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カフェは入院している人のほかにも、見舞客の姿も見受けられた。
倫之助はブラックコーヒーが飲めないので甘いカフェラテを頼んだが、半蔵は当たり前のようにブラックを頼んでいた。
ミルクをいれるのならばまだしも、倫之助にとってブラックのままのコーヒーは舌を刺激してどうしようもない。
カフェの一番奥にすわり、まだみずみずしい緑が目の前に広がっている。だがそろそろ枯れてしまうだろう。
秋になれば、必然的に。
「……坊ちゃん、本当に申し訳ありませんでした……」
「なにがだよ」
「陰鬼をあなたと見間違うなんて、あってはならないことでした」
「だからそれはいいって。別に気にしてないよ」
半蔵はアイスコーヒーを一口飲んで、息をついた。
「おまえが怪我をしたんだ。おまえが謝る必要はどこにもない」
「そうですね、自業自得ですよね」
「まあ否定はしない」
カフェラテを飲み込む。かすかな甘さが、自転車できた疲れをいやしてくれる気がした。
「そういえば糸巻さんはまだ見つからないみたいだな……」
「……見つからない?」
今日は造龍寺たちが探している筈だが、何の連絡もない。
そもそもなぜ、姿をくらませたのだろう。
半蔵の顔がかすかにゆがむ。
「別にいいんじゃないですか。見つからなくても」
「そういうわけにもいかないだろう。蝶班の班長なんだから」
「ですが、坊ちゃんの血を抜いたことは確かです。ろくなことに使っていないことも確かでしょう」
「……最初は、そういうことをするような人に見えなかったんだけどな」
実際、ういが何をしているのか分からない。
倫之助の血を何にするのかも分からない。
「半蔵」
「はい」
「おまえ、何かを隠しているだろ」
「……隠していません、とはもう、言えませんね」
半蔵はどこか諦めたように手を組んだ。
ういが行方不明の今、隠していたことをさらけ出した方がいい、と思ったのだろう。
「地下室でのことです」
「地下室は本当にあったということか」
「ええ。そのなかに、完全ヒト型の陰鬼がいたんです。赤い……液体に浸かった、陰鬼が……」
「完全ヒト型? そんなものが本当にあるのか。聞いたことはあったけど」
「はい。その波長が……糸巻ういに言わせると似ている、と」
不安そうに、そして窺うように倫之助の顔を見る。
だが、彼は何ともないように、特に興味もないように――頷いた。
「俺に似ている、ということか」
「……はい」
「半蔵。おまえ、俺が人間じゃないかもしれない、ということを知っていただろう」
「そ、それは……」
「気を使わなくてもいい。俺も分かっている。おそらく、その陰鬼というのは俺と何か関係があるんだろう。まだ、詳しくは分からないけどな」
倫之助は、自身のことをどうでもいいと思っている。
命さえ。
それが弱さだと言えばそうだろう。だが、実際そうなのだ。
無下にしている、という事が倫之助の最大の弱点でもあった。
「それでも俺は、坊ちゃんが何者であろうと、誠心誠意お仕えします」
「……分かってるよ」
カフェラテを再び飲み込む。
半蔵は決して倫之助を裏切らない。それがたとえ双方にとって不幸な結果になったとしても。
「前にも言ったけど」
汗がにじんでいるグラスを持って、目を伏せる。
「俺が本物の化物になったら……おまえが殺してくれよ」
「……坊ちゃん……」
「おまえに殺されるなら、納得できる」
「俺は、別に人間を守るために風彼此使いになったわけではありません。元から、決められていたことでしたから」
「風彼此使いは、血で受け継がれるものではないだろ」
両親が風彼此使いだといって、その子どもも風彼此使いになれるというわけではない。
一種の才能という、馬鹿げた答えにしか行きつかないのだけれど。
「偶然ですよ。もちろん。兄は風彼此使いではないですが、機関に所属しています。旦那様のいる五光の下っ端ですけどね」
「そういえばそうだったな」
「……とにかく、俺は坊ちゃんのお傍にいます。何があろうと」
話が大幅にそれて無理やり戻す半蔵はかたくなだった。
とうの昔に氷がとけてしまったコーヒーを半蔵が飲みこむ。
コーヒーのこげ茶色は、氷で薄まってしまっていた。
同じように、きっと倫之助の存在も薄まっていく。
あの高校のクラスメイトもきっと倫之助のことを忘れるだろう。
徐々に、初夏の氷のように。
「そろそろ帰る。おまえも、もう病室に戻るだろ」
「そうですね。そうします」
空になったガラスのコップを戻し、倫之助はそのまま病院の外へ出た。
蝉が必死に鳴いている。
生命が短いことを嘆くのか、と倫之助は問いかけた。
蝉は応えることなく、ただ鳴いている。
いや――命のことなど、蝉はどうだっていいのかもしれない。
人間にしたならば一瞬の命だ。憂う時間さえ、もったいないことなのだろう。
これもすべてまやかしだ。
倫之助の思う、幻にしかならない。
彼は自転車にまたがって、ビルへ戻った。
ビルまであと半分、といった距離になったとき携帯が鳴った。
倫之助は自転車から降りて、道のすみに移動してから携帯をスライドさせた。
「造龍寺だ。倫之助、おまえ、今どこにいる」
「ええっと……。目抜き通りを通り過ぎるところですが。何かあったんですか」
「ああ。糸巻さんが見つかった」
「どこにいたんです?」
「それが……ち」
ぶつっ、という音と共に、通話が切れてしまった。
無論、こちらから切ったのではない。
造龍寺は「ち」と言って、切れた。その先は言葉か、または単語か……。どちらにせよ、何かがあったに違いない。
再び自転車に乗り込んで、今度は立ちこぎでビルまで急いだ。
途中でサイレンの音が倫之助の耳を強く穿った。
県警の車、消防車がそれぞれ2台。
それらが倫之助を当然のように通りすぎていく。
倫之助の黄金の瞳には、それらはビルの方へ向かっているように見えた。
ビルについたのは、それから10分たった後だった。
「これは……」
ぼそりと呟いた言葉は、ガラスが割れる音に消し去られた。