私は元々、この伯爵家に対して怒りにも似た感情を抱いています。それが今は、個人に向けられている」
本当なら、メーガンと話すよりも先に、気遣いたい相手がいる。
だが、問題は早期対応が重要。後回しにすれば、事態はややこしくなりかねないから。
「分かりますか? 貴女の所為で、妻が傷ついた」
ロザリンドは、ジョーカーの不貞を疑ってはいない。
とは言え、ジョーカーは男で高貴な身分。側妃やら愛人やらが出てくる可能性は大いにある。
ロザリンドも、それは重々承知。
そういう相手に嫁いだのだから。
それでも一瞬、彼女の瞳が揺らいだ。
その瞬間を、ジョーカーが見逃すはずがない。
「で、ですけど! ロザリンド様は、殿下がお決めになれば――」
「私の妻は、ロザリンドただ一人だ。他はいらない」
ジョーカーの瞳は、相も変わらず冷たい。メーガンの気持ちなどどうでもいい。大切なのは、ロザリンドだけ。
こうまでハッキリした人間が、この世に存在しているなんて……。
「それに、妻の存在が無くとも、貴女のような女性とは結婚しない」
「――!」
メーガンが傷ついたような顔になるが、ジョーカーは気遣う素振りも見せない。
「貴女には、伯爵令嬢としての誇りも、品性もない。こんな汚い方法で側妃になろうとするとは……メーガン・プレスコット嬢。よくお考えください。一生、誰にも敬われることなく、日陰の人生を歩むのかどうかを」
ジョーカーはそれだけ言うと、撞球室を出て行く。残されたメーガンは、震えていた。
「………………っ」
声を押し殺し、瞳から零れ落ちたのは大粒の涙。
それは、ジョーカーの言葉に傷ついているからなのか、それとも己の浅はかさを悔やんでいるからなのか。
どちらにしろ、両親やこの屋敷の使用人は慰めてくれるだろう。
だが、ジョーカー達は一瞥すらしない。彼らにとって、この国は対等の相手ではないのだ。
そもそも、ヴァールハイト王国は中央大陸で最も強大な国。国土も人口も、軍事力も、ありとあらゆるものが他国を上回る。隣国は従い、忠誠を尽くす。
そんな中、どうしてエヴィエニス王国と同盟を結ぼうと思ったのか――。
話は単純。ジョーカーが望んだからだ。国王である父も、王太子である兄も、了承してくれた。
そして、ジョーカーが同盟を結ぼうと思った理由はただひとつ。
ロザリンドが望んだから。
ジョーカーの心は、既に決まっている。
ロザリンドは今も、眠れない夜がある。食事を完食できないことも、日常茶飯事。水だって、満足に飲めない。
だから、壊してしまいたい。彼女が安心して眠れるように。毎日、食事をできるように。
ふたりの部屋、ロザリンドは窓際で夜のクレーヴァー領を眺めていた。2年程前までは、普通に夜は眠っていた。
でも今は、眠れない夜を過ごす日の方が多い。軍医のテオドールに睡眠薬を使おうか相談してみたが、彼はイエスと言わなかった。理由を問えば、ジョーカーが処方しないよう指示していたから。
ジョーカーは過保護なのだ。
「妃殿下――殿下がお戻りです」
アシュレイの報告を聞きながら、ロザリンドの視線を窓の外に向いたまま。アシュレイもエリオットも、気を使って部屋の外に控えている。
「ロザリー」
妻のそばに歩み寄り、名を呼ぶ。
「話は済んだの?」
視線を向けないまま、ロザリンドは落ち着いた声で尋ねる。
その声に、怒りはない。出会った当初は気づかなかったが、ロザリンドは感情を隠すのが上手い。怒りを微笑みで押し殺すことも、悲しみを目で訴えることもできる。
「あぁ、済んだ」
「そう。……私の心は鋼、この身は鎧で覆われている。だから、誰の言葉にも動じないし、裏切られてもこの心は壊れない。けど……」
ロザリンドの手が、ジョーカーの手に触れる。
「あの約束を、覚えてる?」
「あぁ、覚えてるよ。もしも、俺がお前を裏切る日が来たのなら、その時は俺の手で殺してほしい」
それは、エヴィエニス王国へ来る前、ふたりで交わした約束だ。
そんな日は永遠に来ないという確信があったが、約束した。
「……他の誰の言葉にも耐えられる。裏切られたって、平気よ。けど、貴方のそばにいると、この鋼の心が溶けていく。固く閉ざした鎧が、音を立てて崩れていく」
落ち着いた声は、震えていない。語るように、歌うように、ロザリンドは言葉を紡ぐ。
「世界中の誰に裏切られたっていいわ。でも貴方に裏切られたら、この心は壊れてしまう」
「そんな日は来ない。何度も言っているだろう?」
「未来は不透明よ。私だって、ヴァールハイト王国の王子に嫁ぐなんて、予想もしていなかった」
ジョーカーを見つめれば、彼は困ったような顔をしていた。困らせたかったわけじゃないが、心を偽りたくはない。思うだけではダメなのだ。言葉にしなくては、伝わらない。
「だからジョーカー、約束を忘れないで。忘れないでいてくれたら、貴方のすべてを信じるわ。嘘も真実も、信じる。側妃を迎えてもいい」
「……メーガン嬢を側妃に迎えることはない。必要なのは、お前だけだ。ロザリンド」
「信じるわ。貴方のすべてを、信じる。だって貴方は、私の名前を呼ぶもの。そうでしょう?」
「あぁ、当然だ。お前の名前はロザリンド。オスカー・J・ドラクロワの妻・ロザリンドだ」
ロザリンドが頬笑むと、ジョーカーは自身の妻にキスを贈った。ロザリンドは身動きせず、当然のように夫からのキスを受け取る。
「約束を――忘れないで」
ロザリンドは、静かに瞼を閉じる。
このキスを受け取る特権を得ているのは、世界中で自分だけだ。誰にも、あげない。




