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「血を頂戴」
耳元でささやかれた言葉は、あの日とおなじ音色をしている。
首を持って行かれそうになったが、膝を曲げてなんとか避けた。
地面を転がって、すぐに立ち上がる。
そのすぐ上で、爆発音が聞こえた。
まだ、消火されていないのだ。
上から舞ってきた燃えカスが、倫之助の目の前に弾けるように散ってゆく。
「狂うくらい何かに惹かれるって、どんな思いなんだろうな」
楊貴妃を握りしめて、ふわふわと月を歩くようにこちらへ向かってくる糸巻ういだったものを見据える。
よくわからない。
倫之助には。
狂ってしまうまでに何かを求めるその姿は、倫之助にとってどこか眩しいものだった。
「血を……」
五光班の見知らぬ男性が、陰鬼に刀を向ける。
それは、倫之助でさえ認識することが難しいくらいのスピードだった。
彼女が言いかけた言葉を、その刃が貫く。
血しぶきがぱっと散り、その華奢な体が傾いた。
だが――その体がまるでビデオの逆再生のように、元通りに戻る。
地面に散った血さえ体に吸収され、傷さえ消えていた。
「……これは……」
峰次のかすかな声が聞こえてくる。
それはどこか、感嘆ささえにじみ出ていた。
「細胞という細胞が、陰鬼とは別の何かに進化している……ということか」
「研究対象として、捕らえますか? 次長」
「できればそうしたいが。しかし、そう簡単にはいかないだろう。まずは生き残ることを優先にしろ」
「は……」
ぴしっ、という音が倫之助の耳にとどく。
地面から、それは聞こえた。
続いて地鳴りのような気味の悪い音が響く。
「これは……地鳴り? どこから……」
五光班の女性のうろたえる声に、倫之助が顔を上げる。
その直後、火災で燃えていたが未だ建っていたビルが、カマイタチで切られちたように、真ん中から切断された。
「退避しろ!!」
峰次が叫ぶ。
そのビルを「斬った」のは、誰でもない。
糸巻ういだった陰鬼だ。
土煙や火の粉が舞いちり、視界が悪い中では、陰鬼がどこにいるのかさえ分からない。
倫之助も無論その場から退避したが、それでも一気に駆け抜けるには時間があまりにもなかった。
地面に埋もれるようにビルが倒れる。
地震のような揺れを感じたが、倫之助の視線は動じなかった。
まっすぐ、「陰鬼がいる方向」を見据えている。
「さ……さす……さすが、ね」
倫之助の耳朶に直接触れるような声で、彼女は笑う。
声は途絶え途絶えだが、倫之助は、はっきりとそれを捉えた。
「糸巻うい。俺はあなたに何かをしたのかな」
語り合う。
ほぼ脳を陰鬼に支配された彼女は、それでも応える。
「し……し、したわ。あなたが血……血をくれないから。だから……採取した。分かったの。あなたがどこから来たのか……どこに行くのか……。あのヒト型の陰鬼……に血を注入した……そしたらどうなったと思う……?」
くすっと、少女のように笑う糸巻ういだったものは土煙を払い、倫之助の目の前に現れ出でた。
死神の鎌を引きずりながら、微笑んでいる。
「陰鬼はあっけなく死んだ……。沢瀉倫之助。あなたの血は、陰鬼にとっての猛毒……」
「そうか」
倫之助は特別感嘆することもなく、悲嘆することもなく、ただ頷いた。
「私だけの……実験体……のはずだったけれど、こうなってしまったら私はあなたを殺さなければ……」
「まいったな。俺はまだ、死ねないんだけど」
彼女は、死神の鎌を軽く振った。
その直後――倫之助のいた場所が、まるで地雷のように暴発する。
倫之助はすでに動いていたからか、体が千切れ飛ぶことはなかった。
「素晴らしい実験体だったわ……。潔くて、従順で。あの半蔵とかいう男がいなかったら、私はまだヒトでいられた……」
「それはあなたの思い違いだ。ヒトであることをあきらめたのは、あなた自身じゃないか」
「否定はしない……。でも、ヒトであったほうが、何かと便利だったのよ」
倫之助の背後に、ちりちりと音をたてて虚空が5振りがにじみ出る墨のように現れる。
ぼんやりとした黄金色の瞳が、上を向く。
ボロボロになったビルの破片が、倫之助めがけて降ってきた。
「そうか。あなたの風彼此は、重力を操るのか……。確かに、面倒な能力だな」
破片は虚空に弾かれて、あるいは切断されて粉々になった。
ういはカーヴを描く髪の毛を払って、にこりとほほえんだ。
「それだけじゃないのだけれど……。まあ、気にしないでおいておくわ」
「そろそろだと思うけど」
的外れな言葉。
糸巻ういだったものの、美しい表情が疑問に歪む。
ういの足元――そこから、何かが突き出た。
それは、倫之助の虚空だと理解するのに、峰次は数秒かかったようだ。
「……が……はっ」
呼吸をするように、ういは「それら」に貫かれた。
まるで、地上から這い出たつららが人体を貫くように。
血を吐き出したういの「陰鬼の体」は、貫かれたままで先刻のように再生できないでいる。
何故なら、「連続的」な攻撃に、彼女の陰鬼から進化した細胞が追い付いていないからだ。
「な……なんだと……」
愕然としたのは、五光班の班員2名だった。
その2名は、倫之助の虚空のことを知ってはいたが、5本出すことが精一杯なのだと、次長である峰次から聞かされていたらしい。
それが今――10振以上、いや、一目では何振かさえ分からないほどの、大量の虚空が出現していた――。




