8
この世に、この世界に絶望したかと問われれば、否だとおもう。
絶望したのは、自分自身だ。
この身だ。この命だ。使命だ。運命だ。
死んでも束縛から逃れられない。終わりのない、鉄の鎖の連鎖。
ならば、生きればいいと、あの声は言った。
抗えと。それが唯一お前にできる、贖いだと。
崖から落ち、海の中で聞こえたあの声とは違う。
消えてしかるべきものではない。
半蔵なら、一彦ならそういうだろう。
そう言ってくれるだろう。
うぬぼれるのは勝手だ。
そうだ、これは「自己意識」に他ならない。
うぬぼれ、自意識過剰だとののしられても、それは倫之助の自我が芽生えた証だ。
伝えていない。
応えていない。
目を開ける。見慣れぬ天井が見える。
しっかり生きなければ。
死ぬのは、それからでなくてはならない。
もうじき、朝になる。
まだ、すべて失ってはいない。
人類の歴史は、滅びではない。生だ。生きることだ。
それが紡がれることを望んでいる。
それが答えだ。
観測者としての。そして、沢瀉倫之助という存在としての。
「いいや――」
違う、と声が聞こえる。
みし、と家鳴りのような音が聞こえた。
倫之助は飛び起きるようにして体を起こす。
「……カガチか」
「そうも呼ばれていた。だが、もうその意匠はこの世にあらず」
「……?」
「カガチの器はお前だ。だが、かたちはすでにあらず。服部家の末裔が焼き尽くしたのだ」
「おまえは……誰だ?」
男の声だ。
だが、この家には倫之助を助けてくれた壮年の男性しか知らない。
彼の声でもないのは確かだ。
「誰、という問いには答えられない。いや、当てはまらない。この世のすべての言葉をもってしても。だが、何、と問われれば、カガチの残滓、蛇の呪い、怒り。そういったものに当てはまる」
「……お前は、俺たちの敵か」
うす暗い部屋の中で、その姿を見ることはできない。
だが、亡霊のようにぼんやりとした声は、たしかに不気味ではある。
「敵か、味方か。それは万華鏡のように変わる。だが、今のお前にとっては敵というべきだろうな。今の私は。カガチは、もはやただの残滓になり果てた」
「……どういうことだ」
「言っただろう。服部家の末裔が焼き尽くした、と」
「カガチは……死んだのか」
「カガチに死という概念はない。だが、お前たち人間の言葉にするならば、カガチは死んだ。そして、呪いと怒りが生まれた。それがこの私という存在だ。それ故――怒りのため、呪いのため、全ての人間を処刑することを選んだ」
ゆら、と揺らいだ男の声。
その亡霊のような男の存在は、ここから消え去ったようだった。
倫之助は少しの間、その意味を思考していたが、すぐに背中に違和感を感じた。
背中の、あの痣がない。
そう鏡もないのに、見えもしないのに理解する。
カガチは確かにいなくなったのだ、と。
そして、あの男は服部家の末裔がカガチを焼き尽くした、と言っていた。
あの強大な力をもつカガチを。
倫之助でさえ、制御しきれなかったものを。
「半蔵……!」
カガチを殺して、無事で済むわけがない。
だが、男は半蔵のことをなにも言わなかった。
無事だとも、無事ではないとも。
すぐに半蔵に会いに行きたかったが、東京までは100キロはあるという。
歩いて行ける距離ではない。
携帯もない。
ぐっと手を握りしめる。
握りしめても、何もできはしないことは知っている。
「沢瀉くん? どうかしたのか?」
思いのほか大きな声を出してしまったのか、襖から倫之助を助けてくれた男性が顔を出した。
「……すみません。今すぐに、東京に行かなければいけない用事ができました。……ありがとうございます。親切にしてくださって」
「東京だって? 走っても、いつつくか分からないぞ」
倫之助は立ったまま、ふいに思いだした。
着替えはまだ乾いていない。靴も。
けれど、構ってはいられない。
「仕方ないな。せめて、服を乾燥機で乾かしてからだ。車を出してあげよう。車なら、それほどかからないはずだ」
「……ですが……そこまで」
「いいんだよ。服が渇くまですこしかかる。それまですこし休んでおくといい」
「――ありがとうございます」
襖を閉じて、男性は乾燥機のある部屋へ向かったようだ。
ひとり残された倫之助は、天井を見上げるようにしてにらむ。
眼鏡がないので、殆どなにも見えないが、暗闇がよく見えた。
あの声。
あの男の声が耳にこびりついている。
感情もなにもないような、声。
ただカガチの残滓だという、あれのいうことを信じるならば、カガチは本当に死んだのだ。
半蔵――。
彼がなにをしたのかは分からない。
カガチを殺せるような力を持っているのかどうかさえ、倫之助には分かっていない。
だが、なにかがあるとすれば、半蔵が倫之助の前から姿を消していたとき、何かをつかんだのだろう。
それから数十分後、車を出してくれた男性に、倫之助は礼を言うことしかできなかった。
けれど男性は笑って、そんなにかしこまられたら、こっちが照れてしまう、とハンドルを切った。
男性は何も聞かなかった。
なにも。
あるいは、なにかを感じ取ったのかもしれない。
車の行き来がすくない道路を、走って行く。




