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「ありがとうございます」
「ああ、気にすんな。おまえより、一応給料はいいからな」
どこか楽しそうに一彦は笑った。
紙袋のなかには、箱に入ったスニーカーがある。
「……あら」
スターバックスの前を通り過ぎようとしたとき、聞いたことのある声が聞こえた。
雛田馨だ。
長い髪の毛を紫色のりぼんで結った少女は、立ち止まった倫之助を見つめた。
「沢瀉くん。久しぶりね。最後に会ったのは夏だったかしら。聞いたわよ」
カラーコンタクトレンズをしている不自然に青いその眼は、ねっとりとした視線で、足から頭まで見据える。
どこか様子がおかしい。一彦は眉をかすかに寄せて、倫之助の前に出ようと足を踏み出した。
「蝶班が壊滅状態だってね。笑っちゃうわ。でも、そうよ。あなたはそうでなくちゃ。亡霊のように、誰にも認識されない。そんな存在なんだから。あなたは」
「……なんだお前は?」
「あら。あなたは確か……蝶班のかたでしたね。学校で見たわ」
「覚えてもらっていて光栄だが、お前……」
「そんなにじろじろ見ないでくださる? 私は紫剣総合学園首席候補なのよ。沢瀉くんより上なの」
カラーコンタクトレンズでうまく隠されているが、その奥の目はどす黒く、濁っているようにも見えた。
「上とか下とか、くだらないこと、まだ言っているんだね。雛田さん」
「あなたはまだわからないの? 風彼此使いはただの守られているだけの人間じゃないの。そんな人間より上なのよ。エリート中のエリート。紫剣総合学園の首席になれば、私は将来を約束される。あなたより、断然上」
「俺には関係ないな。上にいきたければ勝手にいけばいい。俺は雛田さんの言う下でも別に構わない」
「……いつもそう。お前は。余裕ぶって、達観しているようにふるまっている。そういう所、すごくむかつく」
低い声でつぶやく。
馨は目をきつく細めて、倫之助を睨む。
「だから友達もいないのよ。言っているわ。あなたがいなくなってよかったって」
「……別にいいよ。どうでも。行きましょう、一彦さん」
倫之助は、興味を失ったように馨から視線を外し、ビルへ向かうために彼女に背を向けた。
馨もそこから去るのか、同じように背を向ける。
わずかな違和感。
一彦は、確かに感じた。だが、ほんのわずかなものだ。陰鬼を倒して、その「臭い」がついてしまっているのかもしれない。
かぶりを振り、倫之助のあとを追った。
「倫之助」
「はい」
まっすぐ歩く倫之助に追いついた一彦はその名を呼ぶが、無機質な声色が返ってきただけだった。
「なんなんだ、あの女は?」
「見た通り昇進願望のある、元クラスメイトですよ。時々、学校にいた頃ぶつかってきただけです。まあ、俺と真逆な人ですね」
まあ確かにそうだな、と一人うなずく。
だが、倫之助の黄金色の目は、どこかうす暗いものをたたえていた。
「……帰ろうか」
「そのつもりです」
倫之助の、すこし大きいカーディガンから出ている手が、かすかにふるえている。
それを見つけてしまったが、一彦は何も言わなかった。
ただ肩をぽん、と叩く。
ビルにつくまで何もしゃべらなかったが、エントランスに入ると、倫之助は頭を下げた。
「一彦さん、ありがとうございました。大切に履きます」
「ああ。……なあ、倫之助。ちょっといいか」
「? なにか……」
「俺の部屋で、話したいことがある」
「っ……」
倫之助の腕を引く。
もしかすると、痛んだかもしれない。
それでも、倫之助は黙ってそれに従った。
地下2階。
そこが、風彼此使いの居住区になっている。
そういえば、とぼんやりとする頭で考えた。一彦の部屋は、となりだったな、と。
蝶班にいたときもそうだった。
一彦の部屋は、すこし煙草のにおいがした。
特に装飾も何もない、生活感のない部屋。倫之助が言えるわけではないが。
ただ、本棚には本がたくさんあった。
「おまえ……あの女には気をつけろ」
「……気づいていましたか」
「ああ。陰鬼のにおいがする。まるで班長と……」
「そうですね。でも、もし陰鬼になっても倒すだけです」
「……そう決めつけるには、まだ早いがな。だが、おまえ……倒せるのか? 本当に」
「倒せます。倒さなければならない存在です。陰鬼は」
一彦は目をそっと伏せてから、くちびるを開けた。
「無理してないか」
「してません。それに、まだ断定したわけじゃないですし。雛田さんにとって、俺の存在というのはどうということもない存在なんでしょうね。いや、そうしたがっている、と言ったほうがいいかもしれません。彼女が言っていた亡霊という言葉。納得しましたよ。俺は、この世界に深く根付いているわけじゃない。この世界に必要なのは、俺ではない。俺の、風彼此使いという名の存在です」
「違う!」
何を、と笑われるのかと思った。
けれど、彼は笑わなかった。むしろ、反対に――怒った。
ぼんやりと、一彦を見上げた。
哀しくはなかった。
そうあるべきだと、倫之助の中のカガチが言っている。
観測者として、存在するべきだと。ヒトとして存在しても、無意味なものだと。
理由がない。
それは、倫之助にとってひどく「つらい」ものだった。
今まで悲しい、辛いなどと、思ったことはなかったというのに。
それなのに、「存在する意味」を知ったとたん、このざまだ。
「それは違う。倫之助。おまえは、俺の――」
「……やめてください。俺は、そんなことを言わせるために言ったわけじゃありません」
純粋な好意。
それを無下にしたくはない。
そうだ。
純粋な好意なのだ。濁ったものはどこにもない。そう、どこにも――。
「あなたの、好意を……無駄にしたくはないんです。俺のためにプレゼントしてくれた、その純粋な好意を」
「純粋な好意、か……」
ふいに呟いたその声色は、どこか沈んでいた。まるで、自嘲するかのような。
すこしだけ長い前髪の奥の目は、伏せられていた。
「そんなの、あると思うか?」
「え……」
「聖人君子くらいじゃないか。純粋な好意をもてるのは」
「……」
「残念ながら、人間は見返りを求める生き物なんだよ」
一彦の手が、倫之助の肩に触れる。ほんのわずかな体温だった。
だが、倫之助が息をすった直後だった。強く肩を掴まれ、そのまま――抱きこまれる。
目の前が暗くなる。
これは、何なのだろう?
一彦は、何をしているのだろう。
何を思えば、何を言えばいいのだろう。
「なに、を……」
口から出てきたのは、情けないほどかすれた声だった。




